<東京怪談ノベル(シングル)>


this and that

「今日、お仕事でここを通るって聞いたから!」
「おかげさまで荷物は全部無事でした、って!」
「親方が、ほんと助かった、ありがとうって!」
「どうぞ! 問屋さんと親方からのお礼だよ!」
 懐っこいわりにせっかちな性分なのか、徒弟風の身形をした少年はひとしきりまくしたてると身を翻し、たちまち雑踏にのまれた。
「……」
 うむをいわさず渡された麻袋をしばし眺めたのち、千獣(せんじゅ)は踵を返し、帰途についた。賑やかな市街を突っきり、夕餉の煙がたちのぼる集落からはずれ、茜色の空の下、鳥の群れと競うように森へと向かう。このところ街とはつかず離れずで、今日のように依頼の支度を整えてから森に戻ることも少なくない。
「あ……」
 石畳から砂利道を経て、むきだしの地面に刻まれたわだちの跡を見たとき、千獣は先日の出来事を思い出した。
 とある依頼の帰りがけ、ぬかるみに車輪をとられて横倒しになった荷馬車に行き会ったのだ。馬の方は街道沿いの灌木に繋がれてのんびり草を食んでいるものの、満載の荷をしっかりと括った車は、人夫一人ではびくともしない。
「そこのねえさん、わりぃが──」
「うん、いいよ……」
 真っ赤な顔で息を切らした男に呼びかけられ、救援要請と解釈した千獣は即座に車に手をかけ、元に戻してやったのだ。運搬に支障をきたす破損はなさそうなので、なぜか口をあんぐり開けている人夫──実は、最寄りの村から男手を頼んでもらおうとしていた──をそのままにして立ち去ったのだが……
 あの後、報告を受けた荷主あたりが照会したのだろう。
 所在なげに佇んでいた少年が、彼女を認めた途端に満面の笑みで駆け寄ってきた理由が、ようやくわかった。
 回想にふけりつつ、千獣は森に分け入り、踏み固められた細道から逸れて獣道を進んでいった。柔らかな土や、若葉の匂いをまとった春の温気が鼻孔をくすぐる。
 急に手にした袋に意識が移ったのは、場違いな匂いを嗅ぎとったからかもしれない。
 さっきの少年は、何と言っていたっけ。確か、そう──
 記憶から浚い出した響きを、千獣は呟いてみた。
「晩ごはん、に、食べてね……」
 食べてね、か……
 軽い身ごなしで薮をすり抜けながら、千獣は思考の淵に沈んでいった。


 食する、ということ。
 それは、他者の命を糧に、自らの命を繋ぐこと。
 ただそれだけの行為であり、魔性の森を生き延びてきた遠い昔から変わらないこと、だった──人間と交わるまでは。
 人間の世界に足を踏み入れ、断崖から望む峡谷とは異なる風景を見、広野を渡る風以外の音を聞き、ふわりと厚い苔にも似たここちよさに触れて、様々なことを知った。
 人間は、得た糧を料理し、食する。料理という過程を経ずには消化さえおぼつかないのだから、そうしなければ食べられない、というのはわかる。
 でも、それだけではなくて。
 切り分け、振りかけ、浸し、熱し、冷やし──火さえ通せば容易く血肉に変えられるにもかかわらず、敢えて手間ひまをかけた末に食するその様は、自分が獲物を食べるそれとは、何かが違っていて。
 人間が食事と呼ぶその行為が、獣と人間を隔てるものにも感じて。
 負い目をおぼえたわけではない。悲しいというのも的外れだ。ただ、在るとわかっていながらどうしても見つけられない棘めいたわだかまりが、心にこびりついて離れなかった。
 けれど。
 満ち足りれば食事だ、と『彼』は言った。
「食する者が満足すれば、それは単なる補給ではなく食事である!」と。
 来し方に思いを馳せる。
 死力を尽くし、闘いぬいて勝ち取った獲物。牙を突きたて、引きちぎり、噛み締める。人間の言う、味わうというものではなかったろう。しかし、噛み砕き飲み込んだ血肉が自らの一部となる、あの震えるような感覚には、満ち足りるという言葉こそがふさわしい。
 ──ならば、自分もまた、ずっと食事をしていたのだ。
 思い至った瞬間、不可視の棘は融け失せた。
 何となし、獣と人間とを隔てるものが一つ、なくなったような気分だった。

 
 千獣は薮の果て、木立に囲まれた空間に辿り着いた。
 ほぼ円形の空き地の中央には、据えられた時代も謂れも窺い知れぬ、古びた柱状の石が環を描いている。ここは数あるねぐらの一つであり、歳月に傾いだ石は、もたれかかるのにちょうどよい。なぜか草が生えることのない環の内側に腰を下ろすと、千獣は麻袋を開いた。
 中には、『○○商会より冒険者様に感謝をこめて』とのカードを添えたほどよい額の硬貨と“晩ごはん”が入っていた。ライ麦パンにワインの小瓶、こんがりと焼き色のついた肉は、豪快に塊のままだ。包み紙に『さめていてもおいしいけど、ちょっとあっためるともっとおいしいです』と走り書きし、ご丁寧に火口と火打石まで付けてくれたのは、あの少年だろうか。
「……」
 どうしたものか。
 夜目は利く。闇を徘徊する獣に怯える必要もないし、凍える季節でもないけれど──
 つかのま逡巡し、それから、千獣は火をおこした。記憶と知識を元に、肉を軽く炙り、頬張る。
 感じるのは薄れゆく体温とは別の温かさ、溢れるのは塩や香草と混じりあった脂。おいしい、と評される感覚は、やはり掴めない。
 でも、嫌では、なかった。
 ふと、好悪がわかれば十分、とも断じた甲高い声が脳裏をかすめる。
 うっすらと、自覚もなく微笑したとき、焚火にくべた枝が爆ぜた。
 たちのぼる煙に夕暮れの集落を重ねて仰げば、丸く切り取られた空に星がまたたいていた。