<東京怪談ノベル(シングル)>
呪いは再び
顔馴染みのウェイトレスが1人、音楽に合わせてクルクルと身を翻しながら、近付いて来る。酒のグラスが載った盆を、片手で器用に保持しながらだ。
「レピア、あちらのお客さんから!」
少し離れた席で、1人の女性客が、控え目に微笑みながら、こちらに向かってグラスを掲げている。
レピアは踊りに合わせて細腕を伸ばし、盆の上からグラスを掴みさらった。そして微笑みと乾杯の仕種を、その女性客に返した。
いくらか不健康なほどに痩せた身体を、すっぽりと黒衣に包み込んだ女性である。顔立ちは整っているが、若くはないだろう。目元の辺りに、年齢が痛々しく滲み出している。
黒山羊亭は、今夜も盛況だった。
席を埋め尽くす客たちの、陽気でいささか品の良くない歓声を浴びながら、レピアは踊っている。
しなやかな半裸身が、激しい音楽に合わせて柔らかく反り返った。
グラスの中身を、レピアは一気に呷っていた。
心地良い熱さと酔いが、体内に流れ込んで全身に行き渡る。
酒気を帯びながらも決して音楽からは外れない、傾国の踊り子の舞いに、黒衣の女性客はジッと眼差しを注いでいた。
奢られたら奢り返す、というのは野暮である。この女性は純粋に、レピアの舞いを評価してくれたのだ。少なくとも酒1杯分の価値は、見出してくれたのだ。
だからレピアは奢り返すような事はせず、手ぶらのまま、黒衣の女性客へと歩み寄って行った。
「さっきはどうも……ふふっ、酔っ払いながら踊るってのは新境地だよ」
「私、踊りの事はよくわからないわ。ただ、貴女の踊りはとても素敵……」
女性が微笑んだ。苦しそうな笑顔だ、とレピアは思った。
「お客さん……あんた、身体の具合でも悪いんじゃない? もしかして」
「少し……ね。遠出をすると、身体が痛んでくるのよ。ここ何年かで、ましにはなってきたのだけれど」
「駄目だよ! こんな所で、お酒なんか飲んでたら」
レピアは思わず、大声を出していた。
「お医者へ行こう? 夜遅くまで開いてる所あるから」
「残念……お医者さんでは治せないのよね」
苦しそうに、痛そうに、黒衣の女性は笑った。
「私のは、病気ではなく……呪いだから。貴女と同じね」
「あんた……!」
レピアは息を呑んだ。
危険を感じた時には、すでに遅かった。
女性が、じっとレピアを見つめている。黒い瞳が、より黒さを増してゆく。闇そのものの黒さだ。
闇の中に、落ちて行く。
その思いを最後に、レピアは意識を失っていた。
石の冷たさで、レピアは意識を取り戻した。
状況は、よくわからない。ただ、拉致されたのは間違いなさそうである。
とは言っても身体を拘束されたわけではなかった。ひんやりとした石の床に、レピアの半裸身は、ただ放置されている。
円形の、大広間である。
石壁をくり抜いた窓から、月と星空が見える。
その窓から、簡単に逃げ出せるのではないか。
レピアはそう思いながらも、実行に移す事は出来ずにいた。
周囲から、いくつもの細い人影が忍び寄って来たからだ。
若い娘たちだった。皆、美しく可愛らしい。
だが全員、人間ではなくなっている。肉体ではなく、心が。
「うぐぅ……がぅるるるる……」
「ふーっ、ふぅううっ……」
「にゃあぁああん」
可憐な唇から獣の声を発しながら、半裸の娘たちが四つん這いでレピアに迫り寄る。
逃げられるわけがなかった。
「あらあら……どうしちゃったのかなー? みんな。そんな可愛くしちゃってえ」
心が獣となりかけている娘たちに囲まれながらレピアは、己の鼻の下がだらしなく伸びてゆくのを止められなかった。
くぅん……と声を漏らしながら、獣娘たちが仔犬の如く身を寄せて来る。
左右の細腕で彼女らを抱き寄せながら、レピアは好色な中年男のように満悦していた。
「うっふふふ……ここって、もしかして新しいお店か何か? みんな可愛いからボトル入れちゃおっかなー」
「お気に召していただけたようで、嬉しいわ」
声がした。
あの黒衣の女性が、いつの間にか、そこにいた。
老いかけた美貌が、禍々しく歪んでいる。
苦しそうな微笑みの下に隠されていた邪悪さが、現れ出ていた。
「あんた……」
にやけていた表情を、レピアは引き締めた。
黒衣の女は、禍々しく微笑んでいる。
「ボトルは入れてくれなくてもいいわ……その代わり、この子たちと同じになってもらうわよ」
「この子たちと同じ? って……ち、ちょっと!」
獣娘たちが、レピアに群がって来た。
「にゃあぁああん……ごろごろ」
「クゥ……くぅん……」
