<東京怪談ノベル(シングル)>
■ある意味、お宝■
千獣が黒山羊亭を訪れたのは、日が落ちるかどうかといった頃合だった。
まだまだ酒精に惑わされる者は少なく、しかし卓の間を歩き回る給仕の両手を塞ぐものに酒肴が増えていくことなぞ、すぐだと簡単に見て取れる。料理を頼むときにまず一杯。そこかしこで上がる注文の声はそういったものが多い。そんな時間。
いつもと変わらず猥雑な店内を、するりするりと千獣は歩く。いつものようにのっそりと。獣が伏せていた身を起こして歩く、そんな様子。
さらには、彼女を見咎める者が居るのか居ないのかといった微かなものであることも、いつも通りだ。呪符を織り込んだ包帯を巻いている姿などとは珍しいだろうに、注視する者は見当たらない。見慣れているというよりは、意識に引っ掛からないのだ。獣が気配を殺すような、と言えば頷けるだろうか。見事なものだった。感心するにはそれなりに気付かなければならないので、注視されない今現在は誰も感心してはくれないのだけれども。
そもそも殊更に意識して気配を殺したわけでもなく、酒だ食事だと盛り上がる客達の知覚能力が急下降一直線な中を(自身の感覚としては)普通に歩いた千獣であるからして、気付く気付かないを考える必要もない。目立たない場所の席を選ぶと、普段のままの落ち着いた表情ですとんと腰を下ろした。
赤い双眸を巡らせて、黒山羊亭の女主人へと固定する。そのまま段々と熱の籠ってくる店内で一人ひたすらに、淡々と、感情の浮かばない静かな瞳で彼女を見つめ始めた。いっそ穴を開けたいのかと思うくらいの一直線さだ。
さて、それほどの視線を向けられて気付かないということはあるだろうか。
ぶっちゃけるに気付かない人間は気付かなさそうではあるが、酒場の女主人を務めるエスメラルダは当然に気付いた。人と関ることの多い生業なのだし、様々に情熱的な視線を受けることも多い彼女である。しばしば向けられる感情の乗った視線とは異なるものを感じてさりげなく、ごくさりげなく、姿勢を変えてそちらを伺う。
「あら」と唇が動くのが千獣には見えた。微笑む踊り子が「ごゆっくり」と微笑むのに返す頷き。
酒場の客に向けるものとはまた違う、酔客が見るのは珍しい笑みを浮かべたエスメラルダに何人かの男達が気付き、それが向かう先を辿る。だがいっとき視線を受けた当の千獣は気にする風もない。姿勢を戻したエスメラルダが、客や店員と話す様子を再び見つめるだけだ。
「ん? 注文聞いてない、よな?」
「……まだ」
「とりあえず何か飲んどくかい?」
通りがかった顔見知りの店員が声をかけ、思案する千獣にカップを揺らして提案するのに頷いたとき以外はずっと、黒山羊亭の女主人を目で追い続けるだけ。ひたすらに彼女を目で追うばかり。
それだけで、あったので。
流石に、視線を集めることに慣れているはずの踊り子も気になった。
「あなたの目が真っ直ぐなのは知っているつもりだけど、今日は強烈ね。どうしたの?」
来店客が挨拶ついでの会話を振ってくるのも、酔客が絡んだり踊りをねだったりするのも、程好く収まる頃合を見計らってエスメラルダは千獣の傍に来て問うた。困った子だなあと言いたげな、微笑ましいなあと言いたげな、そんな顔をする彼女。千獣はそれに返して一言。
「……人間、観察……」
あえて踏み込むことも、退くこともなく、ある程度の距離を。
人間社会というものに対してのスタンスをそのように一定に保ち、人間観察。
色々な人を見て、その表情、挙動、会話の様子、等々と、とにかくも、誰かを見ては考える。
――人間とは、何か。
答えを出すために何人幾人もも、幾人も、紅瞳に映し込んでは考える。見るたびに。
だって、千獣はわからないのだ。人間が。
千獣には、人間のことがわからない。
それなのに人は自分を人間と呼ぶ。
千獣と彼らを『人間』という言葉にまとめて収める。
同じなのだろうか。千獣と巷の人々は同じ、人間、なのだろうか。
わからない。そもそも人間がわからないから、わからない。
だから、わかる為に、千獣は人間を見る。様々な折の、様々な人を。
「ふぅん。なるほど」
ぽつぽつと言葉を探しながらの千獣の説明を聞いて、エスメラルダは納得した。
人間観察、ね。繰り返しのように呟いた言葉にこっくり頷く千獣を見遣る。
カップの中身を飲み込んでいく彼女の、今は伏せ気味の瞳。元から透き通った眼差しは、内側まで見透かされそうな雰囲気のあるものだった。静謐で強い紅瞳。まじと見られては、なにやらむずむずとするような、そんな視線を持っているのだ。
それが観察をするのだと意識してがっちり視る。これは落ち着かなくさせるに違いない。実際エスメラルダも何やらむずむずとしたのであるし。
なるほど、先日に来た常連客が「荷運びしてたら千獣ちゃんに凄く見られててなあ、いやああんまりガッツリ見るもんだから恰好つけようとしたら、あやうく荷物抱え過ぎて腰に衝撃が来るところだったよ。落ち着きなくしちゃあだめだなハハハハハ」などと言うわけだ。理解した。
綺麗な娘さんの見物に意欲急上昇で行動力急下降などというものではなく、あんまり見つめられるから収まりが悪くなったのだろう。だから妙な気合いの入れ具合に――そんなことを酔っ払いながら言っていた。と思う。
(きっとさっきみたいに見ていたのね。まっすぐ)
まさにその観察対象となったエスメラルダは、酔客の話が今更におかしくなってきた。なんとなしの共感だ。ささやかなそれにほんのり微笑むエスメラルダの姿を千獣は変わらずまじと見る。人間観察は続行中なのであるからして。
