<東京怪談ノベル(シングル)>


進化する闘神


 生きるためだけに必要な食物ならば、山の中での狩猟・採集だけで充分、手に入る。
 だが多少でも味にこだわろうと思えば、やはり金を使わざるを得ない。
「とにかく塩っ気が全然足りてねえ。だけど塩だけありゃあいいってもんじゃねえぜ? 何と言っても酢と胡椒、それに味噌と醤油がありゃあ完璧なんだが……まあいいや、何か発酵系の調味料。おめえさんの鼻に任せる。適当なの買って来てくれれば、あとは俺が何とかするからよ」
 現在この洞窟でガイと同居している、巨漢の格闘家。かつて死神と呼ばれた闘士。多少どころではなく、味にこだわる男であった。
(まあ俺も……美味いもん食えるなら、その方がいいからな)
 とにかく料理に関しては自分など、この男の足元にも及ばない事を、ガイは心得ている。言われたものを、買って来るしかなかった。
「わかった。酢と胡椒と、あと何か発酵した物な」
「つっても酒じゃねえぞ。酒は買って来るなよ……まあ、買って来たら飲んじまうだけだがな」
 言いつつ、死神は咳払いをした。
「……修行の妨げだ。買って来るなよ」
「わかってるって」
 片手を上げながら、ガイは洞窟を出た。
 買い出しである。酢も胡椒も、この山では入手不可能だが、ふもとの田舎町でなら安価で手に入る。
 金はある。賞金を稼いでも基本的に飲み食いにしか使っていないので、貯まる一方であった。
「金……か」
 呟きながら、ガイは山道を下った。
 あの死神は、もしかしたら酒で痛い目に遭った経験があるのかも知れない。ふと、そんな事を思った。
 ガイの知り合いである賞金稼ぎや格闘家にも、大金を手にした途端に酒や博打や女にのめり込み、身を滅ぼしていった者が何人もいる。
 ガイが金を使わないのはしかし、そういった者たちを反面教師にしているから、というわけではない。
「ドケチで、せこい奴……なだけかも知れねえなあ、俺って奴は」
「たっ、助けてくれー!」
 悲鳴が聞こえた。
 山道の途中。ガイの行く手を遮るような形で、騒動が起こっている。
 木こりか、農民か。とにかく山の近辺に住む村人と思われる男が2人、危害を加えられていた。
 1人は尻餅をついて腰を抜かし、怯えている。
 もう1人は、首を絞められている。奇怪な怪物、としか言いようのない何者かによってだ。
 ガイと同程度の巨体。大柄な人型の生物だが、オーガーやトロルではない。無論、人間でもない。
 皮膚のない大男。一言で表現すれば、そうなる。巨大な全身あちこちで、剥き出しの筋肉や血管や臓物が、おぞましく震え蠢いている。
 そんな怪物が、片手だけで大の男を1人、首を掴んで吊り上げているのだ。
 宙に浮いた両足を痙攣させながら、男は青ざめ、泡を吹いていた。その頸部に、怪物の太い五指が容赦なく食い込んでゆく。縊死する前に、首を折られてしまいかねない。
 ガイは地を蹴り、猛牛の如く駆け出した。
 突進。オーガーをも吹っ飛ばす体当たりが、怪物を直撃する。
 皮膚のない巨体が、しかし吹っ飛びはせずに少しだけよろめいた。
 痛撃を与えたようには見えない。が、男の首から手を離させる事は出来た。
 解放された男の身体が、地面に放り出され、苦しげに咳き込みながらのたうち回る。
 そこへ、もう1人の男が、おたおたと近寄って行く。
「逃げろ!」
 男2人を背後に庇いつつ、ガイは身構えた。
 よろめいていた怪物が、即座に体勢を立て直し、殴り掛かって来たのだ。
 皮膚のない赤い拳を、ガイは片手で払いのけた。バシッ! と激しく音が鳴った。分厚い掌が、破けてしまいそうな衝撃である。
 同様の衝撃が、腹に来た。
「ぐっ……」
 ガイの巨体が、前屈みに折れ曲がる。
