<東京怪談ノベル(シングル)>
■純化された金■
とても大切な人の為に、とても難しいことを解決しなければならないとしたら?
もしも、その、とても難しいことが解決出来るよと、誰かから手を差し出されたら?
たとえばそれが、急がなければ時期を逃してしまうのだと、言われたら?
心の中に大切な人を思い浮かべてしまったら、用心深い人だって、ぐらりと来てもおかしくない。
ましてエルファリアがそんな囁きを聞いてしまえば。
誰もが純真だと、純真過ぎると言う程の彼女が聞いてしまったら。
どうするか。その答えなんて解りきっているものだ。
大切な人の枷を取り払えると声を掛けられた彼女が、どうするかなんて。
エルファリアを知る者ならば、エルファリアについて聞いた事がある者ならば、エルファリアを少しでも探ってみた者ならば。
彼女の行動なんて簡単に想像できるもので。
だから、塔の魔女は容易くエルファリアを誘い出した。
公務の合間を縫ってまでの調べ物。それについて、さも誠実そうに呼び掛けて。善人ぶって、訴えて。
そうして、美少女から美女まで、自身で選びぬいたメイド達を周囲に従え佇む魔女は、己の魔力に屈しつつある王女を愉しそうに見下ろして笑う。
「……石化を、解く……方法が……あるのでは……」
「そんなもの知らないわ、お優しい王女様」
抗っているのだろう。今にも床に伏せそうな両手を持ち上げ、衣装の胸元を鷲掴むエルファリア。その必死さを見る魔女は、滑稽なことだと唇を歪めた。
「嘘に決まってるじゃないの、ばかね」
更に増す魔女の力。強くなるそれにエルファリアの双眸が見開かれ、唇が数度、開閉する。ゆらゆらと彷徨う金色の瞳は、己を嘲笑する女の姿をひたすらに映し続け――唐突に焦点を失った。何事かを言いけた唇も呆けたように力を抜く。
「……ア……」
くたりと倒れ伏すその直前。
王女が零した声は王女自身にも聴き取れず――
レピア・浮桜は、その夜のエルファリアが少しばかり普段と違う様子に思えたものの、公務に疲れたのだろうと言われて気遣うに留めた。
胸奥で揺れる何か。
レピアが拾い上げるには、それは未だ微かに過ぎたから。
――葉を滑り落ちた雫が素足を叩き、瞼を震わせて目を覚ました。
くあ、と大きく口を開けて前足を伸ばして顔を振り――違う私は――目を強く閉じてぎゅうぎゅうと鼻筋に皺を刻む。おかしな声がして苛々とするのだ。唸り声を細く出しながら力を入れて立ち上がる。どうにも動き辛い。
いいえ、とそこで声が零した。唸り声に似ているが、そうではない。抵抗の声。絞り出すように、必死の声。違います、違う。四肢が土を踏み固めたところを、尻を落として半端に座る。ぶるぶると指が、両手の指が傍らの木に強く押し当てられた。耐えなければ、何かが抜けていく。抜き出されていく。
(わた、私、は)
言葉が形を成さない。文字が頭に浮かばない。そもそもそれが必要だっただろうか。必要だったはずなのに、精神はそんなもの知らないとそっぽを向く。引き裂かれそうな心を懸命に捕まえて、確認する。
(私の名前は――エル、ファリア)
言葉はきちんと音になっただろうか。がちりと歯が鳴って、わからなかった。
魔女は、傍らの器具を覗いて目を眇めた。
思ったよりも王女サマからの『抽出』が進んでいない。
「あの術って精神に作用してる筈なんだけど」
術を強めるべきかと考え、すぐに止めた。
どうせ最初の何日かだけだ。すぐに抵抗も消える。
あと、わざわざ放り出した森にまで赴くのも面倒だし。
――森の中、四肢を伸ばし、動き出そうと思うたびに、自分を探す。
何度かの昼と夜を過ごす間にエルファリアは、自身の状態を理解していた。ともすれば奔放な意識に呑み込まれそうになりながら、それゆえに、自身の人としての枠組みを外されていることを把握していた。
自分は、人から、獣にされようとしているのだ。
それを堪える為に、未だ浸食されていない部分を心の中から探し出し、それにしがみついて記憶を辿る。父、民、臣下、エルザード、聖獣、言葉を掘り出して、関わる自分の姿を探す。
(私は、エルファリア。暮らしているのは、エルザード。別荘には)
せめて全てを声に出来たら違うのだろうけれど、言葉を音にしようとする間に抜け落ちるものが多過ぎて、そちらに力を傾けることも難しい。
(……レピア)
思い浮かべるのは大切な人。夜だけ語らうことの出来る人。
特に近しく愛おしい人々を思い浮かべることは、特に自身を保つのに良いように思えるから、この数日の間のエルファリアの意識はそればかり。
思考が狭くなっているとしても、そればかり、縋っていた。
魔女の目の前には加速度的に増えていく光。
器具の中に満ちていくそれは、段々と繋がり形を決めていく。
「きれいねえ、王女サマ」
見た者が皆して目の色を変えそうな美しい塊。
それを構成する光は、塔から見下ろす先にある森の中から、ほろりと。
――咽喉が渇く。お腹が空いた。
生きる為の欲求が満たされない状況は、エルファリアの精神を削ぎ落す。人の思考をがりがりと剥がし、魔女の術を浸透させる。気付けば四つん這いになる事が増えた。言葉はもう声に出せない。
(いいえ、いいえ、いいえ)
振り回されている頭は髪が邪魔だからだろうか。違う、現状を否定する為だ。違う、何が、違うって、なにが、ちがうって――唸り声は、嗚咽じゃない。エルファリアの涙を堪える声は、出やしない。
昼と夜を数えることは忘れてしまった。寝床を他の獣に奪われて彷徨った辺りまでは数えていたかもしれない。数えるって、なにを。なにを?
