<東京怪談ノベル(シングル)>


牝獣と忍び


 黒山羊亭は、今夜も満席に近い。
 客はほとんどが男で、いささか下品な歓声を上げて熱狂し、レピアの踊りに見入っている。女性客も、いないわけではない。
 その中に敵がいる、とレピアは感じた。
 目に見えぬものが、肌に触れてくる。
 敵意に近い。私はお前の命を狙っているぞ、と無言で語りかけてきている。そんな、剣呑な気配である。
 音楽に合わせて身を捻り、髪を舞わせ、手足を躍動させる。そうしながら、レピアは襲撃に備えた。
 舞踊として振り上げた手が、舞い上げた足が、そのまま手刀や蹴りとなる。そんな戦闘的な舞いが、音楽と共に激しさを増してゆく。
 敵意ある気配の主は、しかしついに姿を現さなかった。


「……1杯、おごらせてもらえるかしら?」
 踊りを終えたレピアに、1人の女性客が声をかけてきた。
 すらりとした身体に東方風の衣装を巻き付けた、若い女。何ヵ所か露わになった肌に、無惨な傷跡が刻み込まれている。
 ちらりと睨むような視線を返しながら、レピアは応えた。
「……あんただね。殺る気満々な目で、あたしの踊りを見てたのは」
「うっかり襲いかかっていたら私、間違いなく叩きのめされていたところね……あの時みたいに」
 女が微笑んだ。穏やかな、だが不敵な笑み。
 自分は、この女を知らない。だが、会うのは初めてではない。
 ふとレピアは、そんな事を感じた。
「どっかで、会った事ある? ……わけないよね。何か、そんな気がしないでもないような」
「やっぱり覚えてはいないのね。貴女、あんな状態だったものね」
 あんな状態、というのがどういう状態であるのか、レピアは心当たりがなくはなかった。
「えっと、もしかして……あたしが、あの女に捕まって馬鹿さらしてた時に?」
「食い殺されるかと思ったわ」
 女は言った。
「私の名は斑咲……名乗るのは初めてよね? あの時は、会話も出来なかったから」


 聖都エルザード及びその近辺で、若い娘が何人も行方不明になっている。
 それが、この塔に住む魔女の仕業である事は、ほぼ調べがついていた。
 拉致した娘たちを魔女は、獣のようにして飼い馴らしているという。
 殺されたり売り飛ばされたりするよりは遥かにましか、と、斑咲は思わなくもなかった。
 そんな思いは、しかし塔への侵入に成功した瞬間、消えて失せた。
 人間が、獣として扱われている。
 それがどれほど残酷な行いであるかを、斑咲は思い知らされた。
 年頃の娘たちが、入浴もさせてもらえず汚物にまみれ、野良犬のような唸りを発しながら四つん這いで塔内を徘徊する、その様を目の当たりにする事によって。
 全員を、一刻も早く助け出さなければ。
 斑咲はそう思ったが、自分1人の力で出来る事ではなかった。
 今回の任務は、とある貴族令嬢の救出である。
 彼女がこの塔の魔女にさらわれ、この獣娘たちと同じ扱いを受けているのかどうかは、もう少し探ってみなければわからない。
 突然、風が吹いた。獣臭い風だった。
 とっさに、斑咲はそれをかわした。獣臭さの塊が、猛烈な勢いで傍らを通過して行く。
 襲撃。それはわかった。が、襲撃者の姿は見えない。
 はっきりと視認出来ない敵に向かって、斑咲は左右2本の剣をそれぞれ一閃させた。
 斬撃の閃光が、十文字の形に生じた。
 それをかわして着地した人影が、そう見えた時にはすでに跳躍し、斑咲に襲いかかっていた。
「くっ……!」
 とっさに身を反らせた斑咲の眼前を、横殴りの一撃がブンッ! と空振りして行く。
 半ば苦し紛れのような形に、斑咲は右の剣を振るった。
 その一閃を跳躍回避した敵が、ほんの一瞬だけ、重力を無視して天井に着地する。
 その一瞬の間、斑咲の動体視力は、ようやく敵の姿を捉える事が出来た。
 魔女の飼っている、獣娘の1人であろう。美しい顔は凶暴に歪みつつ牙を剥き、ほつれ乱れた髪は、まるで獅子のタテガミだ。
 豊満に膨らみつつも力強く引き締まった肢体は、牝豹そのものである。
 そんな肉体に、ボロ布と化した衣服が、申し訳程度に巻き付いている。
 魔女によって、恐らく番犬か猟犬の役割を与えられているのだろう。
 まさに牝獣と呼ぶべき、その襲撃者が、天井を蹴って跳躍した。
 跳躍力と落下速度が合わさった、猛禽の急降下にも似た襲撃。
 それを斑咲は、身を反らせてかわした。
 牝獣の強靭な細腕が、上空から鞭のようにしなって宙を裂き、斑咲の視界をかすめる。
 そのまま墜落同然に着地するかと思われた牝獣の肢体が、後方へと猛回転した。形良く膨らみ締まった左の美脚が、真下から真上へと跳ね上がって一閃する。
 斬撃の如き蹴りが、斑咲の腹部に叩き込まれる。
 悲鳴が漏れる前に、息が詰まった。
 呼吸が回復すると同時に、鉄っぽい味が、喉の奥から迸る。
 血を吐きながら、斑咲は身を折り、倒れていた。
「ぐっ……えぇ……ッ」
 無様な声を漏らし、弱々しくのたうち回る斑咲に、牝獣が迫る。
 端正な唇がめくれ上がり、白い牙が剥き出しになった。


