<東京怪談ノベル(シングル)>


猛獣使い


 サクラが持って来たものをまじまじと確認しながら、村人たちが仰天している。
「こ……こりゃ間違いねえ、あいつの糸だ……」
「あんた本当に、あの化け蜘蛛を退治して下すったんだなあ……」
「あっ、いや、あいつをやっつけたのはボクじゃなくて」
 言いつつサクラ・アルオレは、きょろきょろと見回した。
 大蜘蛛と戦っていたのは9割方、あの少年だ。自分はただ、最後に少し手を出しただけだ。
 その少年は、少し離れた所で、猫と戯れている。
「わーい、猫ちゃん猫ちゃん」
「ちょっと前から、この役場に棲みついてる野良でしてねえ。ほんと図々しい奴で、仕方ないから村の皆で面倒見てるんですよ」
 ハルフ村の、役場である。
 大蜘蛛との戦いで服を失ってしまったサクラのために、親切な村人たちが、新しい服を無償で用意してくれた。
「うちの娘の、お下がりでよう」
 村の老婦人が、申し訳なさそうに言った。
「こんなもんしかねえで、悪いなあ」
「いえそんな。本当に、ありがとうございます」
 ひらひらとスカートを舞わせたりしながらサクラは、平凡な村娘のようになった己の全身を見下ろした。
「スカート穿くのなんて、ほんと久しぶりなんだけど……ねえアオイ、似合う?」
「可愛いよー」
 アオイと呼ばれた少年が、サクラの方など見向きもせずに言った。猫を抱き、撫で回しながら。
「猫ちゃん、可愛いなあ猫ちゃん」
「あっはっは、とんだ彼氏だねえ」
 老婦人が、たまらず笑い出した。
「この朴念仁っぷり、うちの旦那より上だあ」
「……こんな奴、彼氏じゃありませんからっ」
 サクラは、ぷーっと頬を膨らませた。
「ねーサクラ、何怒ってんの?」
 アオイが、猫を抱いたまま近付いて来た。
「ほらほら、猫ちゃん可愛いよー」
「……そうだね」
 疲れを感じながらサクラは、猫ではなくアオイの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「動物だと思えば腹も立たない……かな」
「ぼ、ボクじゃなくて猫ちゃんを撫でてあげなよ」
「うるさい。動物が喋るな」
 有無を言わさずサクラは、アオイの黒髪を撫で乱し続けた。


 温泉は、ハルフ村の重要な収入源の1つである。
 岩の地形で男湯と女湯が上手く分けられている露天風呂を、サクラもアオイも、目を輝かせて見渡した。
「うわぁー……温泉なんて久しぶりっ!」
「ボクは生まれて初めてだよー! さあ入ろう入ろう」
 アオイが、本当に嬉しそうにしている。
 微笑ましい気分になりながらもサクラは、少年の片耳を思いきり引っ張っていた。
「何でっ、キミはっ、ここでっ、普通に服脱いで女湯に入ろーとしてるのかなあああっ!?」
「いっ痛い痛い、痛いよサクラぁ……だって服着たまんまじゃ、お風呂入れないじゃん。ほらサクラも、脱いだ脱いだ」
「あのね……ボクはキミを、そこまで動物扱いするつもりはないから」
 サクラは、溜め息をついた。
「とにかくキミはあっち、男湯の方へ行きなさい。男と女は基本、一緒にお風呂入っちゃいけないのっ」
「えーっ? 何で何で」
「特に理由はないけど、やっちゃいけない事ってのが、世の中にはいろいろあるの。そうでしょ?」


 確かに、サクラの言う通りではあった。
 明確な言葉で説明出来る理由はなくとも、してはならない事。それはこの世に、どうやら思いのほか数多く存在する。この世界へ来てからアオイが日々、学んでいる事である。
 例えば、金を払わずに物を持ち去る事。みだりに人を傷付ける事。
 魔術集団エインへリャルの先生方には、この2つを特に強く禁じられた。
 前者はともかく後者の方は、ウィンショーの双塔において、すでに破ってしまったのだが。
「……だって、あいつら許せなかったんだもの」
 1人、男湯に浸かりながら、アオイは頬を膨らませた。そうしてから、涙ぐんだ。
「サクラと一緒に……お風呂、入りたかったなー」
 その時。悲鳴が聞こえた。
 女湯の方から、サクラの悲鳴が。


