<東京怪談ノベル(シングル)>


新たなる修行


 皿の上に、巨大なスライムが載っている。
 そんな感じのゼリーを、ガイ・ファングはずずーっと一気に吸い込んで飲み干した。ドロリとした喉越しと果物類の香味が、心地良い。
 酒や料理だけでなく、甘い物も注文出来る店である。
 そこへ客が1人、どたばたと駆け込んで来た。そしてガイの姿を見つけるなり、大声を上げる。
「あ、ああっ、いた! 本当にいた!」
「……何だ、おめえか。どうでもいいけど人を指差すんじゃねえよ」
 細身の若者。
 先程、山中でスライムを大量に召喚し放置したまま気絶していた魔法使いである。
 その細い手にクシャッと握られているのは、賞金稼ぎ組合の依頼書だ。
「が、がっガイ・ファングというのは、あ、あ、貴方ですよね……」
 駆け回ってガイを捜していたのだろう。痛々しいほどに息を切らせている。
「走り込みが足りねえなあ……ま、座れよ。そして落ち着け。ああ兄ちゃん、悪いけど水1杯、持って来てやってくんねえかな」
「す、すみません……」
 ガイの隣に、半ば崩れるように座りながら、若い魔法使いは呼吸を整えた。
 店員が、水を持って来てくれた。
 それを飲んで一息ついている魔法使いの手から、ガイは依頼書を奪い取った。
「組合の連中に聞いたんかい? 俺が、この店にいるって」
「め、飯屋のどれかに、いるだろうと……貴方は、賞金稼ぎの方だったんですね。正式に、お仕事を頼みたくて」
「今度ぁ何だ。おめえさん、また何かやらかしたのかい?」
「は、はい。詳しくはその依頼書に」
「んー……悪い。俺、字ぃ読めねえんだわ」
「そ、そうですか。それでは僕が……自分とそして師匠の失敗を、語らなければならないのですね」
「デーモンの大軍でも、召喚しちまったか」
「いえ、召喚ではありません」
 若い魔法使いは、うなだれた。
「実は、魔法生物の制御実験に失敗しまして……」


 旅を続けてきた。これからも続けてゆくだろう。
 様々な場所に、行く事になるだろう。
 それでも生涯、自分が足を踏み入れる事はないであろう、とガイが思っていた場所が、いくつかある。
 その筆頭が、図書館だ。
「おいおい、何だよこりゃあ……」
 無数の書物。本もある。巻物もある。
 それらを満載した書架が、魔物の群れの如く立ち並ぶ光景。
 ガイは、圧倒されるしかなかった。
 字が、全く読めないわけではない。賞金の数字と、飯屋の品書きくらいは読める。
 だが生まれてから今まで、文章と呼べるものを読んだ事はない。
 書物を1冊、読破する。
 それはガイにとって、いかなる肉体的鍛錬にも勝る難業であった。身体を鍛える事は出来ない。が、もしかしたら気功の鍛錬には役立つかも知れない。
「ま、やってみてえとは思わねえが……」
 ガイは立ち止まり、見回した。
 気のせい、であろうか。羽音のようなものが、聞こえて来る。鳥でも入り込んでいるのか。
 見回しても、視界に入るのは書架と書物だけだ。
 書物など、ガイから見れば全て同じである。だが教養ある者の目で見れば、重要なものとそうではないものに分類が出来るらしい。
 特に重要な書物を収めた区域が、この図書館の奥にある。あの魔法使いは、そう言っていた。
 いわゆる魔法書の類であろう。その他にも、何やら重要で難しい事の書かれた本が何冊もあるらしい。
 そういったものが秘蔵された重要書庫を、この図書館は、衛兵に守らせているという。
 人間の衛兵ではない。魔法で生み出された怪物である。ゴーレムやミミックの同類だ。
 またしても、羽音が聞こえた。
 気のせい、ではない。図書館のどこかで、何かが羽ばたいている。
 あの魔法使い曰く。彼の師匠であり、この図書館の館長でもある人物によって、その衛兵たちの性能を強化する魔法実験が行われた。
 そして失敗し、衛兵たちは暴走した。
 ガイは見上げ、睨み、身構えた。
 やかましく羽ばたいていたものたちが、猛禽の如く襲いかかって来たからだ。
 巨大な、本であった。開けば1メートルに達する。
 大きく開いた頁が、そのまま翼であり、また大口であった。
 羽ばたきながら牙を剥き、襲いかかって来る本たち。その数は5体、いや6体……5冊6冊と数えるべきか。
 この図書館の各種重要書物を守っていた、衛兵たちである。
 重要書庫への立ち入りには館長の許可が必要で、とある特殊なペンダントが許可証となっているらしい。
 そのペンダントを身に着けていない者が重要書庫へ入り込んだ場合、この衛兵たちが書架から飛び出し、その侵入者を襲う。そういう仕掛けになっていたようである。
 だが暴走している今は、図書館内にいる者を無差別に襲う。当然、館内は今、一般人は立ち入り禁止である。
 もはや忠実な衛兵ではなく、人を喰らう怪物と成り果てた本たちが、上空あらゆる角度からガイを襲う。たくましい筋肉を噛みちぎるべく、降下して来る。
 見上げ、睨みながら、ガイは語りかけた。
「人間の都合で、生み出されちゃあ処分される……切ねえ生きもんだな、おめえらも」
 語りかけながら右足を離陸させ、身を翻す。
 巨体が、暴風を巻き起こして捻転した。それは隆々たる筋肉の竜巻であった。
 太く力強い右脚が、白い気の光をまといながら、回し蹴りの形に一閃する。
 気功斬鉄蹴。その一閃に薙ぎ払われた怪物たちが、真っ二つになりながら飛び散った。
「……せめて、戦って死にな」
 ゆっくりと、ガイが右足を着地させる。
 つい今まで本の形の怪物であった紙切れが無数、ひらひらと舞った。


「いや、ご迷惑をおかけした」
 図書館の館長が、恭しく頭を下げてくる。
「やはり魔法生物とは、うかつに手を出してよい分野ではないという事ですな……あの『生ける書物』たちにも、気の毒な事をしました」
「あんな連中を作らなきゃなんねえほど、泥棒みてえな奴らが多いのかい?」
 金品や食料ではなく、書物を盗みに入るという感覚が、ガイは全く理解出来なかった。
「悲しい事ですが……稀覯本というものは、お金になってしまうのですよ。それに、世の破滅に繋がりかねない危険な魔法書もございます。そのようなものを置いておくな、と言われてしまえば、返す言葉もないのですが」
「まあ何でもいいけど、用心棒が必要なら声かけてくれよ。暇な時なら、やるぜ」
「ありがとうございます。本当に、この度は……それで、よろしければ何かお礼を差し上げたいのですが」
「いいって。金なら組合から出るし……」
 言いかけてガイは、とある背表紙に目を止めた。
 その本を、書架から引っ張り出してみる。
 書名は『格闘戦における気功術の極意』。
「じゃあ、この本……ちっと借りてってもいいかな?」
「差し上げますよ。読んで下さる方が特に限られてくる書物ですからね」
 自分が今まで鍛錬と実戦で身に付けてきたもの以上の何かが、この本から得られるのかどうか。それは読んでみないとわからない。時間を無駄にする事にしか、ならないかも知れない。
 書物を読む。自分にとっては、それ自体が修行になる。あながち無駄でもないだろう、とガイは思う事にした。