何かが抜け出していく。けれどエルファリアはそれを気に留める余裕もない。
髪が枝に引っ掛かったのを力任せに引き千切り、水場に口を寄せる。咽喉を抜ける冷たさに瞬きして、水面を見る。金色の目がこちらを見ていた。
(……?)
ほろり。どこかから光が漂って、飛んでいく。
なんとなし目で追う先。
それは遠くに見える細長い、あれは塔だ、塔に、呼ばれるように。
伏せていた身体を起こして見送っているエルファリアの唇が、何故だか数度、震えて開いた。
飢えて獲物を捕らえたのは、どれぐらい過ぎた頃のこと、だったのか。
土を蹴る。枝を潜る。小石を蹴り上げ、窪みに収まり、洞に入る。
よたよたと薄暗い奥へと進み、銜えた獲物を放り出すと、少しばかり四肢を休めて、ふうぅ、と荒い息を吐いた。
ぱちりと瞬いて見透かす森は洞にも劣らず暗い。湿りを帯びた空気に身の内の何かが粟立つ。それがどうかと考えるでもなく、森から傍らの獲物に意識を戻すと、がぶりとそれに食いついた。噛み千切り、咀嚼する。がつがつと乱雑に貪る音が洞の中に零れていく。その音が消える頃には、森を静かに降り落ちる雨が覆いつつあった。
(…………)
何かに促されるように顔を上げ、ごくりと食事を飲み下し、遠くを見遣る。
多くのものが身を潜める、雨粒に煙る森の向こう。更に遠くに硬質の塊。
どうしてだか妙に気に掛かり、首を傾げた。
内側から急かす何かがある。森を彷徨うときのものとはまた違う、なにか、だ。うずうずと落ち着かなくて身を震わせて洞の入口近くへ出る。濡れないぎりぎりのところで蹲り、遠くを見、また首を傾げた。なんだろう。内側から、何かが自分を急き立てる。
(…………)
ぱちりぱちりと瞬きして、ぶるりと身体も震わせて、それからちょっと間を置いた。
いったいどうしたことだろう。なんなのだろう。
言葉はもう、身の内から、浮かび上がってこなかった。
「思ったより頑張ったわね」
何度仕掛けに行こうと思ったかわかりゃしない。
などと呟く魔女の目の前にあるのは一つの結晶。
「久し振りに聖都でイイ娘を見繕うのもアリかしら」
これで更に力を得るとなれば、祝いを己に送ってもいいだろう。
待った分だけ大きい喜び。魔女はひとしきり笑ってから、森を見遣った。
窓から見える広々とした其処のどこかに王女サマはいる。
およそ人間らしいとは言い難い有様で、うろうろと、四つん這いで、汚らしく!