「はぁ……疲れたぁ……ったく」
 女湯の中で、サクラはゆったりと肢体を伸ばした。
 大蜘蛛との戦いよりも、あの少年との会話の方が疲れた。
「ほんと、動物みたいな奴なんだから……」
「……まるで仔犬ちゃんと飼い主みたい、でしたわよ」
 誰かが、笑っている。
 湯煙の向こうで、女性客が1人、湯に浸かっていた。
 先客がいるとも知らずにいたサクラは、慌てた。
「ご、ごめんなさい。聞こえてました? うるさかった、ですよね……」
「お気になさらずに。賑やかな子だという事は、存じ上げておりますわ」
「ええと……あいつの事、もしかして知ってるんですか?」
「ちょっとした競争を、ね」
 競争。あの大蜘蛛との戦いの最中にも、アオイはそんな事を言っていた。
 出会う者と、とにかく何かしら競争しないと気が済まない少年なのだろう。
 この女性とあの少年は、サクラの知らない所で一体、どのような競争をしていたのか。
(……って、何でボクがそんな事! 気にしなきゃいけないのさっ)
 サクラが思わず頭から湯に潜ってしまいそうになった、その時。
 複数の、荒々しい足音が聞こえた。
 明らかに女性客ではない集団が、女湯に踏み入って来たところである。
「あー飲んだ飲んだ。酔っ払っちまったーい」
「はっはっは。飲んだ後になんか風呂入ったらおめえ、血行良くなり過ぎて死んじまうぞう」
 酒の入った、男性客の集団だった。
「およ? 何か、可愛い嬢ちゃんがいるぞう」
「いっけねぇー。おじさんたち、間違えて女湯に来ちまったぁい」
「うへへへへ、この際だから仲良く混浴といこーぜい」
 赤ら顔の脂ぎった中年男たちが、遠慮なく湯に入って来てサクラを取り囲む。
 自分が悲鳴を上げている事に、サクラは一瞬、気付かなかった。
「きゃあああああああああああ!」
 その悲鳴に呼応したかの如く、岩の上に何者かが立った。
 湯煙の向こうで、翡翠色の瞳が爛々と輝いている。
「何……やってんだよ……お前ら……」
 アオイだった。
 彼の来るのがあと一瞬でも遅かったら、自分は間違いなく炎精剣を召喚していただろう、とサクラは思う。
 炎の剣で灼き砕かれる代わりに、男たちは宙に浮いていた。まるで目に見えぬ巨人の手で掴み上げられ、揺すられているかの如く、空中でじたばたと暴れている。
「ひっ……ひいぃ……何だよこれ……」
「たたたたた助けてくれえぇ……」
 酔いなど吹っ飛んだ様子で、男たちは、湯気に満ちた空中で怯えている。
 彼らが、何者によって何をされているのか、サクラはわからなかった。否、信じられなかった。
「アオイ……なの……?」
 少年は何もしていない、ように見える。岩の上に立ち、ただ男たちを睨み据えているだけだ。
 その両眼を、緑色に燃え上がらせているだけだ。
「いじめたな……サクラを、いじめたなぁ……っ!」
 禍々しい、翡翠色の眼光。
 それが男たちを捕え、宙に浮かせている。いや、浮かせているだけでは済まないだろう。
 今から、もっと惨たらしい事が起こる。それをサクラは直感していた。
「駄目……!」
「おやめなさい、アオイさん」
 湯煙の向こうで、女性が声を発した。
「温泉が、汚れて台無しになってしまいますわよ」
 白い幕のように揺らめく湯気。そこに、凹凸のくっきりとした女の曲線が浮かび上がっている。
「……もしかして……お姉さん!?」
 アオイの両眼から、禍々しく凶暴な輝きが、一瞬にして消え失せた。
 男たちが湯の中に落下し、派手に飛沫を飛ばし、溺れそうになりながら怯えている。
 アオイは彼らに、もはや何の関心も抱いていないようであった。
「お姉さんでしょ!? ねえねえ」
「お久しぶり……というほどでも、ありませんわね」
「わーい、みんなでお風呂!」
 アオイが、岩の上からぴょーんと跳躍し、湯に飛び込んで来る。
 お姉さん、と呼ばれた女性が、軽く片手を掲げた。
 湯煙の中で、何かが白く輝いた。女性の全身に描かれた、何かが……刺青、であろうか。
 風が吹いた。湯の中にいても一瞬、寒さを感じるほど、冷たい風。
「や、やっぱり……サクラ、ちっちゃいね……」
 そんな事を言いながら、アオイは凍り付いていた。まるで棺桶のような氷に、閉じ込められていた。
 そして、身を寄せ合う男たちの真っただ中へと落下する。
 そちらへ、女性が声を投げた。
「10分ほど、お湯に浸してあげなさい……もちろん男湯でね?」
「へ、へい」
 男たちが、氷詰めになった少年を担ぎ上げ、えっちらおっちらと男湯の方へ去って行く。
 呆然と見送るサクラに、湯煙の向こうから、女性が声をかけてくる。
「……あまり恐がらずに、あの子と仲良くしてあげなさいな」
「えーと……まあ仲良くしてあげるのは別にいいけど」
 動物どころか猛獣ではないのか、とサクラは思った。うっかり目を離すと誰かを噛み殺してしまいかねない、凶暴な獣。
 口元の辺りまで湯に浸かりながら、サクラは呟くしかなかった。
「犬が人を噛んだら……飼い主の責任って事になっちゃうよねえ……」