<東京怪談ノベル(シングル)>


亡国の王妃・救国の王女

ゆるりと午睡からエルファリアは目覚めた。
眦から滑り落ちる涙の筋が頬を濡らし、皮膚を突っ張らせ、少しばかり不快に思うが、エルファリアはやや乱暴にそれをぬぐうと、お気に入りである書庫へと足を向けた。
先ほどの夢。
あれはまぎれもなく石像と化した友人・レピアの過去。
胸をつくような哀しみと絶望が伝わり、心が痛んだエルファリアが考えたことはただ一つ。
レピアをいかに励ますか、だ。
そのためには、魔本が必要と思い、書庫に潜り込んだ。

「あら、これがいいかもしれませんわ」

山積みとなった革表紙の装丁が施された本の中から、彼女が選んだのは深紅の天鵞絨に銀の刻印が施された魔本。
レピアは喜んでくれるかしら、と胸を弾ませて、エルファリアは楽しげな足取りで部屋に戻っていった。

太陽が山の稜線に最後の光を投げかけて、夕闇の向こうに消えていくと同時に、石化の呪縛から解き放たれたレピアが目覚めると、満面の笑みを浮かべたエルファリアが魔本を胸に抱えて、待ち構えていた。

「あら、魔本?新しいのを見つけたの?」
「ええ、とても素敵なお話みたいなんですの。一緒に楽しみましょう」

何時になく有無を言わせないエルファリアの言葉にレピアは若干首をかしげつつ、パラパラと本に目を通し―絶句して、親友を顔をまじまじと見つめた。

「ねぇ、エルファリア。このお話って」
「カップル向けでしょう?嫌ですの?」
「じゃなくって、これって『母子』……ま、いいわ。ひと時の冒険、つき合せてもらいますわ」

念をするかのように尋ねると、なんだかエルファリアが泣き出しそうになったので、レピアはそれ以上の追及はせず、親友が楽しむためと選んでくれた魔本をゆっくりと開いた。

―唄い紡ぐは魔法の本。ここに紡ぐは母と子の物語。
全身を包む苦痛に顔をゆがませつつも、必死で意識を繋ぎ止めて、息を大きく吸い込む。
しっかり!と励ます産婆と侍女たちの声が一瞬ひどく遠くに聞こえ、エルファリアは渾身の力を振り絞るようにいきんだ。
ふいに苦痛が消え、同時に何かが己の内から生み出された。
初めは小さく、だが徐々に力強く泣き声を上げる赤子の声が耳朶をつくと、エルファリアは心の底から暖かな、まさに慈母と呼ばれるような笑みを零した。
その日、平和で豊かな小国に後継者となるべき王女が誕生したことが国中に知らさせ、歓喜に満ち溢れた。
だが、歓喜の日は悲劇と変わる。
王都の西側から突如として黒煙があがり、炎が巻き起こる最中、軍靴を高らかに鳴らし、武装した兵たちが侵攻してきたのだ。
火を消そうと集まった人々に容赦なく襲い掛かる槍や剣が大地を赤く染め上げていく。
「逃げろっ!!逃げろっぉ!!」
「いやぁぁぁぁぁっ」
「王宮へ急げ。王妃様がお守りくださるっ」
無残に奪われた親、兄弟、子の姿に人々は泣き叫び、着の身着のまま王宮へと逃げ惑う。
その後を容赦なく追い立てる兵たちの目は理性を失い、血に酔いしれる。
破壊と殺戮の限りを尽くしていく兵たちの様はすぐさま王妃たるエルファリアの元に届けられるも、もはや打つ手はなかった。
「敵は隣国の正規軍と思われます。このままでは危険です……陛下、どうか落ち延びるご用意を」
産褥の床からどうにか動けるようになったエルファリアに側近たちが強く奨めるも、決断はすぐに下させなかった。
この小さな王国は代々強大な魔力を持つ王妃によって守られてきた国。だが、王女を生むために大半の力を使い果たしてしまった今、エルファリアに敵軍を追い払える力は残されていなかった。
けれども、国の象徴たる王妃と世継ぎの王女が敵の手に落ちることはどうにか避けたかった。
「心遣い、ありがたく思います。ですが、わたくしも人の親となった身。もっとも守りたいのは王女……この子」
慈愛に満ちた儚い笑みを浮かべ、エルファリアは純白のおくるみに包まれ、侍女の腕に抱かれた生まれたばかりの我が子の頬に触れ―意を決した。
「わたくしが囮となって敵の目を引き付けます。その隙に王女を王宮の外へ」
頼みますよ、と側近たちに言い残すが早いか、エルファリアは身を翻し、部屋から飛び出した。
止める暇などなかった。だが、その意をくんだ侍女たちは涙を必死でこらえながら、何も知らず王女を抱きしめ、寝台の裏へと回り込み、わずかに色の違うパネルを押した。
音もなく床が二つに割れ、地下へと向かう階段が姿を現すと、侍女たちは王女を守りながら地下へと消えた。