 怪物の、蹴り。生々しい筋肉を隆々と剥き出しにした足が、ガイの腹部に叩き込まれている。
「な……なかなかの蹴りだぜ。だがな」
 次なる攻撃が来る前にガイは、折れ曲がった身体を起こしながら、片足を離陸させていた。
「本物の蹴りってのは、こうだぜ……気功! 斬鉄蹴!」
 筋肉の塊である太股が跳ね上がり、膝が伸び、力強い脛と足首が斬撃の如く一閃する。白い光を、発しながらだ。
 気力の光を帯びた回し蹴りが、怪物の巨体を斜めに叩き斬っていた。
 剥き出しの筋肉が、臓物が、ざっくりと裂けて体液を飛び散らせる。
 が、骨まで断ち切る事は出来なかった。あまりにも強固な骨格の感触を、ガイは爪先の辺りに感じていた。
「こいつは……!」
 息を呑むガイの視界内で、怪物は吹っ飛び、倒れ、すぐに起き上がって来る。
 巨大な胴体にザックリと生じた裂傷から、白い骨が見えていた。
 その骨が、裂けた肉と臓物を押しのけ、体外へと盛り上がって来る。
 そして、広がった。
 怪物の肉体の、内部と表面が裏返っていた。傷を負った肉と臓器を、白い骨が包み込んでゆく。
 まるで、鎧をまとったかのようである。
 骨の甲冑を全身にまとった怪物が、先程と変わらぬ勢いで殴りかかって来る。
 ガイは再び、気功斬鉄蹴を繰り出した。
 白色の、気力の刃をまとった蹴り。
 その白い光の刃が、怪物の体表面で砕け散った。
 金属成分を含有していると思われる、骨の甲冑。全くの無傷である。
「うおっ……!」
 蹴りを跳ね返され、よろめきながら、ガイは無理に踏みとどまろうとせず地面に倒れ込んだ。
 骨の手甲で武装した怪物の拳が、ブゥンッ! と空振りして行く。
 ガイは即座に起き上がりながら、後方へと跳んだ。
 骨のブーツをまとう蹴りが、ガイの分厚い胸板をかすめて弧を描く。
 拳に、蹴り。攻撃は、先程と同じだ。だからガイは、見切ってかわす事が出来た。
「防御はやたらと固くなったようだが、それだけ……みてえだな。攻撃には何の変化も進歩もねえ。それじゃあ駄目だぜ」
 ガイは、にやりと微笑みかけた。
「バカなりに勉強して考えて、新しい技を身につけた……俺を、少しは見習えってんだ」
 あの書物に、理論だけは記されていた。純粋な気力のみの攻撃で、相手の物理的防御を無視し、体内を破壊する技術。
 敵を体外から切り裂く斬鉄蹴とは異なる、気功の使い方である。
 それを今こそ、試す時であった。
 怪物が、進歩のない動きで殴りかかって来る。
 ガイは、分厚い両掌を上下に合わせ、そして開いた。
 それは竜が口を開く様にも似ていた。力強い五指は、牙である。
 体内で、気が燃え上がる。
 燃え猛るものを両掌に集中させながら、ガイは声を発した。
「気功、貫通撃……!」
 竜が、光を吐いた。そんな様であった。
 上下の顎を成す両掌から、気力の白色光が迸ったのだ。
 その光が、怪物を直撃し、貫通し、消えた。
 金属質の骨鎧は、相変わらず無傷である。
 無傷の甲冑が、倒れた。口や眼窩から、関節の隙間から、大量の灰がザァーッと溢れ出す。
 骨の甲冑の中身は、灼き尽くされていた。
「ふう、何とかなったぜ……これがまあ、進歩ってやつだ」
 もはや動かぬ骨の鎧に、ガイは言葉をかけた。
 皮膚のない怪物。その代わりに時折、骨を露出させて鎧の如く身にまとう怪物。
 そう言えば噂で聞いた事がある、とガイは思い出した。賞金稼ぎ組合の窓口にも、確か高額の賞金首として貼り出してあった。
「大して使わねえ金が、また増えちまうのかな……」
 呟きながらガイは、呆然としている男2人を一瞥もせずに歩き出した。
 大して使わないとは言え、あって困るものでもない。それは確かであった。