<東京怪談ノベル(シングル)>


楔を切れ、運命の歯車よ



絹のごとき艶やかさを持つ、長い金の髪を揺らしながら、
聖獣王の娘・王女エルフィリアは潮風に吹かれていた。
灰色の雨は煙り立ち、聖都エルザードの輪郭をぼんやりと霞ませる。
見慣れた街並みが曖昧に揺らぐのを、彼女はひとり、傘の下でひっそりと眺めていた。

「妙な雨ね」

レースの傘をくるりと回して、エルフィリアはぽつりと呟いた。

「まるで、誰かが泣いているみたい」

エルザードの視察、と言えば聞こえは良い。
だが実際は、風の向くまま気の向くまま、港の方にまで足を向けたというだけの話だ。
それとも、あるいは、誰かに訪われたのかもしれない。

黒く荒々しい、白波立つ海。
遥か彼方を眺めていた彼女の目に、ふと、あるものが留まった。
港の入り口に、見たことのない豪華帆船が泊まっている。

引き寄せられるがまま、ふらふらと近づいてみた。
船は黒鉄と樫の木、麻の帆で組み上げられ、大層豪勢な造りをしている。
見るからに頑丈そうだ。この造りであれば、どんな長旅にも耐えるだろう。
ーーどこかの国の、王家の船だろうか。エルフィリアは思った。
そうでもなければ、これ程の造りを要する必要がない。

食い入るように船を眺めていたエルフィリアの目が、あるものを捉えた。
絢爛豪華な見知らぬ船の、苔生した舳先。

(ーー女性の、船首像?)

泥と潮、染みと水垢に汚れてはいるが、【それ】は間違いなく船首像だった。
美しい娘の姿をしている。これが、旅の平和を願う女神を象ったものであるとでも
聞いたなら、エルフィリアはおそらくそれを信じただろう。
それほどまでの清らかさを、その船首像は秘めていた。
しかし、何よりも気になったのは、船首像の奇怪な表情である。
船首像の顔は苦悶に喘いでいた。
まるで、何か邪悪なものから逃れようと、恐れおののいているような。

エルフィリアと、船首像の虚ろな眼差しが、ぴたりと合うーー。

「……ッ……?!」

突然、エルフィリアは激しい頭痛を感じ、咄嗟に頭を抱えた。
世界が横転する。

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『……いや! やめて!』

青い髪を引きずられながら、ひとりの娘が苦痛の叫びをあげている。
あの娘は、船首像のーー。
声を発することもできぬまま、エルフィリアは目の前で繰り広げられる光景を
じっと見せつけられていた。

『あたしはーーなことーーてない! 違うッ……!』
『まだそんなことをーーのね、泥棒猫の分際ーー身の程知らーー』

聞こえてくる声にはノイズが混ざっている。
劣化して磨り減った音楽盤を、無理やりに再生しているかのようだった。
しかし、そんなことも気にならなくなるほど、王女はこの光景に執心していた。

いや。
もしかすると彼女は、あの泣いている娘に気を取られていたのかもしれない。
真珠のような涙を流す、蠱惑的な踊り子の姿に。

『あなたのようなーー罰を受けてもらうわ。咎人としてね!』

高貴な出で立ちをした、名も知らぬもう一人の女が、吐き捨てるように言った。

『踊り子のーーにはお似合いの罰でしょう!』
『ああ、やめて、どうかそれだけは』
『五月蝿いのよ、このーーめ!』

パシン!
目を吊り上げて、女が娘の頬を叩いた。
あまりに娘が哀れに思えて、エルフィリアは思わず自らの頬を押さえてしまった。
彼女に肩入れするあまり、痛みまでが我が事のように思えたのだ。

