<東京怪談ノベル(シングル)>


獣めづる姫君


「本当に、そのままでいいのかい?」
 聖女のその言葉に、エルファリアはにこりと笑って頷いた。
「お日様の下で、元気に動いているレピアを見る事が出来ました。聖女様のおかげです……本当に、ありがとうございました」
 確かに今、太陽の光の下で、レピアは元気であった。
 首をへし折って仕留めた熊の屍に顔を突っ込み、肉か内臓か判然としないものをガツガツと喰いちぎり咀嚼している。元気なまでに意地汚い、食事風景である。
 他の女性たちが、飢えた獣の唸り声を発しながらも四つん這いで伏せ、行儀良く順番を待っている。
 獲物は、仕留めた者がまず喰らう。野性の掟、というわけだ。
 何か1つ間違えば、この熊と同じ目に遭っていたかも知れないエルファリア王女が、恭しく頭を下げる。
「うちのレピアが、どうもご面倒おかけいたしまして……さあ帰るわよ、レピア」
「ふぐぅう、ぐぁるるる……」
 エルファリアに耳を引っ張られて、レピアが不満げな唸りを漏らす。喰いかけの熊の屍に向かって、名残惜しげに手足をばたつかせている。
 それでも、力ずくでエルファリアの手を振り払ったりはしない。
 獣と化したレピアの引き取り手としては、この王女以外には考えられないという事だ。
 もう1度、聖女に向かって一礼してから、エルファリアはふわりと白馬にまたがった。馬術の稽古はしたのだろう。鞍に飛び乗る動きは、そこそこ様になっている。だが馬の進ませ方は、なっていない。
 王女の拙い手綱捌きで歩かされる馬を、レピアが四つん這いで追う。
 残された女たちが、食い残しの熊の屍に群がり、がつがつと獣の食事を始めた。
 1匹、いや1人、それに加わらず、森の一角をじっと見つめている女がいる。
 レピアが、エルファリア王女に連れられ、去って行った方向だ。
 誰からも忘れられ、誰に引き取られる事もなく、この森で獣として生きるしかない女が、そちらを見つめて唸りを漏らす。恨めしげな、羨ましげな、寂しげな唸り。
「……くうぅ……ぅん……」
「……お前たちには、私がいるよ」
 その女の頭を、聖女は優しく撫でた。
 他に、してやれる事など何もないのだ。


 こんな状態のレピアを連れて、表の街道を歩けるわけはなかった。
 人通りの少ない、いささか治安に問題のある道を選んで通る事になる。
 岩だらけの、多少は緑もある場所。ここさえ抜ければ、聖都エルザードはもう遠くない。
 レピアがはしたなく片脚を上げ、大きな岩に小便を浴びせかけている。
「ここは貴女の縄張りではないわよ、レピア」
 馬上で、エルファリアは苦笑した。
「まったく……ふふっ。犬を飼うのは、こんな感じなのかも知れないわね」
 苦笑しながらも、エルファリアは心が弾むのを止められなかった。
 何しろ、冷たい石像ではないレピアを、太陽の下で見る事が出来る。
 太陽の光を浴びながら、レピアと一緒に旅が出来るのだ。
 だが当然、旅をしていれば、こういう事もある。
 王女を乗せた白馬が足を止め、不安げにいなないた。その首筋を、エルファリアは優しく撫でてやった。
 周囲の岩陰から、いくつもの人影が現れ、エルファリアとレピアを取り囲んでいる。人相の悪い、武装した男たち。
 何者か、などと訊いてみる必要もない。強盗の群れである。
「おいおい……俺たちゃ夢でも見てんのかあ?」
 全員、剣を抜き、槍や戦斧を構え、へらへらと凶悪な笑みを浮かべている。
「こんな上玉なお嬢さんが、俺らの縄張りに入って来るなんてよぉ」
「そっちの犬みてえな女は……何だ? 頭でもおかしいのか」
「けど別嬪だぜ。綺麗に洗ってやりゃあ、かなりの値打ちもんになりそうだ」
「よーしよし、大人しくしてな嬢ちゃんたち。大事に大事に扱って、高く高ぁく売り飛ばしてやっからよぉ」
 得物を揺らめかせながら、強盗たちがじりじりと包囲を狭めて来る。
 どう言って聞かせたものかエルファリアが思案している間に、傍らからレピアの姿が消えた。
 強盗たちがグシャッ、ばきっ! と真紅の飛沫を散らせ、倒れてゆく。
 風に、打ちのめされている。そんな感じだ。
 強盗たちやエルファリアの動体視力で、捉えられる動きではない。
 だが、何が起こっているのかは明らかだ。エルファリアには、すぐにわかった。
「レピア! やめなさい!」
 王女の叫びが、凛と響き渡る。
 その時には、強盗団はほぼ壊滅していた。全員、倒れたまま苦痛の呻きを漏らしている。
 レピアの、いかなる攻撃を喰らったのかは不明だ。主に蹴りではあろうが。
 傾国の踊り子の身体能力が、今や獣同然に高まっているのだ。獣が本気で動けば、人間の目では追えなくなる。
 強盗たちは全員、辛うじて生きてはいた。もう少し人数が少なく、レピアが攻撃を分散させずに済む状況であったなら、間違いなく何人かは殺されていただろう。
 そのレピアが、エルファリアの怒声に撃墜されたかの如く着地し、這いつくばってうなだれた。叱られた犬のような仕種である。
 エルファリアは、にっこりと微笑みかけた。
「助けてくれて、ありがとうねレピア……でも、やり過ぎては駄目よ?」
「うぅ……るる……」
 上目遣いで、レピアがじっと馬上の王女を見つめている。
 首輪を付けたら可愛いだろうか、とエルファリアはふと思った。


「まあ結局、首輪と鎖は勘弁してあげる事にしたのだけれど」
 言いつつエルファリアは軽やかに振り向き、レピアの顔をじっと覗き込んだ。
「本当に……覚えていないの? 道中、貴女がどのような有り様だったのか」
「覚えてないってば。嘘でしょ? あたしが、そんな」
 レピアが、可愛らしく辟易している。
「……あっちこっち粗相しまくりながら、歩いてたなんて」
「ふふっ……傾国の踊り子の、知られざる一面を見る事が出来たわ」
 エルファリアは笑った。レピアは、恥ずかしがっている。
「ねえ、これ……」
 青い髪にはめ込まれた、犬の耳。豊麗な尻に装着させられた、犬の尻尾。
 それらを気にしながら、レピアが泣きそうな声を発している。
「……いつまで、付けてればいいの?」
「私が飽きるまでよ」
 飽きたら猫の耳と尻尾も試してみよう、とエルファリアは思った。