<東京怪談ノベル(シングル)>
闘神の修行
早朝である。
陽が昇り始めたばかりで、洞窟の中はまだ真っ暗だ。
その闇の中で、巨体がむくりと起き上がった。
岩のように鋼のように鍛え上げられた、筋骨隆々の半裸身。身に着けている物と言えば腰布と、首飾りに腕輪といった僅かな装身具だけだ。
「うーむ……朝か」
大型肉食獣が牙を剥くかのように、その男は欠伸をした。
名はガイ=ファング。風来坊である。
この地に流れ着いたのは昨日だ。宿泊に手頃な洞窟が山中にあったので、とりあえず一夜を明かした。
近くに、街があるらしい。
近くと言っても、山を1つ越えなければならない。普通の人間の足ならば1日かかる。だがガイにとっては、早朝の走り込みにちょうど良い距離である。
尚武の気風漂う街で、格闘技の道場も多く、強い男たちがひしめいているという。
「どんなもんか……ま、行ってみねえとな」
焚き火の跡を、ガイは踏み付けた。分厚く強固な裸足が、まだいくらか燃え燻っている木屑を粉砕し、灰を舞い上げる。
火が完全に消えたのを確認してから、ガイは洞窟を出た。
昇りつつある陽の光が、稜線を明るく縁取っている。
ガイは深呼吸をした。早朝の山の清冽な空気が、巨体の隅々まで行き渡る。
「うっし……じゃあ行ってみっかあ!」
軽い準備運動を済ませ、ガイは走り出した。蹴り砕かれた土が、波の如く噴き上がった。
猪肉のシチューを、ガイはがつがつと体内に流し込んだ。
濃厚な肉の味が、舌にも身体にも心地良かった。こうして食らうだけで、野生の獣の精力が全身に漲ってゆく。
「こいつぁ……ぶん殴り合いで、仕留めた猪だな?」
「ほう。わかるかね、お客さん」
飯屋の主人が応えた。
「山の主みたいな暴れん坊でね。そこの道場の人が、獲ってきてくれたんだ」
「なるほど……」
シチューを堪能しながら、ガイは目を閉じた。
肉を味わうだけで、わかる。魔獣と言えるほどに巨大な猪の姿が、脳裏に浮かび上がって来る。
自分でも勝てるかどうかだ、とガイは思った。
そんな怪物が、恐らくは一撃で仕留められている。急所を突かれたか、首を折られたか。
自身が死んだ事にすら、この猪は気付かなかっただろう。生命力が、肉に残っている。肉からシチューに溶け出して、野菜にまで染み込んでいる。
獣の生命に満ちたシチューを、ガイは一気にかき込んだ。
「親父さん、おかわり!」
「よく食うねえ……あのバケモノ猪が、あんた1人に全部食われちまうよ」
「ああ、俺が仕留めたかったぜ……あ、ちなみに払いは大丈夫だからよ。心配しねえでくれ」
言いつつガイは、金貨の入った小袋を卓上に置いた。
飯屋の主人が、息を呑んだ。
「おいおい、この店が買えちまうよ。あんた一体、何者なんだね」
「その日暮らしの風来坊さ」
空になったシチュー皿が、すでに十数枚、積み重なっている。新たな1枚を、ガイは重ねた。
あの迷宮で発見した財宝の中に、指輪があった。大量の物品を封印・収納出来る、魔法の指輪だった。
入手した財物を全て魔法の指輪にしまい込んだのはいいが、ガイの太い指に合う指輪ではなかった。なので今は首飾りに通し、たくましい胸元にぶら下げている。
当面の金はある、という事である。
宿舎など、あの洞窟で充分だ。安くて美味い飯屋も見つけた。あとは道場である。
飯屋の主人が言っていた道場を、ガイは見学させてもらった。
屈強な男たちが大勢いる。が、体格にあまり恵まれていない者も少なくはなかった。子供も多い。
そういった初心者たちに、屈強な門下生らが、懇切丁寧に基礎を教え込んでいる。
良い雰囲気だった。
ガイとしては、道場破りのような事はしたくない。
金を巻き上げるだけのエセ武術道場ならば無論、これまでいくつも叩き潰してきた。
だが、このように真面目に武道に取り組んでいる所へは、礼を尽くし、払うべき金を支払って、入門するべきである。
何しろ金はある。最低限の生活と、修行鍛錬。それ以外の金の使い方を、ガイは知らなかった。
「おはようございます! よろしくおねがいします!」
「お、おう、おはよう。よろしく」
子供たちの元気な挨拶に、ガイはいささか面食らいながらも応えた。
道着姿の子供たちが、礼儀正しく整列し、ガイの指導を心待ちにしている。
その純真な眼差しに晒され、ガイはうろたえた。これまで数多くの強敵と戦ってきたつもりだが、ここまで狼狽した事はない。
入門して数日後。ガイはいきなり師範代の1人に抜擢され、幼年部の指導を任されてしまったのだ。
「あの……何かの間違いじゃねえかと思うんスけど……」
近くで見守る、先輩の師範代の1人に、ガイは泣きつくように問いかけた。
「俺みたいな新米が、こんな……」
「これは子供たちのため、だけではありません。貴方自身の修行でもあるのですよ、ガイ=ファング」
先輩の師範代が言った。
線の細い、初老の男である。だが呆れるほど強い。ガイも1度、見事に投げ飛ばされた。
あの猪を仕留めたのは、この人物であるという。
「貴方ほど強くなると、もはやそれ以上は、そう簡単には強くなれません。単純に肉体を鍛える、以外の修行を試みる段階に、貴方はすでに達しているのです。何しろ、貴方は強い。肉体的な力と技だけならば、この道場の誰よりもね……もちろん私など、貴方の足元にも及びません」
「そ、そんな事ぁねえと思いますが」
「まあ、あれこれと考える前に、まずは取り組んでみる事です」
初老の師範代が、微笑んだ。
「子供たちにものを教える事が出来れば、大抵の事は出来るようになりますよ」
「……わかりました」
ガイは覚悟を決め、子供たちと向かい合った。そして身構える。
子供たちも、構えた。まっすぐな、純真そのものの眼差しが、ガイを圧倒してくる。
この困難に打ち克つのが即ち修行だ、とガイは思い定める事にした。
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