<東京怪談ノベル(シングル)>


強さの先に


 伸び放題だった髪と髭を剃り落とすと、岩にしか見えなくなった。
 岩に目鼻口を彫り込んだような顔面。年月を経てそびえ立つ巨岩のような、隆々たる肉体。
 まるで岩山のような男だ、とガイ・ファングは思う。
 こうして目を閉じ、たくましい両脚を組んで座している姿を見ていると、尚更そう思えてしまう。
 霊山として知られる、とある山岳地帯。峻険極まる岩壁の、頂上である。
 わしを殴れ。
 岩と同化するかの如く座したまま、ガイの師匠たるその男は言った。蹴ってみろ、わしを敵だと思ってな。
 躊躇うガイに、師匠は微笑みかけた。心配すんな、おめえの技なんざ効かねえからよ……と。
 そんな事を言われては、ガイとて躊躇ってはいられなかった。
「いくぜ、師匠……」
 目を閉じ、岩のようになった男の顔面を狙って、ガイは拳を振るった。岩塊にも似た拳。
 岩に岩を叩き付けるような一撃が、師匠の顔面に命中する。
 恐ろしく強固な手応えが、返って来た。拳が砕けた、と思えてしまうほどだ。
 師匠の顔面は、全くの無傷である。
「ぐぅっ……!」
 痺れる拳を引っ込めながら、ガイは片足を離陸させた。
 暴風のような回し蹴りが、師匠の太い首筋を直撃し、そして跳ね返された。
 ガイは、尻餅をついていた。
 呆然とするしかなかった。
 オーガーの頭蓋を粉砕する拳が、アイアンゴーレムの胴体を陥没させる蹴りが、ただ座っているだけの男に、全く通用しないのだ。
「うむ……今朝の瞑想は、ここまで」
 師匠が、目を開いた。岩のようだった顔面が、ニヤリと不敵に歪んだ。
「修行に付き合ってくれて、ありがとうよ。明日は、もうちっと強烈なのを頼むわ」
 岩を粉砕した事はある。
 だが、この岩を打ち砕くのは容易な事ではなさそうだ。


 この霊山で住み込みの修行を始めてから、どれほど経つのか。日を数える事を、ガイはすでにやめていた。
 朝は瞑想。昼は、ひたすら走り込み、あるいは巨岩を持ち上げたまま何時間も立っていたりと地味な鍛錬をこなした後、こうして組手である。
 雄叫びを霊山全域に轟かせながら、ガイは猛然と踏み込んで拳を振るった。
 その拳が、空を切った。
 師匠の巨体が、少しだけ動いた。
 ガイに視認出来たのは、そこまでだった。
 どのように投げ飛ばされたのか全くわからぬままガイは今、宙を舞っている。
 そして岩に激突した。
 その岩が、砕け崩れた。
 崩壊した岩に埋もれた格好のまま、ガイは呻いた。
 全身に、痛みはある。が、負傷したわけではない。
「頑丈な野郎だなあ、おめえは」
 師匠が、呆れている。
「何やってもぶっ壊れねえ身体と、その馬鹿力……それだけで、いいんじゃねえのか。それ以上強くなって、おめえ一体何しようってんだい」
「強くなりてえ……って思っちゃいけねえのかい? 師匠」
 崩れた岩を巨体で押しのけ、ガイは立ち上がった。
「あんただって、強くなりてえって思ったから、そこまで強くなったんだろうがよ」
「そのせいで、こんな山ん中しか居場所がなくなっちまったんだがな……おめえは違う。そんだけ強けりゃ、腕っ節だけで金儲けも出来る。世間様と上手く付き合いながら、楽しく生きてく事だって出来るだろうがよ」
「今まで、そうやって生きてきた。まあ楽しくなかったわけじゃねえが」
 ガイは応え、身構えた。
「今はな、少なくとも、あんたより強くならねえと楽しく生きられねえ。飯だって美味くねえ。さ、もう一手頼むぜ師匠」
「確かに……今のうちに、おめえをもっと強くしとく必要はあるかもな」
 師匠が、謎めいた事を言っている。
「そのうちソーン全体を揺るがすような、どえらい事が起こる……ガイよ、おめえの力が必要になるかも知れねえ」
「どえらい事……一体何だい、そりゃあ」
「わしにも、よくはわからねえ。要は何が起きても大丈夫なようにしとけって事よ」
 師匠も身構えた。
 組手の、再開である。


 岩壁の頂上に座したまま、ガイは目を開いた。
 師匠のように、何時間も目を閉じて岩と同化しながら瞑想など、自分にはまだ無理だ。
 つい目を開いてしまいながら、月を見上げる。
 ソーン全体を揺るがすような、どえらい事が起こる。師匠は昼間、そう言っていた。
 それが何であるのか、月を見つめたところで、わかるわけがない。
「身体を動かさねえ修行は、まだ無理かなあ。おめえには」
 師匠が、歩み寄って来て言った。
「どれ、瞑想はそこまで。夜の修行といこうかい」
 この近くの洞窟で、動けなくなるまで地獄の実戦稽古である。気絶し、眠り、朝を迎える事となる。
 その前に、ガイは訊いてみた。
「なあ、師匠……どえらい事ってのは一体、何なんだい」
「そんなものはねえ、って事も覚悟しとけよ。おめえが生きてる間は、何にも起こらんかも知れねえ」
「……なぞなぞ、みてえなもんか? それも何かの修行かい」
「わしが心配してんのは、何も起こらなかった場合の事よ」
 師匠の口調が、表情が、いくらか憂いのようなものを帯びた。
「いくら強くなっても、その力を活かせねえ……おめえ、それに耐えられるかな」


 岩の地面にごろりと寝転んだまま、ガイは目を覚ました。
 傍らには、1冊の書物が放り出されてある。『格闘戦における気功術の極意』。読んでいるうちに、意識を失ってしまった。
 書物を読破する。やはりガイにとっては一筋縄ではゆかぬ修行である。
 挫折しかけた書物を手に取り、その修行を再開しながら、ガイは呟いてみた。
「師匠……俺、頑張ってるぜ」
 師匠の言葉は、今でも時折、胸の奥から聞こえて来る。
 いくら強くなっても、その力を活かせねえ。おめえ、それに耐えられるかな。
 その言葉が何を意味するのか、今のガイにはわからない。
 わかる事は、ただ1つ。
 あの師匠は、強くなり過ぎたが故に、何かしら苦悩を抱える事となった。あんな山奥で1人、生きてゆくしか、なくなってしまったのだ。
 そして、ガイがそうなってしまう事を心配してくれた。
「俺は……強くなり過ぎて困るってぇほど、強えわけじゃねえからな。まだ」
 強過ぎるが故の悩みなど、自分はまだ持てる身分ではない。ガイはそう思う。
 美味そうな匂いが漂って来た。
「おおい、飯の時間だぜ」
 かつて死神と呼ばれた格闘家……今はガイの修行仲間である男が、湯気立ちのぼる大鍋を運んで来て地面に置いた。
「今日は野豚の骨でダシ取ってみたぜー……って、まだそんなもん読んでんのか。強くなるには本読むより、美味いメシ食らってひたすら身体を動かす! それしかねえよ」
 そんなに強くなって、お前一体何をするつもりなんだ。
 師匠と同じ問いを思わず口にしかけて、ガイは苦笑した。
(強くなってどうする……なんてのは強くなってから考えるさ、師匠)