 その牙で牝獣は、斑咲の衣服をくわえ込み、引きずった。
 引きずられるまま斑咲は、弱々しく呻く事しか出来なかった。
「私を……殺しなさい……っ」
 忍びの者が、戦いに敗れたのだ。殺されるのが当然であった。
 なのに牝獣は、打ち負かした獲物を殺す事なく、どこかへ引きずって行く。
 そう、自分は獲物なのだ。斑咲は、それを実感した。
 このまま牝獣の巣穴まで引きずられ、食料として保存され、いつかは食われる。それが自分の運命なのだ。
 舌を噛んで死ぬべきか、と思いながら斑咲は、自分の身体が放り出されるのを感じた。
 そこは塔内ではなく、森の中だった。塔周辺の森。
 斑咲は上体を起こした。
 牝獣が、四つん這いの姿勢で尻をこちらに向け、去って行く。
「私を……愚弄するつもりなの……ッッ!」
 血の味がこびりついた喉の奥から、斑咲は怒りの絶叫を絞り出した。
「こんな侮辱……私は、絶対に許さない! 殺しなさい今すぐ! さもないと私がいつか貴女を」
「くぅん……」
 別の牝獣が、おずおずと近付いて来ていた。
 いや、牝獣と呼ぶには弱々しい。たった今、去って行ったのが獣であるとすれば、この娘は小動物である。
「くふぅ……ん……」
 怯える小動物のような声を漏らす、その娘を、斑咲はまじまじと見つめた。
 間違いない。今回の救出任務の対象である、貴族令嬢だった。


 負傷した己の身体に鞭打って斑咲は、令嬢を気絶させ、その身体を担いでエルザードに帰還したのだと言う。
「私もお嬢様も、貴女に助けてもらったのよ。それも覚えていない?」
「覚えてるわけ、ないじゃんよ。あたしが、そんな……野良犬みたいな様、晒してたなんて」
 辟易しながらレピアは、おごられた酒を一気に呷った。やけ酒に近かった。
 その飲みっぷりを楽しむように、斑咲が言う。
「あの時の貴女は、魔女の番犬になりかかっていた……それでも人間の心を、完全には失っていなかった。だから私たちを助けてくれたのでしょう? たとえ覚えてはいないにしても」
「……勝手に、そう思ってればいいさ」
 どう慰めてもらおうと、自分はあの時、完全な獣と化していた。言い訳のしようもない醜態を、晒していたのだ。
 恩に着てくれているようだから、もう1杯やけ酒をおごらせようか、とレピアは思った。