<東京怪談ノベル(シングル)>
水晶の牝獣
自分を止められない。力加減が、恐ろしく難しい。
辛うじて殺さぬようにするのが、レピアは精一杯だった。
「邪魔するな……邪魔するな! 邪魔するなぁあああああ!」
綺麗な唇から、獣の咆哮に近い叫びが迸った。
ボロ布も同然の踊り衣装をこびり付かせた肢体が、猛々しく躍動する。美しく鍛え込まれた両脚が、暴風の如く弧を描く。
蹴り飛ばされた少女たちが、石壁に激突し、ずり落ち、悲痛な声を漏らした。
「ぐるっ……ぐふぅ……」
「くぅ……ぅん……」
全員、肋骨の2、3本は折れているだろうが、気遣ってやれる心の余裕が今のレピアにはない。
この塔に住む魔女の力によって野生化し、牝獣と化した美少女たち。
塔内の番犬として飼われている彼女らを、文字通り蹴散らして、レピア・浮桜はここまで来た。
「あんたたちは、後でちゃんと助けてあげるよ……だから、邪魔しないでよね」
怯え泣く獣の少女たちを睨み回し、言い放ちながら、レピアは歩を進めた。
塔最上階。魔女の私室の扉が、目の前にある。
それを、レピアは思いきり蹴破った。
「……来たわね、野良犬ちゃん」
部屋の奥で魔女が、ゆらりと椅子から立ち上がる。そして微笑む。
「してやられたわ、貴女には。やっとの思いで手に入れた、王女の心の結晶を……」
怒りと憎しみの微笑だった。にこやかに細められた目の中では、毒々しい眼光が燃え盛っている。
「よくも、盗み出してくれて……!」
「盗んだのは、あんた。1番盗んじゃいけないものを、あんたは盗んだのよ」
相手は、自分を憎んでいる。
それ以上に今は自分が、この相手を許せなく思っている、とレピアは確信していた。
「1番やっちゃいけない事を、あんたは……やらかしてくれたのよ」
「私はただ、この身を蝕む呪いを取り除きたいだけ。貴女なら、わかってくれると思っていたのに……」
「そう、あたしと同じ呪い! わかってあげたかった、あんたを助けてあげたかった!」
牙を剥くように、レピアは叫んだ。
「わかったのはね、そんなの思い上がりでしかないって事! あんたを助けてあげるなんて無理! あんたを許すなんて! あたしには絶対、出来やしない!」
「……だから殺しに来てくれたと、そういうわけね」
魔女が、片手を掲げた。
暗黒色のローブから、死霊を思わせる白く細い手が現れ伸び、五指を揺らめかせて空中に何かを描き出す。
魔法陣だった。何かを、この魔女は召喚しようとしている。
「貴女みたいな物騒な野犬を、穏やかに飼い馴らそうとしていた……私が、愚かだったと。そういうわけね」
召喚されたものが、魔法陣を空間もろとも突き破るようにして姿を現した。
もはや言葉では形容出来ぬほど醜悪奇怪な、1匹の怪物。
その巨大な全身から生えた触手が、一斉に伸びてレピアを襲う。
次の瞬間。床に、壁に、天井に、何人ものレピアが着地していた。
その全員が、着地と同時に跳躍していた。まるで豹、あるいは猿のように。牙を剥き、吼えながら。
獣の動きだった。
これまで何度も野生化・獣化を強いられてきたレピアが、自らの意思で獣と化し、跳躍と疾駆を繰り返している。何体もの残像を、乱舞させている。
うねり荒れ狂う触手たちが、それら残像を空しく薙ぎ払う。
「これは……」
魔女が息を呑んでいる間、何人ものレピアが一斉に、怪物に襲いかかっていた。
むっちりと強靭な太股が跳ね上がり、膝蹴りを成す。
その膝が伸びて美脚が一閃し、斬撃のような回し蹴りとなる。
綺麗にくびれた胴体が柔らかく捻転し、左右の脚線が鞭のようにしなって連続で宙を裂く。
様々な形の蹴りが、あらゆる方向から怪物に叩き込まれていた。
醜悪奇怪なる巨体が、さらに無様に汚らしく潰れて裂けて消滅した。
着地したレピアを、魔女が睨み据える。
毒々しい眼光が、獣の躍動感漲る踊り子の肢体に絡み付く。
「う……っ!?」
我に返った、という表現が最も近い感覚である。
レピアは、獣から人間に戻っていた。戻されていた。
「いい気になっていたようね、野良犬ちゃん……素人の獣化なんて、簡単に解けるのよ」
