<東京怪談ノベル(シングル)>


禁書戦記


 このまま死んでしまうのではないか、と思えるほど深い微睡みの中に、女王エルファリアは陥っていた。
 いや、陥る寸前で目を覚ました。産声が、聞こえたからだ。
 うっすらと目を開く。
 1人のメイドが、産着に包まれた赤ん坊を抱いている。
「お生まれになりましたわ、陛下……」
 微笑みながら、メイドが涙を流している。
 赤ん坊も泣いていた。メイドに抱かれたまま元気良く泣き声を張り上げ、エルファリアを微睡みの中から引き上げてくれたのだ。
 とてつもない脱力感を伴う微睡みだった。この子を産み落とす事で、自分は力の全てを使い果たしてしまった。そう思えるほどに。
 事実、それに等しい。
 女王エルファリアの強大なる魔力は、全て今、この赤ん坊に受け継がれたのだ。
 エルファリアは弱々しく細腕を伸ばし、メイドの手から我が子を受け取った。
 母親の腕に抱かれても、赤ん坊は泣き止まない。
 この子は知っているのだ、とエルファリアは思った。すでに、気付いているのだ。
 間もなく母子を襲うであろう、過酷な別離の運命に。
「陛下、お名前を……」
 メイドが、命名を促した。
 我が子の名前。懐妊の時から、すでに決めてある。
 生まれたばかりの王女を抱いたまま、エルファリアは呟いた。
「レピア……」
 その時、寝台が揺れた。床が揺れた。
 王宮そのものが、揺れていた。
 敵襲である。
「これまでのようね……」
 エルファリアは寝台から身を起こし、レピアをメイドに預けた。
 1つの王国を守護するほどに強大な女王の魔力は、出産と同時に赤ん坊へと受け継がれる。
 受け継いだ魔力を、しかし赤ん坊は成長しなければ使えない。
 敵国にとっては今こそが、この王国を征服する唯一絶対の好機なのである。
 泣きじゃくるレピアを抱いたまま、メイドが悲痛な声を発する。
「陛下……!」
「何も言わないで。貴女は、その子を……お願い」
 母親として、女王として、今やるべき事は1つしかなかった。


 強大なる魔力を我が子に与えてしまった後の、抜け殻にも等しい状態。とは言え充分に休養を取って回復すれば、軍の1つや2つを相手に戦える程度の力は戻って来る。
 だが出産直後の疲弊しきった状態では、為す術なく捕えられるしかなかった。
「これはこれは、女王陛下……良い様を晒しておられる」
 兵士たちに連行されて来たエルファリアを、侵略国家の帝王が、醜悪な笑みで迎えた。
「強大なる魔力を笠に着て、高慢極まりなく振る舞っておられた方がグッフフフフ、今ではまるで没落貴族の夜逃げの如く」
「……それでも、貴方がたと刺し違える事くらいはっ!」
 搾りカスも同然の魔力を、エルファリアは己の全身から掻き集めて放った。
 巨大な火の玉が生じ、燃え盛り、発射された。
 笑っていた帝王が、無様に怯えて尻餅をつく。
 そんな帝王の眼前で、しかし火の玉は砕け散り、弱々しく火の粉と化して消滅した。
 光で出来た壁が、帝王を防護する形に出現していた。魔力の防壁。
 尻餅をついたままの帝王の背後に、いくつもの黒装束の人影が立っている。ローブをまとい杖を携えた、男たちの一団。帝王の身辺を護衛する、魔導師の部隊である。
「抜け殻と思っておったが、まだこれほどの魔力を……」
 近衛兵たちに助け起こされながら、帝王が呻く。
「まさに大陸最強の魔女よ……ぐっふふふ、それでこそ我が国の力となるにふさわしい」
 帝王が、片手を上げる。
 それを合図として魔導師たちが、一斉に杖を構えてエルファリアに向けた。
 全ての杖の先端から、光が放たれる。邪悪なる魔法の光。それが、今度こそ本当に魔力を使い果たした女王の全身に集中する。
(レピア……)
 無事に逃げ延びてくれた、と信じるしかないまま、エルファリアは石像に変わっていった。


