<東京怪談ノベル(シングル)>


真珠の姫君


 心地良い闇の中に、エルファリアは今、沈みかけていた。
 暖かい。いや、涼しいのかも知れない。
 もしかしたら、火傷を負うほど熱いのかも知れない。肌がひび割れるほど、冷たいのかも知れない。
 なのに心地良さしか感じられないのは、感覚そのものが奪われつつあるからだと、エルファリアは気付いてはいた。
 手足が動かない。手足があるのかどうか、それすらもわからない。
 声は、辛うじて出た。
「助けて……」
 何故、こんなふうに助けを求めなければならない状況に陥ったのか。それもエルファリアは、思い出せなくなりつつあった。記憶も奪われかけている。
 朧げに思い出せるのは、1人の美しい女性の姿だ。
 確か、ソーン辺境のとある地方を治める女伯爵だった。
 辺境伯という肩書きからは想像もつかぬほど聡明で洗練された女性貴族であったのを、エルファリアは辛うじて覚えている。
 そんな美しき辺境伯に、洋上の宴へと招待された。
 帆船の甲板上で催された、豪奢な食事会及び舞踏会。
 王宮で生まれ育ったエルファリアでさえ魅了されてしまうほどの、夢のような一時だった。
 レピアを連れて来られる時間帯ではなかった事が、本当に悔やまれた。
 宴もたけなわの頃、辺境伯はエルファリアの耳元で囁いた。
 王女様にぜひ御覧になっていただきたいものがありますの。辺境の物産の1つですわ、と。
 上手く扱えば、ソーンの民の生活が豊かになる。その言葉に心動かされ、エルファリアは辺境伯に連れられるまま船底へと向かったのだった。
 そして今、こんな所にいる。
 こんな所、というのがどこであるのかも、そろそろ思い出せなくなり始めていた。
 自分の身体が、何かに包まれてゆく。わかるのは、それだけだ。
 少しずつ染み込んで来る液体が、袋状の膜を成し、エルファリアの全身を包んでゆく。
 その膜に、自分の全てが染み出してゆく。
 自分の全てが吸い出され、奪われてゆく。
『レピア』
 誰かの声が聞こえた。いや、自分の声ではないのか。
 レピアの声も聞こえた。
『エルファリア……』
 懐かしさに、エルファリアの胸は痛んだ。
 レピアが、自分の名を呼んでくれている。
 それに、エルファリアの声が応えた。
『何だか、ずいぶん久しぶり……ごめんなさいね、このところ貴女のお相手をしてあげられなくて』
『ああ気にしない気にしない。あたしはあたしで、適当に楽しくやってるから』
 何者かが、エルファリアの声でレピアと会話をしている。
(誰……私の声をした、貴女は誰? 私? では……私は、何……?)
『……忙しいからって、あんまり無理しちゃ駄目だよ?』
『ありがとうレピア。私なら、大丈夫よ』
 レピアと会話をしているのは、紛れもなくエルファリアだ。
 それでは、ここにいるエルファリアは誰なのか。何なのか。
(私は……ただの、真珠……)
『今度、また魔本遊びをしましょうね。とっておきの禁書を見つけたから』
『石になったりバラバラにされたりとかは、もう勘弁よ?』
(やめて……)
 全てを、奪われつつある。姿も、声も。エルファリアという名も。
(レピアまで……奪わないで……)
 何もかもを奪われ、空っぽになった心に、恐怖が満ちていった。


