<東京怪談ノベル(シングル)>


追憶の舞姫


 夜になれば、レピアは自分で動いて自分で入浴もする。
 それでもエルファリアは、昼間の動けぬレピアを、出来る限り綺麗にしていた。
 石像と化している踊り子の肢体を、丁寧に布で擦る。鎖骨の凹みや、肌と衣服の間など、埃の付着しやすい部分は特に念入りに。
 どれほど公務が忙しくともエルファリアは、それだけは自分の手で行っている。
「これで、良し……ふふっ。綺麗になったわね、レピア」
 石像に微笑みかけながらエルファリアは、傍らのソファーに身を沈めた。
 日は、いささか傾きかけている。とは言えレピアが動き出す時間ではない。
 西日を浴びて艶やかに輝く石像を眺めながら、エルファリアはいつしか、目蓋の重さに耐えられなくなっていった。


 その貴族は、踊りというものを純粋に評価してくれる人物だった。
 流れ者の踊り子を、下心もなく世話してくれた。身体を求める事もなく、生活の面倒を見てくれた。
 だからレピアは何不自由なく、踊りの修練に打ち込む事が出来たのだ。
 とある王国である。
 レピアを庇護してくれているその貴族は、この国で、国王に近い有力者として第一に名を挙げられる人物であった。
「そなたの踊りは、本当に素晴らしい」
 稽古中のレピアを眺めながら、その貴族は言った。
「美しいだけでなく、力強い……女ながら、武術の腕前もかなりのものと見たが。どうかな?」
「そ、そのような事は……ない事も、ないですけど」
 レピアはうろたえた。
 舞踊とは確かに、なまじな武芸者を遥かに上回る身体能力を必要とする競技である。
 これまでレピアは、舞いながら数多くの敵を蹴り倒してきた。
 それを、この貴族は見抜いたようだ。
「そなたは美しく、そして強い。まるで牝豹のように……」
 貴族の口調に、そしてレピアを見つめる眼差しに、異様な熱っぽさが宿る。
「レピア・浮桜よ、そなたは豹となれ。美しき獣と化せ。そして敵の喉笛を食いちぎるのだ……」
 催眠術。
 そう気付く前にレピアの心は、熱を帯びた貴族の両眼の中に吸い込まれていった。


 その王国の王は、言ってしまえば暗君であった。暴君に近い、と言って良かった。
 権力で女を漁る事に慣れきった暴君の目にも、その踊り子は、この上なく魅惑的に映った。
 有力貴族の1人が、妾として献上してきた踊り子である。
 美貌もさる事ながら、その踊りが、何よりも国王の心を捕えた。
 長く艶やかな髪。しなやかな細腕、瑞々しい果実のような胸。引き締まった腰に豊麗な尻、むっちりと魅惑的な左右の太股……全てが、男の情欲を燃え上がらせるためにのみ揺らぎ、うねり、躍動した。
 その肢体を存分に堪能するべく、国王は彼女を寝所へと引きずり込んだ。
 レピアは抗う事なく、自ら国王に迫った。この場にいない貴族に心を捕えられたまま、まるで獣のように。
 だらしなく弛みきった国王の身体に、豊満な胸の膨らみが押し付けられる。強靭な細腕が、鍛え込まれた両の美脚が、巻き付いてゆく。まるで大蛇のように。
 むっちりと力強い左右の太股が、皮下脂肪もろとも国王の内臓を押し潰した。
 細い両腕と豊かな胸に抱かれ圧迫されたまま、国王は血を吐いて絶命した。


 国王殺害の犯人として、レピア・浮桜は石化の刑に処される事となった。未来永劫、石像として動けぬまま生き続ける。言ってみれば、牢獄なき終身刑である。
 石化の施術は、催眠術が解ける前に行われた。催眠術にかかったまま、貴族の名を明かす事なく、レピアは石像と化し、王都郊外の祠に放置された。
 口封じである。
「悪く思うな、レピア・浮桜……」
 石像と化した踊り子に、貴族は言葉をかけた。
 死刑にならぬよう手を回す。してやれる事は、それだけだった。
「そなたの踊りを美しいと思った、その心に偽りはないのだぞ。だがレピアよ、そなたは美しいと同時に強過ぎたのだ」
 彼女の踊りに貴族は、美しさだけでなく、素手で暗殺を実行出来るほどの身体能力を見て取った。
 国王の近くに、武器を持ち込む事は出来ないのだ。
「そなたを生身に戻してやれる術者が、いつかは現れるかも知れぬ。それまで、美しい姿をそのまま留めておくが良い」
 言い残し、貴族は祠を後にした。
 新たなる国王として、やらねばならぬ事が山積しているのだ。


