<東京怪談ノベル(シングル)>


牝獣の咆哮


 レピアが消息を絶って、半年が経っていた。
 無論それは公務をおろそかにして良い理由にはならない。この半年間エルファリアは、国民の前では笑顔を絶やさなかった。いかなる悪党も涙あるいは微笑みで改心させる聖女を、演じ続けた。
 それが限界に近付いている事を、誰よりもエルファリア自身が痛切に感じている。
「レピア……」
 馬車に揺られながら、エルファリアは呟いていた。
 エルザード城から別荘への、帰り道である。
 今日も、辛うじてつつがなく公務を終え、帰ろうとしている。レピアのいない、別荘へと。
 半年前、最後にレピアの姿を見かけたのは、黒山羊亭に勤める1人のウェイトレスである。
 いつの間にかいなくなっていた、と彼女は言っていた。
 その直前、黒装束の女性客がレピアと何やら話し込んでいた、とも言っていた。
 市井の人々に、もっと話を聞けば、レピアの行方がわかるかも知れない。
 膨大な公務の合間に、それが出来るのか。王族という自分の立場は、どうにもならない。
 焦燥感に苛まれながら、エルファリアはふと顔を上げた。
 獣臭さが、漂っている。馬車の外から、流れ込んで来ている。
 馬車が、大きく揺れながら止まった。馬たちが、竿立ちになって騒いでいるのがわかる。この獣臭さを、人間よりも敏感に感じ取っているのだろう。
 エルファリアは、馬車の扉を開けた。
「ひっ姫様、出てはなりません!」
 御者が、悲鳴に近い声を発している。
 護衛の騎士たちが、勇ましく剣を抜き槍を構えながら、ことごとく落馬していた。
 人影と思われるものが、凶暴な猿の如く跳び回っている。獣臭さを、振りまきながらだ。
 覚えのある臭いだ、とエルファリアは感じた。この獣臭さを、自分は知っている。以前、嗅いだ事がある。
 あの時と同じ事が、起こっているのだ。
「レピア……」
 自分の動体視力では捕捉出来ない速さで跳び回る人影に向かって、エルファリアは叫んでいた。
「やめなさい、レピア……やめなさいッ!」
「ぐるるぅ……ぐぅあぁあああああうッッ!」
 咆哮を響かせながら、それはエルファリアの眼前に着地した。
 紛れもなく、獣であった。
 ズタズタに裂けた衣装と、痛々しくほつれた髪を、汚れた肌に貼り付けた牝獣。
 あの時と同じ有り様のレピアが、そこにいた。
 あの時と同じなら、元に戻ってくれる。
 安堵しながら、エルファリアは1歩、近付いて行った。
 馬上から叩き落とされた騎士たちは、倒れ起き上がれぬまま苦痛に呻いている。負傷しているようだが全員、死んではいない。
 ぎりぎりのところでレピアが自制してくれたのだ、とエルファリアは思いたかった。
「レピア……」
 もう1歩、レピアに向かって踏み出そうとするエルファリアに、声をかける者がいた。
「おやめなさい。この子はもう元には戻れない……近付く者全てを噛み殺す、可愛くて凶暴な獣として、この先ずっと生きてゆくのよ」
 レピアの傍らに、いつの間にか、その女性は立っていた。
 黒装束の女性。あのウェイトレスが言っていた通りの風体である。
「貴女を噛み殺させるわけにはいかないわ、エルファリア王女……」
 黒いフードの下で、年齢不詳の美貌がニヤリと歪む。
 その不敵な笑顔の下に押し隠された苦痛を、エルファリアは見逃さなかった。
「貴女……お身体を、病んでおられる?」
 初対面の相手に、気遣わしげな声をかけてみる。
「このまま私の別荘へおいでなさい。何日か安静に過ごされるのが良いでしょう。貴女には、いろいろとお訊きしたい事がありますが……全ては、健康を取り戻されてからです」
「噂通り、お優しい事……その優しさで、この子をずっと飼い馴らしていたのね」
 獣のように唸るレピアの頭を撫でながら、黒衣の女性が苦しげに笑う。
「その心……私が、もらうわ」
 黒いフードの下で、黒い瞳がギラリと光る。いや光ると言うより、暗黒の度合いを強めてゆく。
 闇そのものの黒色が、じっとエルファリアに向けられる。
 自分が今、何をされようとしているのかは、わからない。ただ、とてつもない危機に陥りかけているのは、エルファリアにもわかる。
 こういう時、必ず助けに入ってくれるはずのレピアが、しかし黒衣の女の傍らで四つん這いになったまま、動かない。まるで飼い馴らされた犬のように。
 レピア、助けて。
 エルファリアは、そう叫ぼうとした。が、声が出ない。
「言ったでしょう? この子はもう、元には戻らない……戻るわけがないわ。だって、あいつの呪いを受けたのだもの」
 黒衣の女の言葉と共に、闇そのものの黒色が、エルファリアの心に這入り込んで来る。
「言っておくけど、私は何もしていないわ。ただ、あいつの呪いを甦らせただけ……恨むなら、聖女面をした、あの女よ」
 闇が、エルファリアの心に満ちた。
 いや。その闇と入れ替わるようにして、心が抜け出して行く。
「もらうわよ、貴女の心……どんな悪人も改心させるという、優しく純粋な心……これで、私の呪いも解ける……」
 黒衣の女が何を言っているのか、エルファリアは理解出来なくなっていた。
 虚無と言うべき暗黒が、自分を支配している。それだけが、辛うじてわかる。
 その暗黒の中に、エルファリアの最後の叫びが吸い込まれて消えた。
(レ……ピア……)


