<東京怪談ノベル(シングル)>


禁書遊戯


 半ば瓦礫と化した王宮で、王女は追い詰められていた。
 煌めく海原を思わせる、青い髪。それと同じ色の瞳が、気丈な輝きを湛えて魔王を見据える。
 すらりと細く、だが出るべき部分は豊満に膨らんだ身体。胸などは、清楚な純白のドレスから今にもまろび出てしまいそうである。
 清純さと色香が同居する王女の肢体を、魔王は視線で舐め回す感じに観賞した。
「この私の命を奪う……聖なる力を、お持ちであると。そのように聞き及んでおりますよ、姫君」
 邪悪なほどに秀麗な美貌をニヤリと歪め、魔王は王女に片手を差し伸べた。
「ぜひ見せていただきたいものです……貴女のような、か弱き御方の、どこにそのような力が秘められているのでしょうかねえ」
「…………ッ!」
 魔王の片手が、王女の滑らかな頬から細い顎にかけてを、そっと嫌らしく撫でる。
 その冷たい嫌悪感に、王女は懸命に耐えた。
 耐える王女に、魔王がねっとりと微笑みかける。
「この美しい身体の、一体どこに聖なる力が……私が探り当てて御覧に入れましょうか?」
 魔王の指が、王女の細い首筋を滑り降りて胸元に迫る。
 嫌悪感を振り払うように、王女は片手を振るった。
 魔王の頬が、ぱんっ! と音高く鳴った。王女の平手が、叩き込まれていた。
「あたしが聖なる力を使うまでもないわ……あんたみたいな奴は、邪悪な力で自滅する。調子に乗ってても、長くはないわよっ」
「この私に、手を上げるとは……!」
 魔王は牙を剥いた。王女を見据える両眼が、邪悪な光を発する。
 魔王を倒す、聖なる力。それは15日に1度、満月の夜にしか発揮されない。
 次の満月まで、あと10日以上ある。それまでに魔王としては、自分を脅かす王女を、この世から消しておかなければならない。
 だから魔物の軍勢を率いて、王宮を攻め落とした。
 そして今、邪悪なる眼光で王女を捉えている。
 満月の夜を迎えていない今の王女には、それに抗する術はなかった。
「快楽と至福の中で死なせて差し上げるつもりでしたが……気が変わりました。愚かなる王女よ、未来永劫、晒しものとなって生き続けなさい」
 魔王の眼光が、物理的な拘束力を有して、王女の全身を束縛する。
 動けぬ王女の背後に、いつの間にか、巨大な石板が生じていた。
「この私に刃向かう者が、どのような末路を辿るのか……生ける墓石となって示し続けるのです」
「くっ、この……ッ! うぐぅ、ぁあああああ……っっ!」
 石板の中に、王女の肢体が吸い込まれてゆく。封じ込められてゆく。
 自身の身体が石板と同化し、石に変わってゆくのを感じながら、王女は気を失う事も出来ずにいた。


 なかなか見事な、石板の彫刻像が出来上がった。
 目立つ場所に飾って晒しておくよう、魔王は命じた。それに従って何匹かのホブゴブリンが、石板を運び出して行く。
 入れ替わるようにしてオークの兵士たちが、1人の人間を連行して来た。
「近辺をうろついておりました。魔王陛下の御許可があれば、このままワイバーンの餌にいたしますが」
「ほう……」
 連行されて来た人間に、魔王は思わず見入った。
 エプロンドレスの似合った、若い娘である。この王宮で働いていた、メイドの1人であろう。
 金色の髪、金色の瞳。たおやかな美貌は恐怖に震えているが、恐怖では打ち消す事の出来ぬ芯の強さをも感じさせる。メイドにしておくには、いささか勿体ないほどの気品もだ。
「ワイバーンの餌は、捕えてある民衆どもから適当に見繕っておきなさい。この娘は私が預かっておきます」
「やめて……どうか、おやめ下さい……」
 金髪の娘が、金色の瞳を涙に潤ませ、愛らしく懇願した。
「魔物の餌には、私がなります……どうか民衆の方々に、これ以上ひどい事はしないで……」
「ふん。面白い鳴き声を発する仔犬を、拾ったものです」
 美しい黄金色の瞳を、魔王はじっと覗き込んだ。魔力を宿す邪悪なる眼光を、注ぎ込んだ。
 泣き震えていた娘の美貌から、表情が消えてゆく。感情が、消えてゆく。
 彼女の記憶を上書きしながら、魔王は甘く、優しく、囁きかけた。
「お前は、私が飼ってあげます。私のためだけに……可愛い鳴き声を、発しなさい」


