<東京怪談ノベル(シングル)>


雪原の舞い


 誰かが、エルファリアを呼んだ。
 何冊かの魔本をまとめて書架から取り出そうとしていた手を止め、エルファリアは耳を澄ませた。
 耳では、何も聞こえない。頭に、心に、何者かが直接、呼びかけてきている。
「……誰?」
 エルファリア王女の問いかけに、声で答える者はいない。
 公務が予定よりも早く終わり、久しぶりに魔本遊びをする時間が出来たのだ。
 レピアの石化が解ける前に今回の魔本を選んでおくため、エルファリアは今こうして書庫にいる。
 そして、何者かの呼び声を聞いている。
 エルファリアは、とある書架の前で立ち止まった。
 最上段、やや左寄りの場所に収まった、1冊の魔本。
 間違いない。音なき呼び声は、そこから発せられている。
 踏み台を使って、エルファリアはその魔本を取り出した。
 表紙には、見慣れぬ文字が刻み込まれている。
「これは……かなり古い時代の魔本ね」
 解読には、恐らく何冊かの辞典を使った翻訳作業が必要となるだろう。
 とりあえず魔本である事に疑いを抱かぬまま、エルファリアはそれを開いてみた。


 気が付いたら、白い闇の中にいた。
 轟音を立てて吹きすさぶ、猛吹雪である。
 その中をエルファリアは今、彷徨っている。
(違う……これは、魔本……ではない……?)
 寒さで、思考すら麻痺しかけている。辛うじて、エルファリアはそう思った。
 魔本は、基本的に玩具である。
 魔本の中でどのような目に遭っても、たとえドラゴンに喰われようとバラバラに切り刻まれようと、現実の読者の肉体に影響が及ぶ事はない。
 だが、この吹雪は違う。
 まるで冷たい刃物のような寒気が、薄手のドレスしか身にまとっていない王女の細身を、容赦なく襲う。
 現実的に自分は今、凍死しかかっている。それをエルファリアは、呆然と実感していた。
(レピア……)
 薄れゆく意識の中、浮かぶのはその名前だけだ。
 その時。白い闇の中に、黒い巨大なものが、ぼんやりと浮かび上がった。
 石造りの建物。大きな家、と言うよりも館……否、城郭だ。
 雪に足を取られながらエルファリアは、よろよろと門扉にすがりついた。ドアノッカーを、凍えかじかむ手で掴もうとする。が、掴めない。
 声が聞こえた。
「……どなた?」
 耳に心地良い涼やかな声が、吹雪の轟音に掻き消される事なく、聞こえて来たのである。
 どなた、と訊かれたのだから名を名乗るべきなのだろう。エルザードの王女という身分を明かした上で、助けを乞う。それが礼儀というものだ。
 だがエルファリアは、
「助けて……」
 そんな言葉を漏らすのが、精一杯だった。
「お願い……たすけて……」
「……お入りなさいな」
 涼やかな声の主が、そう言ってくれた。
 次の瞬間、エルファリアは城の中にいた。
 凍えきった身体に、暖かさが染み入って来る。
 豪奢なエントランスホールの中央に今、エルファリアはいた。
 あちこちに、美しい彫刻像が飾られている。若く美しい、貴婦人像の数々。
 石像ではない。木像や、塑像でもない。
 全て、氷像である。この暖かな屋内温度でも、全く溶け出す様子を見せない、氷の貴婦人たち。
「……お気に召していただけたかしら?」
 冷たいほどに、涼やかな声。
 氷像ではない貴婦人が1人、足取り優雅に階段を下りて来たところだった。
 すらりと優美な肢体には青白いドレスをまとい、その上から毛皮のガウンを羽織っている。
 綺麗に結い上げられた銀色の髪には、雪の結晶の形をした髪飾りが咲いていた。
 白い肌は、まだ誰にも踏まれていない新雪を思わせる。
 美貌だけならば、レピアより上かも知れない。エルファリアは、そう感じた。
「貴女のような人を、待っていたわ。身も心も美しい人……」
 白い貴婦人が、歩み寄って来る。優しい、だがどこか冷たい笑みが、嫣然とエルファリアに向けられる。
「貴女のその美しさは、永遠のものになる……安心なさい。醜く老いさらばえてゆく肉体の方は、私が面倒を見てあげるから」
 エルファリアの心が、恐怖で凍えた。
 城外の暴風雪すら問題にならないほど冷たい何かを、この白い貴婦人は持っている。
 逃げなければ。だが身体が動かない。エルファリアの心も身体も、凍えきっている。
(レピア……助けて……)
 エルファリアは叫ぼうとしたが、唇も舌も動かない。心の中で、悲鳴を上げるしかなかった。
(レピア……)
 凍えた唇に突然、温かく柔らかな感触が被さって来た。
 白い貴婦人の、口づけだった。
 冷えきった唇に、舌に、甘美な温かさが注ぎ込まれて来る。
 その温かさが、エルファリアの凍えた身体を、凍り付いた心を、蕩かしてゆく。
「氷は、冷たいだけのもの……そう思っている?」
 白い貴婦人の柔らかな唇が、エルファリアの唇に密着したまま、そう動いた。
「氷はね、美しいものを永遠に美しく、とどめておく事が出来るのよ……」
(レピア……)
 身も心も蕩けさせるような甘美な温かさの根底に、しかし恐ろしく冷たいものがある。
 それを感じながらもエルファリアは、貴婦人の口づけから逃れる事が出来なかった。
(助けて、レピア……)
 白い貴婦人の身体に、エルファリアは両腕を回し、自ら唇を押し付けていった。
 そして甘美さを、柔らかさを、温かさを、貪った。
(ごめんなさい……レピア……)
 温かさの中で、エルファリアは凍えていった。


