<東京怪談ノベル(シングル)>


- 目醒めし断魂の鎌 -

緊迫、そして切迫。
表現としては正しいのかもしれない。
だが、ジュリス・エアライスの胸中を巡る焦りと、緊張を示す正しい言葉ではなかった。

(何に焦るというの?)

ルディアが無事逃げ延びて、その無事をこの目ではやく確かめたいという焦りから。

(何をそんなに身構えているの?)

目の前の強大すぎる殺気、そして力に。
先刻、ジュリスはこの男に敗れたばかりだった。気配を気取られず、気づいた時にはもう拘束された後だった。
そしてルディア・カナーズという白山羊亭のウェイトレス。
彼女を護衛する旅だったはずだが、彼女すらも危険に晒してしまった。
剣士として失格だ。
そこまで思考を巡らせたのは、冷や汗が顎から零れて棒きれを握る右手に落ちるまでのわずかの間。
相手は深い声の男。そして背丈はジュリスより少し高い、という情報のみ。
目的も手の内も、顔すらも薄暗い小屋の中にいるため分からない。
恐らく丸腰なのだろうが、体術ではジュリスの数倍も上手だった。
だからといってこの棒きれが力の差を補えるわけもなく――。

「ただの強盗、のはずがないわね。何の目的なの?」

その問いに、ふっと殺気が失せる気配がしたが、再び鋭い視線と共に返事が戻ってくる。

「さぁてね、言ったろう。答える義理も必要もねぇ」

にやり、と男が笑った気がした。
瞬きをし、目をあけたジュリスの目の前にはその男が迫っていた。
はっと気づいた時にはもう遅く、強烈な右脚を見舞われてジュリスの細い身体は宙に浮いた。
どぉん!と轟音をまき散らし、小屋の壁に身体を強打する。
いくら体重の軽いジュリスとはいえ、人間一人を3メートルも吹き飛ばすのは並大抵の脚力ではない。

「っ……、げほっげほっ」

長い黒髪が散り、肺の中の空気をすべて吐き出した。
ようやく呼吸を整え、いつもは憂いを帯びている赤い瞳を剣のように鋭く、腕を組んで立つ男の方向を睨み付けた。
男は待っていたのだ、ジュリスが呼吸を整えるのを。
さすがになめられたものだと、木剣を握る手にぎりっと力が入る。
今度はジュリスから仕掛けた。
横凪の鋭い一線が闇を切り裂く。
棒きれとはいえ、普通の人間なら肋骨を粉砕してもおかしくない威力だが、それは虚しく空を切っただけだった。
背後にひやりと嫌な気配を覚えた時には既に遅く、首筋を強打されてジュリスは意識を失った。

「さてと、もう片っぽのお嬢ちゃんも探しにいかねぇとな……。まぁ、まだそんなに遠くにゃ行ってねぇだろうが」

気怠げに吐きだした言葉を残すと、男は音もなくその場から立ち去った。



暗い、とても暗い闇の中で誰かの声がする。

(誰……?)

深い、とても深い底の奥からジュリスを呼ぶ声がする。

(誰なの……?)

口したつもりだったが声にならず、空虚に霧散した。
手足の感覚も、音も匂いも視界すらも存在しない場所で、呼ぶ声だけが感じられた。

(何なの、何……っ?!)

ぐっと意識が押し上げられ、ジュリスの全身を闇の底から伸びた、骨張った幾つもの手が掴んでいた。
そして禍々しいまでに鋭利な死神の鎌が、喉元にあてられる。

(!!!!!?)