 12年が過ぎた。
 その間、満月の夜は幾度もあった。
 だが魔王のメイドとして記憶を上書きされた王女に、聖なる力を発揮する事は出来なかった。
 昼は労働、夜は夜伽の奉仕。
 そんな日々を、まるで自動人形の如く過ごしていた、ある時。
 かつて王女であったメイドは、魔王の宮殿の宝物庫で清掃をしている最中、異様なものを発見した。
 巨大な、石板である。1人の女の姿が、彫刻されている。
 まるで生きて苦悶しているかのような、生々しい姿の石像だった。その美貌は苦しげに歪み、豊麗な肢体は躍動感に溢れ、今にも石板を破って暴れ出しそうである。
 かつては屋外の、目立つ場所に飾られていたのかも知れない。
 今はこのような日の当たらぬ場所で、苔だか黴だか判然としないものにまみれ、埃臭さを発している。
 生きている。
 魔王のメイドはふと、そんな事を思った。この女性は、石板の中で生きている。
 12年間、封印されていた感情が、記憶が、少しずつ甦って来る。
 かつて、1人のメイドがいた。王女とは、身分の差を超えた友であった。
 そのメイドは、王女の身代わりとなって魔王と対峙した。
 逃げるように言われていた王女は、しかし友を見捨てる事が出来ず、かと言って魔王と戦う事も出来ず、おろおろと煩悶している間に捕えられてしまった。
 そして12年間、魔王の慰みものとなっていた。
 同じく12年間、生きたまま石板に封じられていた友に、王女は震える声で語りかけた。
「……レ……ピア……」
 黄金の瞳も震え、涙が溢れ出す。
 日没は近い。今夜は確か、満月のはずだ。


 絶叫が、魔王の宮殿に響き渡った。
「ま……まさか、こんな……こんなぁ……ぁあああ……」
 天空に満月が輝く、と同時に王女の掌から解放された、聖なる力。
 それを身に浴びて魔王はよろめき、陽炎のようなものを発しながら、姿を薄れさせてゆく。
「まさか……お前が、王女であったとは……ものの見事に私を……騙してくれた、と……いうわけ、か……」
 その言葉を最後に、魔王は消滅した。


 苔と黴と埃にまみれた石板を、王女は丸一日かけて洗い清めた。
 そして石像と化した友に、そっと囁きかけ、唇を寄せていった。
「レピア……私の大切なレピア……」


「私の大切なレピア……」
「はいはい、それはもうわかっているから」
 唇を寄せてくるエルファリア王女を、レピアは優しく振りほどいた。
「にしても……今回の魔本はキツかったわ。12年も石になっちゃってるんだから」
「ふふっ。私も12年間、魔王の慰みものよ」
「これって、だいぶ昔の魔本だよねえ」
 別荘の書庫でエルファリアが発見してしまった魔本の表紙を、レピアはまじまじと見つめた。
 魔本。中に入り込んで物語の登場人物に成りきる事が出来る、娯楽用の魔法書物である。
「今じゃ出来ないよ、魔王の慰みものなんて設定……発禁くらっちゃうって」
「だから私、魔本は昔の方が好き。最近の魔本も、素晴らしい出来だとは思うけれど……刺激が少ないんですもの」
「ほんと、いろいろ面白いもの見つけてくるよねぇエルファリアは。調べものの真っ最中とかに、さ」
「……ごめんなさい、レピア」
 エルファリアは、俯いてしまった。
「貴女の呪いを解除する方法を、調べようと思って……書物を探しているうちに、また脇道にそれてしまいました」
「気にしない気にしない。そんな簡単に解けるような呪いじゃないんだから」
 俯いた王女の金髪を優しく撫でながら、レピアは小さく欠伸をした。
 間もなく、夜が明ける。
 夜明けと共に、レピアは石像となる。魔本の中の物語と違って、王女のキスくらいで解ける呪いではない。
「私に聖なる力が……本当に、あればいいのに」
 エルファリアが、仔犬のように身を寄せて来る。
「呪いを滅ぼす、聖なる力が……」
 レピアは何も言わず、もう1度エルファリアの髪を撫でた。
 自分は間もなく、石像に変わる。そろそろ、喋るのも億劫になってきた。