<東京怪談ノベル(シングル)>


闘神、死の山へ


 子供たちが、泣いていた。
 ガイせんせい、いかないで。そう言いながら皆、ガイの巨体のあちこちにしがみついて来たものだ。
「ちきしょう……あいつら……」
 岩ばかりの山道をのしのしと歩きながらガイ=ファングは、思いきり鼻をすすって涙を拭った。
 別れもまた修行の1つ。そう思うしかなかった。
 自分は、もっともっと強くならなければならない。あの子供たちに対して、恥ずかしくないくらいにだ。
 雇われ師範代としての契約期間が満了したその日。道場の先輩たちは、このまま正規の師範代として働いてみませんか、と言ってくれた。
 師範代らしき事が少しは出来たのかどうか、ガイ自身にはわからない。幼年部の子供たちに受けが良かったのは確かだが、結局それだけだったのではないか、という気もする。
 ただ1つ、わかった事がある。
 他人を強くするのは、自分が強くなるよりも、遥かに難しいという事だ。
 貴方は強い。あの道場の師範代の1人が、ガイに向かってそう言った。肉体的な力と技だけならば、貴方の上をゆく者など、そうはいません。そんなふうに、誉めてくれた。
 肉体の力など、いくら強くとも、子供たちに何かを教える役には立たない。
 雇われ師範代としての数ヶ月は、それを痛感するための期間であったと言って過言ではなかった。
 自分は、肉体の力以外の強さを、手に入れなければならない。
 そうしなければ、誰かに何かを教える事など出来はしない。誰かを支え導く事など、出来はしない。誰かを守る事など、出来はしないのだ。
 ガイはこれまで、自分1人のためだけに強くなってきた。自分が強くなるためだけに、肉体を鍛えてきた。
 それではもう、これ以上は強くなれない。
 誰かのために、強くなるべきなのだ。例えば、あの子供たちを守るために。
 自分以外の誰かを、守るための、教え導くための、支えるための、強さ。肉体の力だけでは、充分ではない。
 だからガイは今、この山にいる。あの道場の先輩の1人が、ここを紹介してくれたのだ。
 霊山として名高い山である。ここに、気の力を用いる武術の達人が住んでいるという。
 気の力。すなわち精神の力、心の強さだ。その修行はガイに、肉体の力以上のものを、もたらしてくれる事であろう。
 とにかくまずは、その達人に会ってみる事であった。頭を下げて弟子入りをするべき人物なのかどうかは、会ってから決める。
 いくらか手荒い試しを行う事に、なるかも知れない。ガイがその達人を試すのか、達人の方がガイを試すのか。
 いや。その前に自分はまず、この山に試されている。
 思い定めながらガイは涙を拭い、分厚い胸板を反らせて深呼吸をした。
 空気が薄い。まだ、それほどの高度ではないにもかかわらずだ。
 険しい霊山の、中腹の辺りに今、ガイはいる。
 寒々しい岩肌と、そこにしがみつくように生えている僅かな高山植物。そんな風景の中に、筋骨隆々の半裸身が、強風を浴びながら佇んでいる。
「霊山……ってのは伊達じゃねえようだな」
 にやりと不敵に、いささか息苦しそうに、ガイは微笑んだ。
 空気が薄く、だがそれでいて重い。全身に、まとわりついて来るような感じがある。
 まとわりつく重い空気が、手足の動きを阻害する。
 ただ山道を歩いているだけだと言うのに、ガイは体力を消耗していた。
 霊山と呼ばれるにふさわしい、何やら特殊な力が、山全体に働いているようである。
「ここに住んでりゃ、そりゃあ強くなれるだろうぜ……おっと」
 ガイはとっさに、半裸の巨体を屈めた。
 頭上で、凄まじい風が吹いた。ブンッ! と轟音を発する、棍棒の空振り。
 襲撃だった。
 ガイとほぼ同等の巨体が、鼻息荒く殴り掛かって来たところである。
 獣毛に覆われた、筋骨たくましい人型。頭には鋭い大型の角が生えており、ガイの守護聖獣たるミノタウルスに少し似ている。だが凶暴に牙を剥いたその顔面は、猿に近い。
 そんな怪物が3体、熊を一撃で撲殺出来そうな棍棒を握り構えてガイを取り囲んでいる。
 取り囲んでいる、と見えた時には、すでに襲いかかって来ていた。3本の棍棒が唸りを立て、半裸の巨漢1人に集中する。
 ガイは両手を振るった。分厚く強固な左右の掌が、棍棒2本を打ち払い受け流す。
 3本目はかわしきれないので、ガイは背中で受けた。甲冑のような背筋が、棍棒を弾き返す。
 背中に少しだけ痛みを感じながら、ガイは振り向き、左足を突き込んだ。
 その蹴りを、怪物がひらりと回避する。跳び退ってかわし、即座に棍棒を構え、殴り掛かって来る。
 恐ろしく敏捷な動きだった。この怪物たちは、空気の薄さも重さも全く感じていない様子である。霊山内の環境に、完全に適応しているのだ。
 一方のガイは、今の僅かな攻防だけで息が上がっている。
「へっ……こいつぁ、キツいわ……」
 苦しげに、笑ってみる。
 そうしながら、踏み込んで行った。殴り掛かって来る怪物たちの、真っただ中へと向かってだ。
 3本の棍棒が、腕に、肩に、腹部に、激突してくる。かわさずに、前腕筋・三角筋・腹筋で弾き返した。かわすよりも痛みに耐えた方が、体力の消耗は少なくて済む。
 頭部だけは守りながら、ガイは拳を叩き込んだ。右、左、右。全て命中し、怪物たちの分厚い獣毛と筋肉が、拳の形に凹んだ。
 気の力を操る武術なら、ガイにもいくらかは心得がある。
 今ガイは、体内の気を拳に宿して叩き込む「巨人の拳」を放った。そのつもりだった。
 だが気の力は発現せず、単なる拳の一撃になってしまった。
 気の発現は、呼吸と密接に関わっている。
 この薄い空気の中で自在に気の力を操るには、やはり修行が不可欠であるという事だ。
 ガイの拳を喰らった怪物3体が、吹っ飛んで倒れ、起き上がり、悲鳴を漏らしながら逃げて行く。
 巨人の拳が発動していれば、3体とも砕け散って絶命していたところである。
 また襲って来るかも知れない敵を仕留め損ねてしまった、と考えるべきか。無益な殺生をせずに済んだ、と思うべきなのか。
 わからぬまま、ガイは歩き出した。
 歩き出した足が、よろめいた。
 ガイが踏みとどまろうとした時には、地面そのものが消え失せていた。
 断崖である。ガイは、足を踏み外していた。
「いけねえ……馬鹿やっちまった……」
 薄い空気を巨体で切り裂き、崖底へと落下してゆく。それを感じながら、ガイは苦笑した。
 子供たちの泣き顔が、脳裏に浮かんだ。