「さーむぅーいぃいいいいいッッ!」
 暴風雪の中で、レピアは悲鳴を上げていた。
 石化が解ける時間である。が、エルファリアがどこにもいない。
 書庫へ行くと、妖しげな書物が開きっぱなしで放り出されている。
 エルファリアがどこへ行ってしまったのかは、明らかであった。
 魔本と間違えて、彼女は厄介な禁書を開いてしまったのだ。
「ったく、いっそ魔本禁止令でも出しちゃってくんないかねぇ聖獣王陛下も」
 そんなものにエルファリアが従うかどうかはわからない、と思い直しつつ、レピアは足を止めた。
 雪原の中、まるで猛吹雪を押しのけるようにして、巨大な城郭がそびえている。
 その門扉が、開いたところであった。
 優美な人影が1つ、暴風雪の中へと歩み出て来る。
「エルファリア……?」
 名を呟きながらもレピアは、違う、と判断した。
 猛り狂う風雪など存在しないかのように、ゆらりと雪原に現れたその女性は、エルファリアであってエルファリアではない。彼女の肉体を着た、人ならざるものだ。
「雪の女王……」
 禍々しいものの名を、レピアは口にした。
「何百年か前に、あんたの噂は聞いた事があるよ。魔本まがいの禁書に封じ込められた、この世で一番たちが悪い氷の精霊……」
「ご存じのようで光栄だわ。人間なのかどうか、よくわからないお嬢さん」
 雪の女王が、エルファリアの顔で微笑んだ。
 レピアの頭に、かっと血が昇った。
 エルファリアは、こんな魔性の女そのものの邪悪な微笑など浮かべない。
「……エルファリアを、返してもらうよ」
「私をご存じなら、説明する必要はないと思うけれど」
 雪の女王は言った。
「私が外の世界へ出るには、肉体が必要なの。せっかく私の肉体にふさわしい、身も心も清らかな姫君を見つけたのよ……返せるわけが、ないでしょう」
 エルファリアの両眼が、冷たい、危険な輝きを帯びた。
 レピアは後退りをした。戦いなど、出来るわけがない。相手はエルファリアの身体を着ているのだ。
(それなら……)
 レピアは目を閉じた。
 頭の中で、音楽が流れ始めた。
 それに合わせて、青く長い髪が、暴風に逆らってフワリと舞う。
 しなやかな両の細腕が弧を描き、たわわな胸の膨らみが激しく揺れて風雪を打ち払う。
 美しく引き締まった胴が柔らかく捻れ、すらりと伸びた左右の美脚が高らかに舞い上がった。
 すっ……とエルファリアが、雪の女王が、片手を差し伸べて来る。
 レピアの頭の中に流れている音楽を、彼女も聞いているのだ。
「何百年も前に聞いた、貴女の噂話……思い出したわ、傾国の踊り子さん」
 雪の女王が、エルファリアの唇から陶然と言葉を漏らす。
「精霊や聖獣、神さえも惹き付けて止まないと謳われる舞い……噂以上ね……」
「あたしの名前を知っててくれるのは、何百年単位で生きてる年増連中ばっかり……やんなっちゃうね」
 苦笑しつつレピアは、エルファリアの手を取った。
 そして、共に踊った。
 白い闇を成すほどに吹きすさぶ猛吹雪の中。傾国の踊り子と雪の女王が、戯れるように舞い続ける。
「……いいわ。今回は、これで満足しておいてあげる……貴女の舞いを、堪能出来たから」
 白い闇が、輝いた。
「せっかく綺麗な氷像になったけれど、この姫君の魂も返してあげるわ」
 雪の輝きの中に、レピアとエルファリアは消えていった。
「いつか、また一緒に踊ってもらうわよ……」


 書庫の中で、レピアはくるくると回りながらエルファリアを抱き止めていた。危うく、書架に激突してしまうところだった。
「レピア……?」
 エルファリアが、今まで眠っていたかのような声を発した。
「私……夢の中で、貴女と踊っていたような気がするわ……」
「もうっ……踊って振り回して、へとへとにさせてやるっ」
 夢で片付けようとする王女を、レピアは思いきり抱き締めていた。