連れて来たときの綺麗な恰好や純真無垢な表情を思い出し、現在を思い浮かべれば、それだけで堪らない。
愉快な愉快な王女サマの結末にニヤニヤといやらしく魔女は笑う。
控えるメイド達は静かに魔女の姿を見る。彼女達もまた魔女の犠牲者だけれども、知る者は居ない。
そうしてひとしきり塔から森を眺めて満足した魔女は『抽出』した結晶を手に取ると、にっこり笑って口元に運んだ。
「いただきまぁす」
** *** *
澄んだ空気の夜の下、別荘にある露天風呂。
それは状態異常を治す効能があるものだ。
レピアはそこに深々と身を沈めていた。腕の中にはまどろむエルファリア。
櫛を通すのにも一苦労だった金髪を、そっとそっと、慈しみを込めた指先で梳く。絡まり、不揃いに千切れ、ごわごわと固まっていた髪。侍女も泣きそうな顔で整えていた。レピアはエルファリアを抱えていたから全て見ていた。
髪だけではない。手も足も、削れて歪に欠けた爪の中まで土は入り、手入れされていた肌は大小様々な傷だらけ。関節部分は尖り、枝や小石が入り込んだ痕も見えていた。
……湯が沁みて痛んだりは、しないだろうか。
エルファリアがレピア以外を威嚇する為に治療もままならず、急を要するような怪我の有無だけを先に確かめただめだ。湯が揺れるとまだ痛むかもしれない。肌に湯を流すときの一騒動は直近の記憶で、自然とその折のように、レピアの腕はエルファリアの身体をそろりと撫でて宥めにかかる。
その拍子に己の腕にぴりりと強く刺激が走り、僅かに眉が寄った。
エルファリアを刺激しないように静かに持ち上げる片腕。そこには抉られたような傷口が、何本かの直線的な傷と一緒に刻まれている。エルファリアによるものだ。エルファリアが警戒し、恐れ、それ故に攻撃しようとした結果。
「待たせて、ごめんね」
傷跡を見て、レピアはうとうとと湯の温もりに沈みかけるエルファリアに語りかける。湯の効能は緩やかにエルファリアを癒しているはずだ。ほろほろと漂い、腕の中の王女に触れる度に消える光を見詰め、レピアは思い返す。
積み重なる差異、増していく違和感。
それを確信して真実を突きとめたのは、事が起きてから半年は過ぎた頃。
エルファリアの幻を纏っていた美女もまた、心を囚われていると誰かが言う声を背に、必要な事を聞き出したレピアは別荘を、聖都エルザードを飛び出して塔へ向かった。
そこで見たエルファリアの姿。その酷い様。
半年という時間の結果が目の前にあった。
血にも汗にも泥にも、様々なものに塗れたエルファリアが、唸りを上げて四足の獣の如く飛び掛かってきた。呼び掛けて差し出した腕に喰い込んだ歯は噛み千切るには足りないだろうに、皮膚を破り肉を食み、爪が更に周囲を裂いた。
咄嗟に抱え込み、抵抗を抑え、レピアはそのときエルファリアの痩せて骨の近くなった身体を堪らず抱きしめたはずだ。思わずの行動に腕が振るわれ、爪や歯が立てられたし、湯につかる今もピリピリと痛む。
「あとで一緒に治そうか、エルファリア」
語りかければ小さく声が返り、それはまるで応じるよう。
指先の裂傷を一本一本やんわりと撫でていき、己の手で包んで。
微笑んで、塔の魔女の目論みを考えた。愚かしい、それを。
噛み付かれ、爪を立てられ、蹴られて、それでも最終的にはレピアの体臭をエルファリアは嗅ぎ回り、するりと傍に大人しく伏せた。しばらくその身体を撫でてから、昇った塔の最上部。
そこで魔女は死んでいた。
苦悶の表情で、自らに爪を喰い込ませて強く掻き毟った痕も大量に、床に。
ついてきた四つん這いのエルファリアを優しく後ろに下げてレピアは冷たく魔女の骸を見下ろした。あの偽物だった女の言葉によれば、魔女はエルファリアの心――どんな悪党でも改心させる、その純真な心を結晶として抽出したそうだ。己の力とする為だと言っていたから、これは結果だろう。
「馬鹿な魔女」
吐き捨てるような声音になった。だが仕方がない。
「ああ、本当に」
愚かな魔女だ。エルファリアの純真な心を、魔女が己のものに出来るわけがない。奇跡のような心を呑み込んで耐えられると思っていたのか。思っていたからこその、結果だろうけれど。
うう?と不思議そうなエルファリアの声。
振り返れば澄んだ金の瞳が汚れた顔の中にあった。
「ごめんね、もう出よう」
膝をついて金髪の表層を撫でる。絡まり過ぎて指を通したりは出来ない。
気持ち良さそうに目を閉じるエルファリアを見るレピアは、視線だけを魔女へと投げた。その骸からほろりと逃れ出る光。ふんわりとそれは空中を泳いでエルファリアに触れて、消えた。
湯の中でも構わず漂ってくる光。
それはまるでエルファリアの心が戻って来ているようだ。
細い身体を大切に抱きしめて、白い肌を優しく撫でて。
月の光が降る湯に浸かり、レピアは腕の中の存在を見守る。
ふるりと睫毛が震え、唇が開く。そっと零れるささやかな、王女の声。
「レピア」
安堵の息が混ざったそれは、レピアの知る美しい音だった。
end.
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