<東京怪談ノベル(シングル)>


聖女の森


 人は、状況というものに慣れてゆく。
 咎人の呪い……昼間は石像と化しており、夜にならなければ動く事も出来ない。
 そんな難儀な身体のせいで、ずっとエルファリア王女に迷惑をかけ続ける……などという状況にも、ずるずると慣れていってしまうのだ。
 エルファリアに甘えっぱなしの自分というものに、レピアは最近、慣れきっていた。
 この慣れは、断ち切らなければならない。
「自分の呪いは、自分で解かなきゃ……ね」
 聖都エルザードから遠く離れた、とある地方に広がる森。
 1人、その中を歩きながらレピア・浮桜は、たった1つの事だけが気がかりだった。
「エルファリア……心配してるよね。怒ってるかもね」
 この森の奥に、咎人の呪いを解く力を持った聖女が住んでいるという。
 そんな不確かな噂だけでレピアは、エルファリアには何も言わずに聖都を出た。
 言えば、彼女は全てをなげうって協力してくれるだろう。噂の真偽を確かめるためだけに王家の伝手を用い、エルザードの情報機関を動かし、下手をすると自らその聖女に会いに行く、などと言い出しかねない。
 公務で多忙を極めるエルファリアに、そんな事をさせるわけにはいかなかった。
 だからレピアは、夜間しか移動出来ない危険な一人旅を続けて、ここまで来た。昼間は、洞窟や岩陰などで、じっと石化しているしかなかった。
 当然、今も夜である。月明かりすら満足に届かない、深夜の森。
 鳥たちが、獣たちが、周囲の闇の中で様々な奇声を発している。昼よりも、やかましく感じられるほどだ。
 ふと、レピアは立ち止まった。
 ガサッ……と、闇の中で茂みが鳴ったのだ。
「うぅ……ぐぁるるる……」
 声を発するものたちに、レピアはいつの間にか取り囲まれていた。
 獣、ではなかった。
 獣のような四つん這いの姿勢で牙を剥き、目を爛々と血走らせた、それは人間の女性たちだった。3人、4人……つい3匹、4匹と数えてしまいそうになる有り様だ。
「あんたたち……」
 人間の姿のまま獣となっている彼女らに包囲され、レピアは困惑した。
 獣のような男たちならば、これまでの道中、何人も蹴り倒してきたのだが。
 獣となった女たちが、困惑するレピアを一斉に襲おうと跳躍の姿勢を取った、その時。
「おやめ」
 穏やかな、だが厳しさを秘めた声が、彼女らを制止した。
 獣と化した女たちがビクッ! と動きを止め、頭を垂れる。飼い主に従う、犬の仕種だった。
 闇の中から現れたのは、まるで発光しているかのような白いローブに身を包んだ、1人の女性である。フードを目深に被っていて顔はよく見えないが、整った口元と綺麗な顎の形は見て取れる。
 犬のようにうずくまる女たちの頭を優しく撫でながら、白衣の女性はゆったりと進み出て来た。
「道に迷った……というわけでは、なさそうだね」
 フードの下の美しい口元が、レピアに向かって言葉を紡ぐ。
「しっかりと目的地を見定めて、こんな森の中を歩いている。そんな足取りで、誰か人でも探しているのかな?」
「……たぶん、あんたを探してるんだと思う」
 レピアは言った。
 間違いない。この白衣の女性が、咎人の呪いを解く力を持つという聖女なのだ。
「聖女様、なんでしょ? お願いがあるんだけど……」
「ずいぶんと難儀な呪いを、受けているようだね」
 聖女が、獣となった女たちの頭を撫で続ける。
「この子たちと同じ、か……」
「同じ……?」
「みんな咎人の呪いを受けて、この森に流れ着いたのさ。呪いを解いてあげるだけなら、私にも出来るからね」
 咎人の呪いは解けたとしても、何か別の呪いを受けてしまったのではないか。
 そう思えるほど獣じみてしまった女性たちを愛おしげに撫で回しながら、聖女は言う。
「よく見て、考えるといい……咎人の呪いが解けるというのは、こういう事さ」
 レピアは、何も応える事が出来なかった。
 喉が詰まりそうになるほど、息を呑む。出来るのは、それだけだ。
「呪いとは、人間を相手にかけるもの。つまり人間でなくなれば、いかなる呪いも効果を失う……」
 聖女の言葉は、続いた。
「そこまでして解かなければならない呪いなのかどうか……呪いを解く事で、何か失うものはないのか。あるとしたら、それに耐えられるのか。答えが出るまで何日でも泊めてあげるから、よく考えてみるといい」


