<東京怪談ノベル(シングル)>


暗黒の牝獣


 エルファリア王女が、別荘でおかしな生き物を飼い始めた。
 聖都エルザードでは今、そんな噂が囁かれている。
 恐ろしく凶暴な獣で、エルファリア以外の者には決して懐かず、侍女たちの中からは怪我人も出ているという。
 その獣が今、エルファリア別荘の裏庭を徘徊している。
「ぐるる……ぐぁあうぅ……」
 端正な唇がめくれ上がり、白い牙が剥き出しになる。
 直立すれば優美に映えるであろう肢体が、しかし今は四足獣の如く地面に伏していた。
 しなやかな左右の細腕が前肢となり、その間では、豊麗な胸の膨らみが、たわわな果実のように揺れながら地面に迫っている。
 鍛え込まれた両の美脚が、膝をついて後肢を成し、むっちりと形良い尻を突き上げている。
 そんな獣の姿勢のままレピア・浮桜は、飼い主を探し回っていた。
 このところエルファリア王女は公務で多忙を極め、別荘にも帰れぬ日々が続いている。
 今のレピアに、そんな事情は理解出来ない。
 戻らぬ王女を求め、仔犬のような声を漏らすだけだ。
「がうぅ……くっふ……くぅうん……」
「私をお探し……というわけではなさそうね? 野良犬ちゃん」
 黒い姿が、いつの間にか目の前に立っている。
 四つん這いのままレピアは見上げ、睨み据えた。
 黒いローブ、それに黒い瞳。
 この暗黒の瞳を、自分は知っている。
「でもね、私は貴女を探していたのよ。水晶の像に変えておいたはずなのに、いつの間にか逃げ出してくれて……凶暴な野犬を繋ぎ止めておく事なんて、出来ないのかしらね」
 思い出せない。が、自分は確かに、この女性を知っている。
 レピアは牙を剥いた。
 咆哮が、身体の奥から迸り、別荘の敷地全域に響き渡る。
 その響きが消えぬうちに、レビアの身体は動いていた。
 自分は、この女が許せない。思い出せなくとも、許せない。
 それだけが、レピアの頭に満ちた。身体を、突き動かした。
 黒衣の女性の身体が、揺らいだ。
 揺らいだ身体を、レピアの牙が食いちぎる。
 食いちぎられた破片が、飛び散りながら消え失せた。幻像だった。
 それに気付かぬまま、レピアは落下していた。
 突然、地面が失われたのだ。
「古典的な手を、使わせてもらったわ」
 黒衣の女性の、声だけが聞こえる。
「この別荘に出入りしている造園業者を買収して、仕掛けを作っておいたのよ。頭の働く人間なら絶対に引っかからない、単純な落とし穴の仕掛け……だけど獣を捕まえるには、充分ね」
 その声も、聞こえなくなった。
 代わりに、水音が聞こえた。
 あまり綺麗ではない水の飛沫が、レピアの周囲で大量に飛び散った。
 エルザードの地下に、太古の迷宮の如く広がる、下水道である。
 汚水の溜まりの中で、レピアは身を起こしていた。そして周囲を見回す。
 暗闇の奥、うっすらと見て取れるのは、苔と黴にまみれた石壁。通路を慌ただしく走り回る、ネズミの群れ。果てしなく広がる、汚水の海。
 その中を、何かが泳いでいる。
 何かが水中から、レピアの足元に近付いて来る。おぞましい、何かの群れが。
 汚らしい水飛沫が、飛び散った。
 水中から現れたものたちが、次の瞬間、レピアの全身に巻き付いていた。
 蛇、いやミミズに近い、紐状の有機物の群れ。
 何本ものそれらが、レピアの両脚に絡み付き、瑞々しく膨らみ締まった太股へと這い上ってゆく。左右の細腕を、しなやかな胴体もろとも幾重にも束ね縛る。その拘束の中から、圧倒的な胸の膨らみが押し出されて来て揺れ悶える。
 捕われたレピアの近くで、水面が盛り上がった。
 巨大で醜悪なものが、汚水を滴らせながら姿を現していた。
 肉塊、としか表現しようのない巨体。そのあちこちからミミズのような触手が生え伸び、レピアの全身を絡め取っているのだ。
 一風変わった生き物の飼育が、エルザードの貴族たちの間で大流行した時期があった。
 手に余ったり飽きたりで、貴族たちはそうした生き物をことごとく下水道に捨てた。
 今は、聖獣王によって飼育禁止令が出されている。
 だが捨てられた生き物たちは救済される事なく、迷宮の如き下水道の中、こうして怪物と化し彷徨っているのだ。
 そんな怪物に絡め取られたまま、レピアは跳躍した。
 形良く鍛え込まれた踊り子の美脚が、まとわりつく触手を振りほどきながら、まっすぐに伸びる。まるで槍のように。
 投槍を思わせる飛び蹴りが、怪物の巨体に突き刺さる。
 巨大な肉塊がザックリと裂けちぎれ、おぞましい内容物がドバァーッと噴出した。
 噴出したものに、レピアは食らいついた。
 白く美しい歯が、蠢く体内器官を噛みちぎる。
 綺麗な唇がビチャッ、と怪物の体液にまみれた。愛らしい舌が、それをペロリと舐め拭う。
 人間の味覚など、とうの昔に失われている。
 倒した敵は、食らう。そうしなければ、この下水道では生きてゆけない。
 おぞましいものを食らってでも、生きなければならない。
 生きて、会わなければならない。誰に。それも、今は思い出せない。
 レピアの咆哮が、下水道全域に、禍々しく悲痛に響き渡った。