オレンジがかった金髪が跳ねるように街道を駆けていた。
普段は背中まである三つ編みをヘアバンドで束ね、手には痛々しいほどに縄の痕が赤く残っていた。
いつもは白山羊亭のウェイトレスをしているルディア。童顔や低い身長も相まって実年齢よりも幼く見えるが、元気に笑顔を振りまく彼女は白山羊亭の看板娘でもあった。
今彼女が浮かべているのは笑顔ではなく、張り詰めた表情だった。

「……はぁ、はぁっ」

麻のシャツと同じ素材のズボンを身につけ、いつもの三つ編みはヘアバンドでくくっていた。
道無き森の中を走る。
ただ隣町から荷物を引き取るだけの、簡単な任務のはずだった。
ところが旅に出てすぐ、ルディアたちは敵の襲撃に遭った。
腕利き剣士であるジュリスすらも簡単にやりこめられる凄腕の刺客。
目的もわからず、その正体もわからない。
ただひたすら恐怖だけが胸の奥に絡みついているようだった。
道は鬱蒼と草木が生い茂り、巨木の根が地面をそこかしこを這い回る。
でっぱった木に足を取られ、滑るように転げた。

「い……た…い」

擦り剥けた手のひらには血が滲む。
ぎゅっと目を瞑り痛みを堪え、再び立ち上がろうとして前を向いた。
踏み出したはずの足は前に進まず、強い力によって後ろへ引っ張られた。
そしてあの、恐ろしいまでの深い、男の声が聞こえた。

「いよぉ、探したぜ……」
「ひっ……」

男は少し息切れしているようだった。
がしっと肩を掴まれ、身動きすらできない。

「逃げらんねぇように足の一本くらいへし折っておくか」
「い、や……こないで」

男がここまできたということは、ジュリスもやられてしまったということなのだろう。
きっともう助からない、諦めかけたその時、男が驚愕の声をあげた。

「な、てめぇいつからそこに……」
「ジュリス……?」

おぼろげな表情で立つ旅の相棒は、どこか様子がおかしかった。
控えめの声と優しく笑うジュリス、でもどこか心の芯は凜としていた。彼女はいつだって剣士だった。
だが、今のジュリスはまるで存在そのものが希薄な印象すらある。
赤い瞳はこちらに向けているが、何も見てはいないようだった。

「気絶させて縛り上げてたはずだがな、これはどういうことだ?」

男も多少の同様は隠せないらしい。
彼の左目をなぞる大きな傷痕に沿ってヒヤリとした汗が流れた。
ジュリスの身体がゆらりと陽炎のように揺れ、細身の剣を構える。
その数瞬後、男の目の前まで踏み込んでいて、大きく剣を薙いだ。
男は腰を落としてかわし、ジュリスの身体を蹴り飛ばすと同時に距離を取る。
ぎぎぎと音を立て、ジュリスの切った巨木が倒れた。その断面は包丁で大根を切ったかのように滑らかだった。

「こいつ……」

木の葉が揺れるようにジュリスが動いた――と、ジュリスの姿はそこにはなかった。
いつの間にか男の背後に立っていたジュリスは、赤い瞳を刃物のように鋭くさせる。
一瞬殺気が膨大に膨れ上がり、次に瞬きした時には細身の剣を鞘に収めていた。
男は背中にぶつけられた殺気で硬直したまま、視線だけを後ろへと向けようとして、そのまま倒れた。
突然、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
駆け寄りルディアはジュリスの体を抱き起こして、その顔を覗きこむ。
だらっと腕は力無く垂れ、虚ろげにただ瞼が開いていた。

「ジュリス!ジュリスっ!」

ルディアは虚ろな瞳に必死に呼びかける。
倒れた男は既に事切れていた。
結局この男の目的は分からないままだ。
聞いたことはあった。
噂で女剣士の中には死神の力を宿すものがいると。それが今の力だというのだろうか。
彼女はいつこの力を手に入れたのか、この力を制御できているのだろうか。
まるで生き人形のようなジュリスを見ていると、強大な力の代償も計り知れない。
ルディアの胸中を空寒いものが嵐となって吹き抜けた。
鬱蒼と生い茂る森の中、空は遥か遠いもののように感じた。