 目が覚めても、自分がまだ生きているという事には、すぐには気付けなかった。
「……どこだい、ここは……」
 地獄や冥府、の類ではなさそうだった。
 相変わらずの空気の薄さを感じながら、ガイはゆっくりと起き上がった。そして見回してみる。
 洞窟の中だった。外部の明かりが奥まで射し込んで来る、あまり深くない洞窟である。
 外へ向かって歩きながら、ガイは気付いた。崖から落ちたはずの自分の身体が、全くの無傷である事に。
 洞窟を出ると、岩ばかりの風景が広がった。霊山の、奥地とも言える場所のようだ。
 特に大きな岩の上で、男が1人、座禅を組んでいる。
 ガイと、ほぼ同程度の巨体であった。がっしりと盛り上がり引き締まった筋肉は、まるで名匠の手による彫刻像のようである。神々しさすら感じられる。
 布か毛皮か判然としないものを腰に巻き付け、髪と髭は伸び放題。蛮族か原始人のような男でもある。
 毛むくじゃらの顔面の中で、両眼が開き、ガイを見下ろした。
「……若いの、生きてたかい」
「あんたの、おかげさ」
 訊かずとも、ガイにはわかった。この男が、気の力で自分を治療してくれたのだ。
 ちょっとした怪我を気功で治すくらいならば、ガイにも出来ない事はない。が、崖から落ちた肉体をここまで全快させるのは不可能である。
 荒っぽい試しなど、する必要はなかった。
 岩の上にいる、この神々しい原始人のような男は、自分など足元にも及ばない気の使い手である。
 ガイは跪き、巨体を屈めて頭を垂れた。
「恩に着る……あんたには、命の借りを作っちまった。それを返せもしねえうちに図々しいとは思うけどよ……俺を、弟子にしてもらいてえ」
「よせやい。弟子にするつもりで拾ってやったわけじゃねえ」
 男が、岩の上でニヤリと髭面を歪めた。
「わしはただ、珍しい生きもんを拾ってみただけよ」
「珍しい……俺が?」
「おうよ。この山に棲んでる連中と戦って、生きてられる。崖から落っこちても死なねえ……どんな奴なのか、ちょいと拾って見てみようって気にもなるじゃねえか」
 座禅を組んだまま、男は笑っている。
 これほど不敵で人懐っこく、そして獰猛な笑顔を、ガイは見た事がなかった。
 そんな笑みを保ったまま、男が言う。
「わしはな、何にも教えねえぞ。おめえがどこまでやれるのか、どこまで死なずにいられるのか、試すだけだ」
 教わるのではなく自分で盗め、という事だろう。
 ガイは顔を上げ、同じような笑みを返した。
「……死んじまったら、その辺に捨てといてくれよ」
 あの怪物たちの餌くらいにはなるだろう、とガイは思った。