王宮は地獄と化していた。
殺到する敵国の兵は先を争って、宮殿のあちこちに踏み込み、豪華な調度品や金品を奪い合う。
エルファリアは彼らの目をかいくぐり、王宮内を逃げ回っていた。
時折、姿を見せつけるようにして兵たちの目を引き付け、王女の逃げる時間をどうにか稼ぐ。
どれくらい逃げたのか分からない。ただ駆け回っていたため、どこかで靴は脱げ、エルファリアは裸足のまま、さほど敵の手が届いていない庭園と逃げ込んだ。
「こっちだっ!!」
「くそ、迷宮仕立てかよ……おい、火をつけて焼き払っちまえ」
「バカを言うな。肝心の王妃が焼け死んだら、元も子もない。陛下になんて申し開きするんだよ」
「おい、どうでもいいから探すぞ。この辺の木をぶった切っても文句はでねーよ」
乱暴な兵たちの声を聞きながら、エルファリアは唇をかみしめ、ゆっくりと歩みを進める。
むき出しの大地で足が傷だらけになろうとも構いはしなかった。
やがて、庭園にしてはあまり人の手が入っていない植木がずらりと並んだ場所にたどり着くとエルファリアはそのうちの一つに手を掛ける。
しっかりと植え込まれていると思われた木は意外にも軽く動き、その向こうに人一人がやっと通れるほどの穴が開いていた。
迷うことなくエルファリアはそこに飛び込むと、その穴を突き進んだ。
灯りがなく、手探りで歩く。出産で弱り切った体にひどく堪えたが、娘を再び腕に抱くまでは、必死に自らを奮い立たせ、闇の中を突き進んだ。
やがて暗闇の先に柔らかな光が見え、エルファリアはほっと笑みをこぼし、そこに手を掛けた瞬間、世界は暗転した。

全身を襲った強い衝撃にエルファリアの息はつまり、苦痛に顔を歪ませると同時に乱暴な手で髪を掴まれ、引き上げられた。
痛みに耐え、瞳を開けると、そこにいたのは轟然と王座に居座る敵国の国王がそこにいた。
「気が付かれたかな?王妃陛下。いやいや、さすがですな。民を見捨てて、御自分だけ逃げるおつもりとは……卑劣ですな」
侮蔑と愉悦をにじませた目で見下ろす国王をエルファリアはキッと見返した。
「卑劣なのはそちらでしょう!わたくしが弱り切っていると知りながら、侵攻してくるなど蛮行以外何物でもありません」
「敵が弱っているところを叩くは戦いの定石。恨むならそなたに頼り切った貴国の守り……違いますかな?歴代の王妃はそのようなことはなかったはずだ」
エルファリアの言葉を切って捨てると、王は兵たちに目で合図を送る。
心得たとばかりに兵たちはエルファリアを縛り上げると、引きずるように王宮のバルコニーへと引きずり出す。
その下では敵国の軍によって集められた国民たちが恐怖と不安をにじませて、成り行きを固唾をのんで見守っており、捕えられたエルファリアの姿を見て、悲鳴が沸き起こる。
「王妃様っ!!」
「エルファリアさまぁぁぁぁ!!」
次々と沸き起こる声に敵国の国王はゆったりと姿を見せると、国民の前に立つ。
「集いし民よ、うぬらは今日、この時を持って、我が国に併合され、我が民となる。我に従え!我に忠義を尽くせ!」
「違う。この国はわたくしたちの国。断じてあなた方の国ではない!」
傲慢極まりない敵国の国王にエルファリアは必死に言い返すが、すぐさま兵たちに取り押さえられる。
エルファリアの姿は負け犬の遠吠え、と捨て置くには危険すぎた。
王の背後に控えていた数人の魔導師がするりと前に出ると、国民たちに見えるようにエルファリアを取り囲む。
「王妃、敗者の理だ。そなたには支配の象徴となっていただこう」
いたぶるような敵国の国王の言葉に応えるように、魔導師たちが一斉に手のひらをエルファリアに向ける。
ぐらりと揺れる紫苑の光にエルファリアは身を震わせ、何が起こるか、一瞬にして悟った。
自由にならない身体でなんとか逃れようと暴れるが、叶わなかった。
魔導師の手から放たれた紫苑の光がエルファリアの身体を包む。その瞬間、凄まじい激痛が全身を貫いた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
エルファリアの絶叫が響き渡り、居合わせた国民たちは敬愛する王妃が目の前で石像に変わっていくのを目の当たりにし、悲鳴を上げ、力なくその場に崩れ落ちた。
そして、この日より平和であった小国は分厚い暗黒に覆われ、石像となった王妃は見せしめと人質の意味をもって、敵国の王宮広場に晒された。
敵前から逃げ、無様にも捕まった『裸足の王妃像』という不名誉な名を背負わされたその日より、雨ざらしとなり、苔と土ぼこりにまみれる屈辱の日々が始まった。

