<東京怪談ノベル(シングル)>


修練と敵襲の日々


 とある町の道場で、師範代をやらされていた時期がある。
 その時にわかったのは、自分を鍛えるよりも、他人を鍛える方が、遥かに難しいという事だ。
 他人に何かを教える。これほどの難業はない、とガイ・ファングは今でも思う。
 とりあえず、あの霊山で自分に気功を教えてくれた師匠と、同じようにやってみる事にした。
 すなわち、1から10まで手取り足取り教えるのではなく、2あたりまで教えてから後は自分でやらせる。
 気功に関して、自分が人に教えられる事など、1あるかどうかすら怪しいものだ、とガイ自身は思うのだが。
 とにかく今、山中で2人の男が向かい合い、座禅を組んでいる。
 背筋を伸ばして両脚を組む、この座り方を、どうやら座禅と呼称するらしい。男は、そう言っていた。
 かつて死神と呼ばれ、見せ物の戦いをしていた男である。
 鋼を盛り固めたかのような、筋骨隆々たる巨体。その鍛え方は、ガイに勝るとも劣らないだろう。
 力強い手足には、光る防具のようなものがまとわりついている。気の光で形成された、防具と言うよりは重り。ガイが施したものである。
 気功鍛錬法。
 気力の光で組成された、この重りを着用していると、身体にとてつもない負荷がかかる。
 動くだけで鍛錬になる、というわけである。
 だが今は動かず、2人で座禅を組んでいる。
 精神を統一し、自我と向き合う。
 あるいは自我を排して、周囲にある自然を感じる。木々を、岩を、風を、地面を、獣たち虫たちを、感じ取る。
 それらの中に在る自分自身というものを、認識する。
 自分がどれだけ小さいものであるか、取るに足らぬ存在であるか、それを知るための修練だとガイは認識している。霊山の師匠いわく、その先に境地と呼べるものがあるらしいのだが。
 ガイは、目を開いた。目蓋の上から、光を感じたのだ。
 死神と呼ばれた男の、筋骨たくましい全身が、淡く白い輝きを発している。
 気力の光が、目に見える形で放たれているのだ。
「お前……俺より、素質あるな。座禅やり始めて、まだ3日か4日だってのに」
 ガイとしては、誉めるしかない。
「俺は、それ出来るようになるまで何ヶ月かかったか」
「試合の前に毎回、控え室で同じような事やってたからな」
 目を閉じたまま、死神は言った。
「自分をな、試合モードに持って行くんだよ。あの感じに近い」
 語りながら少しだけ、彼は苦笑したようだ。
「筋書きの決まった試合が、ほとんどだったけどな。それでもダラダラやってたら、とんでもねえ怪我をする。試合中に死んじまう奴だっている……自慢するわけじゃ、ねえけどな」
 ガイは思う。
 今は自分が、気功の修練を教えている。だが逆に、自分がこの男から教わる事も、いくらでもあるかも知れない。


 いかなる場合でも、頭部は守らなければならない。
 何かしら攻撃を食らって吹っ飛んだ場合、地面や岩壁に激突する寸前に、まずやらなければならない事。それは、身体を丸める事である。
 自分のヘソを見ろ、と死神は言った。そうすれば、頭からではなく、背中や肩から地面に落ちる事が出来る。
 だが無論、背中や肩なら、地面に激突しても平気というわけではない。
 ガイは一瞬、呼吸が止まった。この分厚く頑強な背中をもってしても、地面からの衝撃を完全に殺す事は出来なかった。
 死神の投げは、それほどまでに強烈だった。
「俺のバックドロップを……柔らけえマットじゃなく、地面の上で耐えやがるたあな」
 倒れたまま辛うじて呼吸を回復させ、苦しげに息を吐くガイを見下ろしながら、死神は言った。
「受け身の練習、相当やったのかい?」
「いや……ドラゴンの尻尾で、張り飛ばされた事ならあるけどな」
 起き上がりつつ、ガイは答えた。
「あとまあ、アースジャイアントに掴まれて放り投げられた事もある。爆発魔法の類で、吹っ飛ばされた事もな……ま、受け身の練習にはなった」
「いいなあ。このソーンってぇとこは、おめえをブン投げたり吹っ飛ばしたり出来る奴が大量にいやがんのか」
 死神が、本気で羨ましがっている。
 ガイは言った。
「お前さんを投げ飛ばせるような奴は、そうそういねえだろうな」
「そんな事ぁねえ、試合じゃポンポン投げられてたよ。バックドロップだけじゃねえ、ボディスラムにジャーマン、ドラゴン、ダブルアームにフィッシャーマン……いろんな技ぁ食らってきた。客が、喜ぶからな」
 死神が、広い肩をすくめた。
 わざと投げられていた、という事だろう。
 この男が本気で踏ん張ったら、自分でも投げ飛ばすのは不可能だ、とガイは思う。
「だから受け身の練習は徹底的にやらされたよ。背中が血まみれになるまでな……受けが上手けりゃ上手いほど、技が派手に見える。客が喜ぶ。客が増えりゃ商売になるし、俺たちもいい暮らしが出来るってわけだ」
 死神の言葉には、自嘲の響きがある。
「俺はな、金のためにしか戦ってなかったんだよ」
「金のため、商売のため。生活のため。いいじゃねえか。何のために戦ってんのかわかんねえ俺なんかより、ずっとマシだと思うぜ」
 戦いを見せ物にする仕事なら、ソーンにもある。
 闘技場で戦った事なら、ガイにもある。
 血に飢えた観客たちの罵声や歓声を浴びながら、別に憎くもない相手を派手に叩きのめす。金を、得るために。
 そういう仕事に嫌悪感を抱いた時期が、ないわけではない。
 だが、そういう仕事をしている男たちがいる。
 飽きっぽい観客を継続的に熱狂させ、金を落とさせる。そのためだけに死ぬ思いで身体を鍛え、強さを追い求める男たちがいる。
 この、死神と呼ばれた男もそうだ。
 金のために戦う。それがどれほど過酷な事であるのか、ガイも今では、いくらかは理解しているつもりだ。
「俺もな、そのうちまた金に困って、見せ物の戦いをやる事になるかも知れねえ」
 死神のたくましい肩を、ガイは少し強めに叩いた。
「そういう時に重宝する技を、身につけておかねえとな……さ、もうひと勝負いこうぜ」