間近からの視線を受けるとエスメラルダは笑みを深めた。この娘の視線を受けるのはなかなかに大変だろうなと、常にも増して感じられる。人間の汚い部分も知っていて、それでも変わらず穏やかな目。エスメラルダには好ましい。
自分が気に留めない、すぐに流してしまう、そんなささやかな事柄について考えるのを聞くのも興味深い。更に言うなら少しばかり手を貸してみたくなる。千獣が出す答えというものを聞いてみたいと思うからだ。
「でも、そうねえ」
ここでエスメラルダが少し声を潜めて千獣の前で指を立てたのも、そんな理由からだった。
「あたしだけ見るのは勿体無いかもしれないわよ?」
言って、立てた指を自分に向けてから周囲へぐるりと一回し。
首を傾げる千獣が指の動きを目で追い、自分へと戻すのを待って言葉を続ける。
「ここは酒場」
「うん」
「これからお酒に酔う人も増える時間ね」
「そうだね」
「ところで広場では滅多に酔っ払いなんていないわよね?」
「……あまり、いない……ね」
昼日中から街中で酒に呑まれている輩が広場に居ても、じきに誰かが気を回して対処するだろう。極端な酔っ払いなんぞが日中にうろつくなんぞは更にレアだ。頷く千獣。
「仕事の話をする人も、外ではあんまり居ないでしょう?」
「多分……決まった人達、だけ……かな」
ごくごく普通の買物だの荷運びだのを指しての『仕事』だけではないことは、そこでだけ調子の変わった声で気付く。店内の騒々しさで聞き咎められることは無いだろうし、迂闊をこの女主人が仕出かすとは思わないけれど、当たり前に探る視線を周囲にさりげなく――問題無し。
それを気付いているのかどうか、ちらとエスメラルダも視線を滑らせてから言葉を続ける。
「泣くし、笑うし、怒るし、怒鳴るし、語るし、絡むし、ぐずるし」
指を折り折り、殊更に立てていた指でそれを示して強調しながら数え上げていくのは酔っ払いの行動。それぞれの内容まで挙げていくのだが種類が豊富で感心するほどだ。
「――ね、千獣」
ひとしきり挙げ連ね、にっこり笑うエスメラルダ。
彼女の言わんとすることが解った千獣は同じだけの笑みを返しはしなかったけれど、こっくりと深く、首を揺らした。
「酔った人の行動だけでこれだけ色々あるのだから」
あえて言わないが、裏稼業の人々的な職業分布なりでも色々あるに違いない。とはいえ、ベルファ通りの黒山羊亭は絶妙なバランスで表裏に関わっている部類だから、冗談にならない程に凶悪な輩は来ないだろうけれど。
「……参考になる……かな」
「観察して考えるなら種類は多い方がいいんじゃないかしら?」
別に観察結果を誰かに情報として流すでもなし、千獣は自分の考えを組み上げる為のサンプルのようなものだ。見るだけなら問題なかろうと――いや、問題はあった。気付いてしまったエスメラルダ。
「あとね千獣」
「?」
「気付かれないようにすると自然な状態を観察出来ると思うから……じっと見続けるだけじゃない方がいいんじゃないかしら」
「…………」
そう。千獣の一直線な視線だ。
あれは観察される側からすればやはり落ち着かない。
たとえるならば子供や動物がひたすらに見つめて離してくれないときのような、形容し難い気持ち。悪事を働いていなくても後ろめたい、どうにもこうにも心に訴える何某か、そのすいませんと言いたくなる澄んだ瞳。それに近しいものがあるのだ。
あれは向けられた者にしかわかるまい、とまで重々しく言う事でもないのだが。
「相手を見続けるなら、これだと思った相手を観察するときにだとかね」
「エスメラルダにも?」
「改めて? じゃあ、気合いを入れなきゃ」
後々に心構えは要りそうだとエスメラルダは軽く応じつつも内心で苦笑した。
いつの間にやら千獣の手のカップは三杯目である。そして自分はグラスに一杯のアルコール。店員が気を効かせてかエスメラルダにも持ってきてくれていたのを、当たり前に受け取っていた。これも観察の成果と言うのかしら。ちらりと思って。
「まあ、昼間や表通りではちょっと見掛けない種類の『人間』をここで見て行かないのは勿体ないと言う話ね」
そうして話してグラスを呷る。艶めかしく白い咽喉が動く様子を見る千獣は静かなままだったけれど、近くのテーブルの客は小さくさざめいた。
「あなたが『人間』について考えるのには参考になる、ある意味では宝の山なんだから、活用しなきゃ。あたし一人を見るのは今日限定じゃないでしょう?」
「そう……かも……?」
「そうかもよ」
面倒事を引き起こす人物ではないと、千獣についてエスメラルダは認識している。だからどうぞ、探りを入れるわけでも盗み聞きをするわけでもないのだし、とにこやかに女店主は人間観察を促すのである。
また自分が集中観察されることも覚悟しておくとして。
「あ」
空けたグラスを置いて背筋を伸ばしたエスメラルダは、酔客からの声に手を振り応じてから千獣を見遣った。それからね、と言い添える。
「観察結果を出したときには聞かせてね」
あなたの考える『人間』が知りたいの。
踊り子がそう言って離れるのを千獣は見つめ、それからカップの中身をこくりと飲み干しグラスに並べる。店員に飲み物を頼んでから身体の向きを半回転。
このままエスメラルダを観察するか、彼女の進める宝の山な人々を観察するか。
――さて、どちらにするか。
千獣の眼差しはいつもの通りに静かであった。
end.
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