それから20年の時が過ぎた。
小国を併合して以来、勢いを増した王国はその強大な軍事力を背景に次々と周辺国を支配下に治めていった。
支配下に置かれた国々は凄まじいまでの圧政のために、その日一日を生き延びられるかという困窮を極めた。
やがて、勇気ある人々は地下にもぐり、王国の目をかいくぐり、1人の乙女の元に結集する。
その乙女の名はレピア。
『裸足の王妃像』に変えられた悲劇の王妃エルファリアの遺した忘れ形見にして、希望の光であった。
レジスタンスの抵抗は徐々に広がり、やがて支配国全土へと拡大する。
これに対し、王国は軍を介入させ、弾圧を科していくも、レジスタンスはそれでも抵抗を止めず、祖国奪還を叫び、戦いを挑んだ。
全土にまで広がりを見せたレジスタンス軍はついに王国軍を撃破。その勢いを持って、王都へと進撃したのである。
「引くなっ!反乱軍ごときに一片の慈悲を与える必要などない」
殲滅せよ、と叫ぶ将軍をレピアは捉えると、風のごとく敵兵の間を駆け抜けると、喚き散らす将軍の眼前に姿をさらす。
侍女の手によって20年もの間、慈しみ、守り育てられてきたレピアはただの王女とは違い、戦いを知る美しき姫将軍であり、強力な魔導師でもあった。
突如、眼前に現れたレピアに唖然とした表情を見せる将軍が我に戻るよりも先に、レピアはその顔面に突き出した右の掌に集めた魔力を解き放つ。
「退きなさいっ!我らが祖国、返してもらう!」
力強き魔力の閃光に将軍が吹き飛ばされる様と毅然とした態度で高らかに叫ぶレピアにレジスタンス兵たちは奮い立ち、敵の兵士たちは一瞬にして気圧され、我先にと逃亡していく。
「逃げる者は放っておけっ、このまま王宮へ進軍する」
逃亡兵に追っ手をかけようとするのをレピアは制すると、ただ真っ直ぐに王宮を指さした。
勇ましくも神々しいその姿に、かつて自分たちを守り、讃えていた王妃エルファリアの姿を見たレジスタンスの人々は雄叫びを上げ、怒涛のごとく王宮へと突き進んだ。

王宮へとなだれ込んだレジスタンスに国王は日頃の権勢をかなぐり捨てて王宮中を逃げ回るも、圧政を敷き、人々を虐げてきた王に助ける者はなく、今や救国の王女となったレピアの前に引きずり出された。
「申し開きはあるか?」
「黙れっ、亡国の王女が不敬であろう!!」
「不敬だと?母が私を産み落とし、弱ったところを狙って侵攻した非道な王がよくも言う」
聞き分けのない子どものように喚き散らす王をレピアは冷やかに見下ろすと、すらりと剣を抜く。
鋭くも冷たく輝く切っ先に王は凍り付き、息を飲み―許しを叫ぼうとするよりも早く、静かに掲げられた刃が振り下ろされる。
歓喜の絶叫が王国を包んだ。
圧政を敷いた国王からの解放に人々は喜びも露わに抱き合うと、広場に晒された王妃像をレピアの元へと運び込んだ。
苔むし、ひどい悪臭を放つ像にレジスタンスの一部は顔をしかめるも、レピアの前に何も言えず、黙り込む。
「お持ちしました、レピア様」
「ああ、ありがとう。この時をお待ちしていました、母上」
そこへ大量の聖水を運び込んだ修道女たちが涙をにじませ、ひざまづくと、レピアは淡い笑みを浮かべて、瓶に詰まった聖水を石像に浴びせた。

歴史は語る。
聖水によって呪いを洗い清められた王妃は成長した我が子レピアとの再会を果たし、同時に失われた国をその手に取り戻した。
これより先、二人の女王による統治が始まり、平和と安寧を手にした王国は長きに渡り、繁栄したという。