 王女という身分でありながら、私情に走り過ぎている。
 それはエルファリアとて重々、承知の上である。父である聖獣王に、いかようにも罰してもらうしかない。
 その前に、やっておかなければならない事がある。
「貴女のお尻を引っぱたく事よ、レピア……!」
 慈愛の女神のように思われているエルファリア王女でも、怒る時はある。今が、まさにそれだ。
 咎人の呪いを解く力を持つと言われる聖女を探すために、レピアがとある森へと向かった。
 そこまでは、エルザード情報機関の調べでわかった。
 その森でレピアが消息を絶ってから、すでに半年が経つ。
 エルファリアは、あまり得意ではない馬術を駆使して白馬に乗り、聖女の森を訪れていた。
 その白馬が、怯えて立ちすくんでいる。
「どうしたの……!」
 しがみつくように馬の首筋を撫でながら、エルファリアは息を呑んだ。
 前方の木陰から、1頭の熊が姿を現していた。
 どんな悪党も改心すると言われているエルファリア王女の哀願も、飢えた動物には効果がない。
 死を覚悟する暇もない速度で、熊が襲いかかって来る。巨大な前足が、王女も白馬も一緒くたに叩き殺す勢いで振り下ろされる。
 その時、風が吹いた。
 獣臭い風だ、とエルファリアは感じた。
 1匹の獣が、横合いから熊に襲いかかっていた。熊よりも、ずっと小柄な獣である。狼、いや豹であろうか。
 それが、巨大な熊ともつれ合い、激しく地面に転がった。
「うぅっぐぅ……ぁるるるるる!」
 声が聞こえた。獣の声、いや人間の声ではないのか。
 そんな事をエルファリアが思っている間に、勝敗はほぼ決していた。
 熊の太い首に、白い蛇のようなものが巻き付いている。
 むっちりと強靭な太股、形良い丸みを帯びたふくらはぎに、すらりと伸びた脛と足首。
 美しく鍛え込まれた両脚が、熊の頸部を締め上げていた。
 断末魔の咆哮が、一瞬だけ響き渡った。頸骨の折れる音が、それを掻き消した。
「ふぅっぐ……がふぅううぅぅ」
 首の折れた熊の屍の傍らで、その獣は唸りを発した。
 熊をも折り殺す両の美脚が、跳躍に備えて曲げられ、力強いほどに豊麗な尻が突き上げられている。
 引き締まった脇腹や背中には、べとべとに汚れた青い髪が貼り付き、しなやかな左右の細腕は、今や獣の前足となっていた。獰猛な、四足獣の姿勢である。
 やはり跳躍に備えて曲げられた両腕の間では、野生の果実の如くたわわな胸の膨らみが、荒々しい息遣いに合わせて揺れながら地面に触れていた。
 そんな牝獣の肉体のあちこちに、今やボロ布となった踊り衣装がこびりついている。
 泥と垢と擦り傷にまみれたその肌は、しかし美しい。獣の艶やかさだ。
「レピア……?」
 エルファリアが、馬上で呆然と声を漏らす。
 昼間である。なのにレピアは、動いている。踊り子の石像ではなく、血肉を備えた牝の獣と化している。
 咎人の呪いを解く。それは即ち、こういう事なのだ。
 エルファリアの声にレピアは応えず、跳躍した。獣の跳躍だった。
 もはや人の声は、届かないのか。
 それでも、エルファリアは叫ぶしかなかった。
「レピア!」
 やはりレピアは応えず、獣の跳躍で馬上のエルファリアを襲った。
 牙を剥いたレピアの顔が、エルファリアの視界を占めた。
 傾国の踊り子の美貌が凶暴に歪み、青い瞳はギラギラと攻撃的な光を漲らせている。エルファリアを、捕食の対象としてしか見ていない目だ。
「…………っっ!」
 地面に肩を打ち付けた。その痛みに、エルファリアは歯を食いしばった。
 落馬の瞬間、レピアが自分を庇ってくれた。エルファリアは、そう確信した。まともに落馬をしたら、痛みはこんなものでは済まない。
「……えるふぁ……りぁあ……」
 レピアが、ようやく人間の声を発した。
 凶暴にぎらついた青い両眼が、ぽろぽろと涙を溢れさせる。
「……ぁああ……える……ふぁりああぁ……」
「レピア……馬鹿……」
 牙を剥きながら泣きじゃくるレピアを、エルファリアはそっと抱き締めた。


 露天風呂に、レピアの悲鳴が響き渡った。
「いったぁあああい! 痛いよ、エルファリアぁ」
「私の心の痛みの、千分の一だと思いなさいっ」
 湯の中で、エルファリアはもう1度、レピアの豊かな尻を思いきり引っぱたいた。
「まったく……貴女には、首輪と鎖を付けておかなければ駄目なのかしらね」
「うう……動物扱いは、もう勘弁してよう……」
 泣きじゃくるレピアに、エルファリアは妄想の中で、犬の耳と尻尾を付けてみた。
(ふふっ……悪くない、のではないかしら)
 いくらか手荒くレビアの全身を洗い清めながら、エルファリアはそんな事を思った。