 エルファリア王女は、忙しい。
 暇がある時は、レピアと一緒に夜通しで魔本遊びに興じる。
 公務が山積している時などは1週間以上、レピアと顔を合わせられない事もある。
 だから最近、エルファリアが自分を避けている、などとはレピアは思わないよう心がけているつもりだった。
 満月の夜。
 エルファリア別荘の庭園で、レピアは大きな庭石に座り込み、豊かな胸を抱くように腕組みをしていた。
 最近のエルファリアは、やはりどこか、おかしい。
 それは全く、根拠のない思いだった。
「根拠を突き詰めて、理屈っぽく考えていく……そうやって出した答えって案外、間違ってる事が多いのよねえ」
 レピアは呟き、夜空を仰いだ。
 エルファリアが最近、会ってくれないからと言って、自分はただ子供っぽく寂しがっているだけなのかも知れない。
 それならそれで、構わない。
 エルファリアの様子が何かおかしいと今、思うのなら、とりあえず調べてみるべきなのだ。
 問題は、何をどのように調べるのか、という事だった。
 レピアは溜め息をつき、頭を掻いた。
「あれを、やる……しかないって事?」
「レピア」
 声を、かけられた。涼やかな、玉を転がすような美声。
 エルファリア王女が、護衛の兵士数名を引き連れ、歩み寄って来たところである。
「エルファリア……」
「何だか、ずいぶん久しぶり……ごめんなさいね。このところ、貴女のお相手をしてあげられなくて」
「ああ気にしない気にしない。あたしはあたしで、適当に楽しくやってるから」
 レピアは微笑み、続いて気遣わしげな表情を作ってみた。
「……忙しいからって、あんまり無理しちゃ駄目だよ?」
「ありがとうレピア。私なら、大丈夫よ」
 エルファリアも、微笑んだ。
 どこからどう見ても、エルファリアの笑顔だった。どんな悪党も改心すると言われている、天使の微笑。
「今度、また魔本遊びをしましょうね。とっておきの禁書を見つけたから」
「石になったりバラバラにされたりとかは、もう勘弁よ?」
 そんな会話を最後に、エルファリアは優雅に背を向け、歩み去って行った。
 たおやかな後ろ姿を見送りながら、レピアは念じた。思い出した。数百年もの人生の中で、最も思い出したくない出来事の1つをだ。
 あの時レピアは、汚らしく凶暴な獣だった。
 獣の力が、しかし今は必要なのだ。
 今までそこにいたエルファリアの残り香を、レピアは、形良い鼻をひくつかせて吸い込んだ。
「……違う……エルファリアの、匂い……じゃない……」
 獣の嗅覚が、それをはっきりと感じ取っていた。
「あいつ……エルファリアじゃ、ない……!」
 端麗な唇の内側で、白く美しい牙が凶暴に噛み合わさった。
 今すぐ追い付き、あの偽物をズタズタに引き裂いてぶちまける。
 その衝動を、レピアは懸命に抑え込んだ。
 今は一刻も早く、本物のエルファリアを捜し出さなければならない時だ。


 あの時の獣の力が、限定的にレピアの内部で甦っている。
 本物のエルファリアの匂いを、獣の嗅覚と脚力で辿る事が出来る。
 辿り着いた先は、聖都エルザードの港だった。
 エルファリアの匂いは、ここで途切れている。
 だがこれ以上、駆け回って捜す必要はなさそうだった。
 武装した男の一団が、レピアを取り囲むように迫って来ているからだ。
 海に、レピアを近付けまいとしている。
 それだけで、この近海に何かを隠していると白状しているようなものだ。
 恐らくどこかの貴族に仕える兵隊であろう、その男たちが、猛然と包囲を狭めて来た。
 剣が、槍が、様々な方向からレピアを襲う。
「うぐぅ……ぅるるる……ぐぅぁあああああああ!」
 綺麗な唇から、牝獣そのものの咆哮が迸る。
 兵士たちの眼前から突然、傾国の踊り子の姿が消え失せた。跳躍。レピアを狙って振り下ろされた剣が、突き込まれた槍が、ことごとく空を切る。
 見失った標的を求めて、兵士たちは空を見上げた。
 見上げた顔面がグシャッ! バキッ……と歪み、真紅の飛沫が噴出する。
 空中で、レピアは舞っていた。
 豊満でありながらスラリと引き締まった肢体が、まさに獣の速度で回転・躍動する。
 むっちりと力強い左右の美脚が、激しくあられもなく弧を描き、兵士らの顔面を打ち据える。
 倒れた兵士たちを一瞥もせずにレピアは着地し、駆け出し、海に飛び込んだ。
 白く優美な半裸身が、人魚の如くしなやかに潜水してゆく。
 それほど深くない海底の岩に、巨大なアコヤ貝が鎮座していた。
 レピアは躊躇う事なく、貝殻をこじ開けた。
 大型の真珠が、形成されていた。
 その表面に、禍々しい紋様が浮かび上がっている。
 ねじれ渦巻く虹色の歪みで構成された、それはエルファリアの顔だった。
 悲痛な、恐怖の表情だった。
 巨大なアコヤ貝の中で、エルファリアは、ずっと無言の悲鳴を上げ続けていたのだ。


 エルファリア王女に化けていた辺境伯は、逮捕された。
 逮捕されなければ、レピアが八つ裂きにしていたところである。
「……また、貴女に助けてもらったわね。レピア」
 別荘の露天風呂。あらゆる変異を解除する湯を浴びながら、エルファリアが呟く。
 つい先程まで巨大な真珠であった王女の肢体を、湯で洗い清めながら、レピアは言った。
「この前は、エルファリアがあたしを助けてくれたじゃないの……あたしたちって、どっちがいなくなっても駄目なんだね。きっと」
「レピア……」
 エルファリアが、身を寄せて来る。
 レピアは、無言で抱き締めた。かけようとした言葉は、嗚咽で潰されてしまった。