 聖都の下水道に、恐ろしい怪物が棲み付いている。
 エルザードでは今、そんな噂が囁かれていた。
 その怪物が、四足獣の姿勢で、石の通路を這い進んでいる。豊かな胸を石畳に迫らせ、むっちりと力強い尻を高々と突き上げながら。
 汚水まみれの肌は、ドロドロに汚れながらも野獣の活力を内包し、闇の中で猛々しい色艶を見せている。
 半年間、この下水道で怪物たちを捕食し、生き長らえた結果、レピアは今や完全な獣と化していた。
 知性なき両眼が、前方の闇を睨む。
 闇よりも黒いものが、そこには佇んでいた。
「頃合いね……」
 レピアをここに叩き落とした、黒衣の魔女。
 もっともレピア自身は、落とし穴で落とされた、という事を認識しているわけではない。
 そんな事をされる、ずっと以前から、この女を憎んでいる。理由はわからない。
 とにかく、この女はレピアにとって、いくら憎んでも足らぬ事をしでかしたのだ。
「ぐぅああぁ……るるる……」
「いくら凄んでも無駄よ。貴女では私には勝てない……だって貴女、信じられないくらい魔法にかかり易いんだもの」
 暗黒の瞳が、レピアを見据えた。
「誰かに会いたい、でもそれが誰なのかわからないまま、彷徨っていたのよね……今、会わせてあげるわ」
 憎い魔女に、襲いかかる。蹴り殺す、あるいは食いちぎる。
 その動きを見せる前にレピアは、暗黒の中に呑み込まれていった。


 レピアがどこへ消えたのか、エルファリアにはわかっていた。
 別荘の裏庭に、あからさまな落とし穴が生じていたからだ。
 あの下水道迷宮に、しかしエルファリアの私用で探索隊を派遣する事は出来ない。
 頼りになる女忍者が1人いる。だが彼女は今、聖獣王の密命を帯びて重要な任務を遂行中だ。
「私が行く……しか、ないのね……」
 あの女忍者が聞いたら血相を変えるであろう事を呟きながら、エルファリアは別荘の扉を開けた。
 公務で疲れきった身体を、自室のベッドに倒れ込ませる。
 疲れた心を癒してくれる踊り子も、今はいない。
「レピア……」
 呟き、呼びかけてみる。当然、返事が返って来るわけはない。
 だが、何かが返って来たような気がした。
 エルファリアは、ベッドの上で身を起こした。
 細い人影が、そこに座っていた。奇妙な椅子に、腰を下ろしている。
「御機嫌よう、エルファリア王女……」
 どこかで見た事のある、黒衣の女性。どこで会った相手なのかは思い出せない。
 が、そんな事はどうでも良かった。
 彼女が腰掛けている、どうやら石製らしい大型の椅子。それ以外の何もかもが、エルファリアにとっては、どうでも良かった。
「貴女の心を、暗黒に沈めてあげる……ふふっ。これが何だか、わかるわよね?」
 これほど美しい椅子を、エルファリアは見た事がなかった。
 猛々しく美しい、牝の獣。豊麗な胸は地に押し付けられ、瑞々しい白桃を思わせる尻は、力強く天空に向かい突き上げられている。
 躍動感をそのまま凍り付かせたような、石像である。
「レピア……」
 呆然と、エルファリアは声を漏らした。
「貴女、レピアを……連れて来て、くれたのね……」
「な……何を、言っているの?」
 黒衣の女性が、うろたえている。
「私は、貴女の一番大切な人を、こうして無様な獣に変えたのよ? 憎くはないの!?」
「ありがとう……」
 自分が涙を流している事に、エルファリアはぼんやりと気付いた。
 黒衣の女性の意図がいかなるものであるのか、そんな事はどうでも良かった。
 レピアが、ここにいる。帰って来てくれた。エルファリアにとっては、それが全てだ。
「本当に、ありがとう……レピアを、返してくれて……」
「……貴女の、愚かしさを……甘く見ていたわ」
 呻きながら、黒衣の女性は立ち上がった。
「貴女を絶望させ、その清らかな心を憎しみの海に沈めるには……こんな甘いやり方では駄目という事ね。傾国の踊り子の……切り刻まれた無惨な屍でも、持って来なければ」
「無理よ。貴女は、そのような事が出来る人ではありません」
 エルファリアは、涙を流しながら微笑みかけた。
「私には、わかります……貴女は、とても優しい人」
「…………!」
 何か怒声のようなものを発しようとしながら、黒衣の女性は逃げるように背を向けた。
 その姿が、消えた。
 牝獣の石像と化したレピアだけが、そこに残されている。
「お帰りなさい、レピア……」
 石製の椅子に、エルファリアは身を寄せて細腕を絡ませた。
 冷たく固い石像の感触。その下に、しかし温かな鼓動のようなものが、確かに感じられた。