魔女が、嘲笑う。
獣化を強制解除された、だけではない。
いきなり我に返った、その心の隙をつくようにして、何かが自分の中に侵入して来た。レピアは、そう感じた。
おぞましい魔力が、自分を侵してゆく。
「くっ……う……ッッ!」
声は出る。が、身体が動かない。
「貴女を飼い馴らそうとしたのが、そもそもの間違い」
魔女が、歩み寄って来る。手を差し伸べて来る。
「可愛がる、のではなく物として愛でる……懐いてくれない野良犬ちゃんには、そうするしかないのよね」
怒りと闘志に満ちていた美貌。豊麗に膨らみながら引き締まった身体。しなやかに美しく鍛え込まれた、伸びやかな手足。
全てが、水晶に変わっていた。
いかなる名匠の手をもってしても複製など不可能な、水晶の像。
それが、今のレピアである。
塔の一室に飾られた、物言わぬ傾国の踊り子。
そこに、獣の美少女たちが群がってゆく。
「くっふ……くぅうん……」
「にゃあぁん、ごろごろ」
少女たちの愛らしい舌が、可憐な五指が、レピアの全身を優しく襲った。水晶の肌を這い回り、しなやかなまま硬直した身体の曲線をなぞり回す。
凍り付き、冬眠の如く微睡む精神で、レピアはくすぐったいような快楽だけを感じていた。
その快楽の中に、自我が溶け込んでゆく。
それがわかっても、今のレピアは、どうする事も出来なかった。
自分に万一の事があったら、王女をよろしく。
まるで遺言のようにレピアはそう言い残し、魔女の塔へと殴り込んで行った。
「本当に……遺言になるところだったわね」
担いで来た荷物を、ゆっくりと下ろしながら、斑咲は苦笑した。安堵の笑み、でもあった。
水晶の像。塔内の飾り物にされてしまっていた、傾国の踊り子。
それを、ゆっくりと湯に浸す。
斑咲が仕える王女の、私的な別荘。その露天浴場である。
「まったく、貴女ときたら……何度、行方知れずになれば気が済むのよ」
行方をくらませたレピアを追って、王女が無謀な捜索の旅に出てしまう事もしばしばあった。
それを陰ながら支援してきたのは、斑咲である。
今回はしかし王女が、獣化の呪いを解かれたばかりで動ける状態ではなかったため、斑咲自身がレピアの捜索に赴く事となった。
半年かかった。
魔女の塔に忍び込む機会を見出すまで、半年も待たねばならなかったのだ。
待った甲斐あって、こうしてレピアの身柄を助け出す、と言うより盗み出す事が出来た。
半年間ずっと水晶像であったレピアの全身を、いくらか荒っぽく湯で洗いながら、斑咲は語りかけた。
「いい加減に、1人で行動するのはやめなさい。まあ、これは姫様にも言える事だけど」
「…………」
レピアが、何か応えた。
固く滑らかな水晶が、湯の中で、柔らかな美肌に戻っていた。
「お目覚めね。気分はどう? 眠り姫さん……」
斑咲は微笑みかけた。
その笑顔が引きつり、凍り付いた。
何も考えず、鍛え抜かれた忍びの本能だけに従って、斑咲は跳躍していた。
凄まじい一撃が、湯の飛沫を飛ばしながらブンッ! と眼前を通過する。レピアの、蹴りだった。
「レピア、貴女……!」
着地と同時に、斑咲は2本の銃型剣を構えた。
レピアも着地し、牙を剥いている。
「ぐるるるる……ぐぁあああああああう」
そこにいるのは、傾国の踊り子……の姿をした、美しくも凶暴極まる野獣であった。
青い瞳は、涼やかな理性の輝きを一切失い、獣性だけを爛々と輝かせている。
あの塔内で、いかなる仕打ちを受けていたのかは、わからない。
とにかく今のレピアは、人としての自我を完全に失っている。人としての自我が、溶けてなくなってしまっている。
残ったのは、獣性だけだ。
「がふっ、ぐるぁああああッ! がうぅああああああああああああ!」
レピアの咆哮が、猛々しく禍々しく響き渡る。
「駄目……」
2本の刃で斬り掛かる事も出来ぬまま、斑咲は弱々しく呟いた。
「私では、レピアを助けられない……姫様、貴女でなければ……」
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