 森の中に、エルファリアは放逐された。
 ドレスは裂け、白い肌は草木に打ち据えられて傷付き、艶やかな髪には汚泥が付着している。
 そんな無惨な姿で、エルファリアは森の中を逃げ惑っていた。
 おぞましい怪物たちが、追い迫って来る。
 この森にしか棲息していない、凶悪・醜悪な闇の生き物たち。牙を剥き、爪をかざし、触手を蠢かせ、エルファリアを狙っている。
 恐怖心だけが今、エルファリアを突き動かしていた。
 たおやかな素足を血まみれにしながら痛みを感じている余裕もなく、エルファリアは走っている。追われる小動物の、疾駆である。
「くぅん……こっふ……」
 悲痛な獣の唸りと息遣いが、エルファリアの可憐な唇から、綺麗な鼻から、漏れていた。


 奪い取って来たものを見せびらかしながら、魔女は言った。
 見てごらんレピア。お前のおかげで手に入った、綺麗なものを。エルファリア王女の、心の結晶よ?
 そう言われて理解出来るものでもなかったが、魔女の言う通り、それがとてつもなく『綺麗なもの』である事は、今のレピアにも理解出来た。
 本当に、お前のおかげよ。
 そう言って魔女は、レピアの頭を撫でてくれた。
 あの王女が、どういう時にどの道を通って帰るのか……獣になったお前の心から、その情報を引き出すのは、そう難しい事ではなかったわ。おかげで、この世で最も優しい心の結晶が手に入った。これで私の呪いを解く事が出来る……レピア、お前は用済みだけど、ご褒美に生かしておいてあげる。私の番犬として、ずっと可愛がってあげるわ。
 魔女が何を言っているのか、やはりレピアは理解出来なかった。
 その『綺麗なもの』に、レピアはただ心を奪われていた。
 殺して食らって生きるだけだった獣の心に、何かが甦ってくる。そんな気がした。
 お前にもわかるのねレピア。そう、これはとても綺麗なものでしょう? だから誰にも盗まれないよう、しっかり見張っているのよ。私は解呪の儀式の準備をしてくるから。
 そう言い残し、魔女は部屋を出て行った。
 レピアはただ、机の上に残された『綺麗なもの』を、じっと見つめていた。
 心の中で甦りつつある何かが、叫んでいる。
 それがレピアの口から、呟きとなって漏れた。
「エル……ファ……リア……」
 およそ半年ぶりに発する、人間の言葉だった。


 森の中を、レピアはひたすら疾駆した。
 森のどこかで、誰かが自分を呼んでいる。左脇に抱えた『綺麗なもの』が、そう教えてくれている。
 すぐに、その光景が視界に入った。
 醜悪な怪物どもが、1匹の小動物を追い詰めている。
 それは、怯える小動物にしか見えなかった。
 ボロ布同然の衣服、血と汚泥にまみれた柔肌。
 汚れほつれた髪の下では、たおやかな美貌が痛々しく恐怖に歪んでいる。
「くぅん……くふぅ……ん……」
 仔犬のような泣き声を発し、小動物のような様を晒す、エルファリア。
 細く柔らかな素足は傷だらけで、その傷がカサブタとなり、無惨な彩りを成している。
 この怪物の群れから、一体どれほど長い間、逃げ回っていたのだろう。
 雄叫びが、森全体を揺るがした。
 それが自分の声だと、レピアは気付かなかった。
 自分の身体がどのように動いたのか、レピアは全く把握出来なかった。
 気が付いた時には、怪物どもは1匹を残し全員、潰れひしゃげた屍となっていた。
 残った1匹、最も巨大・醜悪な怪物の首に、レピアの両脚が、大蛇の如く巻き付いている。
 むっちりと美しく強靭な左右の太股が、怪物の太い頸骨をメキメキと圧迫し、へし折ってゆく。
 痙攣しながら屍に変わってゆく巨体を、レピアは片足で踏み付けた。
 その間、怯えるエルファリアの体内に『綺麗なもの』が吸い込まれて行く。
「レ……ピア……?」
 小動物のようだったエルファリアが、微かな、だが確かな、人間の声を発する。
 レピアは、無言で抱き締めた。
 しなやかな細腕と豊麗な胸の間で、エルファリアが震えている。
 抱き締める事しか出来ない。かける言葉など、見つからない。
 だが、怒声をぶつけるべき相手はいる。
「あんたの事……かわいそうだって、思ってた。あたしと同じ、呪いを受けて……」
 レピアは呟き、そして叫んだ。
「だけど、エルファリアを……こんな目に遭わせた! あたしは、あんたを絶対に許さない!」