 石像と化した女王の身体は、打ち砕かれて8つに分割された。1つは帝王自身が保持し、残る7つは帝王配下の魔将軍7名にそれぞれ預けられた。
 魔将軍たちは、大陸最強の魔女の断片を、魔力の増幅装置として軍事行動に活用し、侵略国家の版図を広げていった。
 女王の力が、邪悪なる侵略国家の覇権を守護する事となってしまったのだ。
 帝王の体制は磐石となり、圧政が23年続いた。23年間、民衆は暴虐と搾取に苦しんだ。
 23年目のある時。魔将軍の1人が、とある踊り子に殺害され、女王の右腕を奪われた。
 それは、大いなる叛乱の狼煙が上がった瞬間であった。


 誰かが楽曲を奏でているわけではない。なのに、音楽を感じさせる舞いである。
 豊満でありながら優美に引き締まった身体が、青い髪を振り乱して躍動する。しなやかな細腕が、宙を愛撫する。瑞々しい果実のような胸の膨らみが、微かな衣装からまろび出てしまいそうに揺れる。
 そんなふうに舞い続けながらレピアは、近衛兵たちの剣を、槍を、ことごとくかわした。
 かわしながら、右足を離陸させる。むっちりと豊麗な太股が跳ね上がり、魅惑的な脚線が鞭の如くしなって一閃した。
 近衛兵たちが、片っ端から蹴り倒されて動かなくなった。
 回避と攻撃を同時に行う戦いの舞踊を、レピアは帝王の御前で大いに披露していた。大切な人の身体の一部を、左の細腕でしっかりと抱えながら。
 それは、石像の生首であった。美しい貴婦人像の、頭部。先程、7大魔将軍の最後の1人を倒して奪還したものだ。
「ひっ……ひいぃ……」
 近衛兵団全員が蹴り倒され、帝王が無様に尻餅をつく。レピアと同じく、石像の一部を抱えながらだ。
 石でありながら柔らかさを感じさせる、女性の尻。貴婦人像の下腹部である。
「返してもらうよ、あたしの国を……あたしの、母さんを」
「や、やれ!」
 帝王が、片手を上げる。
 かつて女王を石像に変えた魔導師の一団が、進み出て来て杖を構える。
 光が放たれた。全てを石に変える、魔力の光。
 その光が、レピアの眼前で弾けて散った。
「なめないでよ、あたしの力を……母さんから受け継いだ、この力をっ!」
 レピアの青い両眼が、烈しく輝く。
 巨大な火の玉が発生し、彗星の如く飛んだ。
 帝王の眼前に光の防壁が生じ、だが一瞬にして砕け散った。
 同時に帝王も、魔導師の部隊も、まとめて灰に変わっていた。
 その遺灰に、石で出来た女王の尻が埋もれている。
 レピアはそっと拾い上げ、石の生首もろとも抱き締めた。


 8つに分かたれていた女王の石像が今、一部の欠如もなく組み立てられて眼前に立っている。
「母さん……」
 レピアは抱き締めた。ひんやりとした石の冷たさと固さを二の腕に感じながら、胸を押し付けていった。
 そして、囁きかける。
「長い間、待たせてごめんね……母さん……」
「…………」
 空耳ではない。微かな言葉が、聞こえた。
 錯覚ではない。固く冷たい石像に、少しずつ体温と柔らかさが甦ってゆく。
 石の唇が、ゆっくりと動いて吐息を、そして言葉を紡いだ。
「……レ……ピア……」


「母さぁんっ……」
「く、苦しい! 苦しいわレピア」
 抱擁の中で、エルファリアが悲鳴を上げる。レピアの胸の谷間で、王女は窒息しかけていた。
「あ……ご、ごめん。もう終わってたんだ、魔本」
「もう……気をつけなければ駄目よ、レピア。貴女の胸は、とても危険な武器なのだから」
 エルファリアが、また妙な魔本を見つけて来たのである。
「ったく、これ誰が書いたのよ。お姫様バラバラ事件なんて……聖獣王陛下が、発禁処分なさるわけだわ」
「お父様は、表現の自由と可能性を全く理解しておられないわ」
 エルファリアは少しだけ頬を膨らませ、だがすぐに微笑んだ。
「それにしても……ふふっ、レピアが私の子供なんて。小さな頃の貴女に、会ってみたかったわ。可愛いわね、きっと」
「エルファリアは……頼りないお母さんになるね、きっと」
 先程まで自分の母親であった王女の髪を、レピアは少し強めに撫でた。