獣の声を紡ぐ可憐な唇が、瑞々しく鍛え込まれた踊り子の太股に、ちゅ、ちゅっ……と吸い付いて来る。
心地良いくすぐったさが、レピアの内股を襲う。
「こ、こらっ……うふっ、駄目だったら……」
しなやかな半裸の肢体が悶え、のけ反り、豊麗な胸の膨らみが上向きにプルンッと揺れる。
そこへ、獣娘たちが甘えてくる。
「駄目ッ……そ、そんなに可愛くされたら、あたし……」
切なげに揺れ悶える胸の奥で、心が熱く蕩けてゆく。それを、レピアは止められなかった。
蕩けた心を、覗かれている。それがわかっているのに、どうしようもなかった。
「私はね、この塔から出られなかったのよ……」
黒衣の女が言った。
「1歩でも外へ出ると、死んだ方がマシと思えるくらい激痛が走るの……少しくらいの遠出なら出来るようになったけれど、痛くなくなったわけではないのよ? この痛みを和らげてくれる、可愛い仔犬ちゃん仔猫ちゃんが、私には必要なのよ。ねえ、わかるでしょう?」
ギラギラと熱を帯びた眼光が、レピアの心を無遠慮に覗き込んでくる。
「思った通りね、踊りの上手な仔猫ちゃん。貴女、呪いがてんこ盛りじゃないの……ふふっ、あいつの呪いまで」
レピアの心が、記憶が、1つ暴かれた。
とある女性の穏やかな美貌が、脳裏に甦って来る。
聖女、と呼ばれた女性。
彼女に、レピアは助けを求めた事がある。その結果どうなったのかは、よく覚えていない。あまり思い出したくない。
思い出したくない記憶を、黒衣の女は容赦なく暴き立てにかかる。
「あいつは聖女……私は魔女……同じ力を持っているのに……姉妹なのに……」
黒衣の魔女が、微笑み続ける。
その笑顔の中で、両眼がどす黒く燃え上がる。
「あいつの呪いを、復活させてあげるわ……あいつが私と同じ魔女だという事、証明してあげるわ」
憎しみの眼光だった。
その憎しみの根底にある、冷たい孤独が、レピアの蕩けた心に流れ込んで来る。
(そう……あんたも、呪いで苦しんでるのね……痛みで、こんな所に縛り付けられて……)
呪いの苦しみ。それを多少なりとも理解してやれるのは自分くらいだろう、とレピアは思う。
(痛くて、苦しくて寂しくて……だから女の子をさらって、ペットみたいにして……でも、それはいけない事なのよ? あたしが止めなきゃ……いけない事だって……わかって、いるのに……っ)
「私が貴女の御主人様よ、仔猫ちゃん」
抵抗力を失いつつあるレピアの心に、魔女の言葉が冷たく染み込んで来る。
「……仔犬ちゃん、の方がいいかしら?」
「くぅ……ん……うぐるるるぅう……」
レピアは牙を剥き、獣の声を発した。
かつて受けた呪いが、甦っていた。
聖都エルザード郊外に広がる荒野。その真ん中に、巨大な墓標のような、石造りの塔が建っている。
魔女が住む、と言われる塔だ。
魔女を討ち取って名を上げようとする者も、少なくはない。
そういった男たちの一団が今、塔の中で、獲物を追い詰めていた。
「くぅ……ぅん……」
獣娘の1人が、石の壁際に追い詰められて座り込み、怯えている。
そこへ男たちが、劣情を丸出しにして迫り寄る。
「へっへっへ……ここの魔女が大勢の娘っ子ォ飼ってやがるってのは本当だったなあ」
「大人しくしろや嬢ちゃんよ。すぐに魔女ブチ殺して、おめえを助けてやっからよォ。感謝しなきゃ駄目だぜえ?」
「感謝してもらおうじゃねえか大いによぉおおおおお!」
怯える仔犬のような少女に、男たちが一斉に襲いかかる。
その1人が突然、吹っ飛んだ。そして石壁に激突し、ずり落ちる。
首が、おかしな方向に曲がっていた。
「なっ……何だ……」
他の男たちが驚愕し、うろたえる。
うろたえる男たちの顔面がグシャアッ! と凹み、様々なものが噴出する。
まるで獣のような人影が、彼らの顔面を踏み付けながら、跳躍を繰り返していた。
その動きを視認出来ぬまま、男たちは1人残らず倒れ、動かなくなった。
怯える獣娘を背後に庇い、その人影は着地した。
豊かな髪は無惨にほつれ、踊り衣装はボロ布に変わり、返り血や汚物と一緒くたになって全身に貼り付いている。
汚れにまみれた肢体は、力強く引き締まりつつ魅惑的に膨らみ、しなやかな牝豹を思わせる。
「うぅっぐ……ぐるるるるぅう……」
形良い唇がめくれ上がリ、鋭い牙が剥き出しになった。
「がふぅッ、ぐぁう、うぉおおおおおおおおおおおおおおお!」
牝獣と化したレピアの咆哮が、石の塔内に響き渡った。
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