『傾国の踊り子・レピアめ! 我が恨み、その生涯をもって償うがいい!』

女は呪いの言葉を吐きながら、娘に向かって仰々しく手をかざした。
その掌から禍々しい魔法が放たれたことに、エルフィリアは気付いていた。

『ッ、いやあああああああああああぁぁぁ!!』

尾を引く甲高い悲鳴は、いつまでもエルフィリアの耳に残って離れなかった。


刹那。
チカチカと、点滅灯にも似たフラッシュバック。

石になった踊り子。
高笑いする女。
真新しい豪華帆船、その舳先、括り付けられる船首像。
永遠に鳴り続ける、娘の叫び声……。

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ぽたり。
不意に雨の雫が、エルフィリアの鼻先を叩いた。
その冷たい刺激に、はっと我に返る。どうやら白昼夢を見ていたらしい。
しかし……本当に、ただの白昼夢だったのだろうか?
じっとりとした嫌な汗が、背筋を舐めるように流れて行く。
喩え難い胸騒ぎを覚えながら、王女はその後もしばらくの間、じっと船首像の娘を
見つめ続けていた。

「『レピア』……」

白昼夢で聞いた彼女の名を、甘く舌先で転がしながら。




ーーそれからもエルフィリアは、何かと理由をつけては、
港へと足繁く通うようになっていた。
目的は無論、言うまでもなく、あの船首像に逢うためだ。
彼女の姿が一日見えないだけで、王女はぴりぴりとした焦燥感と共に、
何やら心細い気分になるようになっていた。
しかしその一方で、いざ踊り子の船首像を前にすると、エルフィリアの胸中には
途端に哀れみと愛おしさがこみ上げてくるので、どうしようもなく苦しくなるのだった。

(あの船首像は、一体何なのかしら)

自らの変化に戸惑いながらも、王女は己に問い掛けた。

(本当に、ただの石像に過ぎないの? あの夢は……幻?)

白昼夢はといえば、あれから帆船に通い詰めるうち、幾度か見る機会があった。
それらが決まって船首像についての夢であったことも、
エルフィリアの思考が鈍った原因のうちのひとつだった。
白昼夢は常に、石像がかつて経験してきた記憶ばかりだったのだ。
ただの石像だと割り切るには、それらはあまりにリアル過ぎた。

ある日は、動けぬ船首像の娘に向かって、雨が手酷く叩きつける夢を見た。
娘は土砂降りの雨を浴びながら、次第に泥土と苔に侵食されていった。
彼女の苦痛に喘いだ顔から、声にならない声が聞こえてくる気がして、
心優しき王女はもはや堪らなかった。

またある日は、再びあの高慢ちきな女が現れる夢を見た。
女は勝ち誇ったように笑いながら、娘の石の身体を足蹴にして、
「もっと穢れろ、穢れに満ちろ」と謳うのだった。
その歌がかつての石化魔法であることに気づいて、エルフィリアは激怒した。

「……そうよ」

白昼夢から醒めた王女は、遂に真理を掴み取った。

「そうだったのね、レピア。あなたは元々ーー人間だったんだわ」

憐れみの涙を浮かべながら、彼女は船首像に向かって小さく囁いた。




エルフィリア個人の所持する、別荘の風呂場。
立ち昇る湯気からは、高級な花の香りが漂ってくる。
金の髪を乱しながら、王女は懸命にその瑞々しい裸体を働かせていた。
彼女が想いを込めて磨いているのは、かつてあの豪華帆船の舳先を飾っていた、
美しい娘の石像だった。

あれから王女は船の持ち主と掛け合い、この像を譲り受けることを決めたのだった。
幸い、あの魔女のごとき女ーー話を聞いた限りでは、かつてあの船の持ち主であった、
亡国の王妃ーーは既に数百年前に亡くなっていたため、余計な邪魔立ては入らなかった。

苦しみに満ちた像の石肌を布で擦りながら、エルフィリアは娘の痛みを
一枚一枚剥がすよう、丁寧に汚れを落として行く。

「お願い。どうかあなたの笑顔を、私に見せてくれないかしら」

王女の囁きは浴室に反響した。

「私、一度でいいから、あなたの笑った顔が見てみたいの」

ねえ、『レピア』ーー。



娘の身体が清められ、その瞳に再び清らかな光が宿るまで、あと少し。