 国王が代替わりして、半世紀が過ぎた。
 王都郊外。古びた祠の前で、1人の女僧侶が立ち止まった。
 手入れする者のいない、無人の祠。その中に、石像が安置されている。
 否、放置されている。
 女人像であった。
 出るべき部分は豊麗に膨らみ、凹むべき部分はしなやかに引き締まった、非の打ち所のない体型。だが石化した肌は暗緑色の苔に覆われ、虫や獣の糞尿にまみれ、年季の入った悪臭を漂わせている。
 綺麗にしてやらなければならない。特に理由もなく、女僧侶はそう思った。
 神に仕える者としての功徳と言うより、汚れているものを綺麗にしたいという、ごく自然な感情である。
 聖水で、布を濡らす。その布で、石像を擦る。こびりついた苔を、年月を経た糞尿の汚れを、削り落とすように拭い取る。
 女僧侶は、手を止めた。
 気のせい、ではない。今、女人像が確かに動いた。
「生きている……? 貴女、生きているの?」
 女僧侶の問いかけに、石像は言葉では答えない。
 ただ、ガタゴトと震え動くだけだ。


 レピアは、うっすらと目を開けた。
「う……ん……」
 柔らかな感触がある。どうやら、誰かの膝の上にいるようだ。
「あ……れ? ……ここは……」
「余計な事でしたら、ごめんなさい……貴女の眠りを、覚まさせていただきました」
 旅の僧侶と思われる若い女性が、そんな気遣わしげな声をかけてくる。
 彼女の膝の上で、レピアはゆっくりと上体を起こした。
「眠り……あたし、眠ってたの?」
「石となって、恐らくは長い年月を」
 女僧侶のその言葉でレピアは、朧げながら全ての事情を察した。
「そう……また騙されちゃったってわけね、あたしってば」
 人間を1人、破壊した感触が、内股の辺りに残っている。
 誰を殺したのかは知らない。覚えていない。
 とにかく、自分は利用されたのだ。それだけは間違いない。
 利用されたとは言え、人を殺したのだ。石化の刑で済んだのは、幸運と言える。
 その石化を、この女僧侶が、聖なる力で解呪してくれたのだ。
「ありがとうね……貴女のおかげで、また踊れるよ」
「踊り子の方、ですか?」
「そう。踊っていられれば幸せな、単純な女だよ」
 立ち上がろうとしてレピアは失敗し、よろめき、女僧侶に支えられた。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないね、こりゃ……」
 レピアは苦笑した。
 何年、動けずにいたのかはわからない。とにかく手足が、いや胴体も、すっかり硬直してしまっている。
「踊りの基礎動作から、やり直さないとね……」


 うとうとと、エルファリアは目を覚ました。
 日が、かなり傾いている。何時間か、眠ってしまったようだ。
 そろそろ、レピアが動き出す時間である。
 だが、扉の外で声がした。
「エルファリア殿下、東部地方からの陳情団が参っておりますが……追い返しますか?」
「いえ、会いましょう」
 エルファリアは身を起こした。
 民衆の声を聞く。これも公務である。
 多忙を極める父・聖獣王には出来ない事を、自分がやらなければならない。
 つい今までの夢が、エルファリアの脳裏に甦ってくる。
 レピアの石化を解いた女僧侶の顔が、自分と重なった。
 エルファリアは、苦笑するしかなかった。
「あんなふうに、貴女の呪いを解く事が……私にも、出来ればいいのに」
 もうすぐ動き出すであろうレピアに、そう微笑みかけ、背を向ける。
 今夜は、どうやらレピアと一緒にいる事は出来そうになかった。