 全身の骨が、悲鳴を上げている。
 寝転がって手足の関節を捻り上げたり、顔面を締め上げたりといった技を、死神によって徹底的に叩き込まれたのだ。
 観客を熱狂させる事が出来るとは、とても思えない、地味な技術ばかりである。
「俺が若手の頃は、ずっとこんな感じでな。練習させてもらえた技と言えば、ひたすら袈裟固めに脇固め、ヘッドロックにフェースロック……スープレックスの練習なんて、させてもらえなかった」
 懐かしそうに、死神が語っている。
「派手な技を使うのは、地味な技でひたすら基礎を作った後でって事でな」
「まあ……そりゃ、わからねえでもねえが」
 左腕の、肘の辺りをさすりながら、ガイは言った。
「それにしても……関節技ってやつは恐ろしいな。地味だけど、効きやがる」
「俺の関節技なんて、まだ全然だ。何しろ……三角締めを、おめえの馬鹿力だけで返されちまったからな」
 確かに、この男とは初対面の時、そういう戦いをした。
 あの時、この死神が、もっと積極的に関節技を使っていたら。ガイに勝ち目はなかった、かも知れない。
「バックドロップもジャーマンもねえ、ドロップキックやラリアットも使わねえ……関節の取り合いだけで客を呼べるような人もいたよ。シュートに走り過ぎて結局、プロレスラー辞めちまったけどな」
「客を呼ぶ……か」
 客を呼ぶ。商売を成立させる。そのための戦いというものが、確かに存在するのだ。
「ただ金儲けのためだけの戦い……俺ぁそいつに嫌気が差して、この世界に来た。そのつもりだったけどな」
 その戦いで死神の覆面を被っていた男が、じっと眼差しを向けてくる。
「おめえとなら、いくらでも客を呼べる試合が出来る気がするぜ。ガイ」
「……ま、生きてられたらな」
 いくらか痛みの残る身体で、ガイはゆっくりと立ち上がった。
 周囲の木陰や岩陰から、殺意が伝わって来る。
 複数の、不穏極まる気配。
 自分が命を狙われている身であるという事を、ガイは不覚にも忘れかけていた。
「……お前、そう言えば賞金首なんだっけな」
 死神も立ち上がり、身構えた。
 そして、まだ姿を見せない賞金稼ぎたちの気配を数え始める。
「5人、10人……いや20人はいやがるな。こんだけ大人数に命を狙われるほどの、お前一体何をしでかしたんだ」
「俺はただ、戦ってただけさ」
 ガイは、牙を剥くように微笑んだ。
 観客のいる試合であろうと、客には見せられぬ殺し合いであろうと、戦いとなると心が熱くなる。どうしようもない性分であった。
「……いい機会だ。痛え思いで教わった技、いろいろ試してみようか」
「群れるだけの雑魚どもだ。関節なんか極めるより、殴る蹴るでまとめてぶっ飛ばした方が早いぜ?」
 死神の言葉が終わらぬうちに、賞金稼ぎの群れは襲いかかって来た。