<東京怪談ノベル(シングル)>
おやすみなさい、また明日。
今日の気分は浅黄色か、もう少し濃い目の色が良い気はする。とはいえまだ数の少ない手元のリボンに気分に合うものは見当たらず、一度眉根を寄せたものの、セリスはえいやと髪の毛をまとめてしまうことにした。
鏡の中に映りこむのは、銀の髪に銀の目の、女の子。
「今日も頑張りましょうっ」
にっこり笑顔を浮かべて、拳を握りしめる。勢い込んで部屋の扉を開け、すれ違った顔見知りの数名に挨拶をしながら階下へ降りると――夜は居酒屋になっているその場所には、何人もの人が出入りし、あるいは朝御飯をかきこんでいる風景がある。
「おはようセリス、今日は何食べるの? 夕飯の残りのシチューあるけど、どうする?」
「ええっと、パンと…シチューも、いただきます!」
まだ駆け出しであるところのセリスの一日は、おおよそ、こんな風に始まることが多い。
郷里から、修行の為にと旅立ってどれくらいになったろうか。ようやくこんな朝の風景にも慣れた所だ。街道沿いの街は人の出入りや物の流れの中心になっているためか、魔物騒ぎやトラブルが多く、自然と宿には常駐する冒険者が増える。セリスも今のところは、この宿を定宿に、小型の魔物退治やささやかなトラブル解決に勤しむ日々である。
熱々のシチューを吹き冷ましながらさて今日は、と目線をあげた矢先だった。何度かこの宿で顔を合わせた事のある行商の男性が、困った様子で宿へ姿を見せたのは。
それから数刻の後。セリスは気合十分に、街外れの小さな橋の上に立っていた。
街道からは少し外れた、近隣の小さな村へ繋がっているだけの本当に小さな道だ。川にかかった橋の反対側には、白と黒の体毛が特徴的な魔獣が一体、じっと座り込んでいる。こちらを窺うような視線を向けられたセリスは一瞬ぎゅうと拳を握ったものの、すぅと息を吸って自らを落ち着かせた。
「あ、あのー!」
獣に対してセリスは一度声を張り上げる。それと同時、さわりと彼女の銀髪が風に揺れた。セリスの職は「風喚師」、風を呼び集め使役することも可能だが、それ以外にも大事な能力があった。風を通じ、獣や、時には人の精神に干渉することが可能なのだ。と言っても、駆け出しのセリスに出来るのはぼんやりとした意思疎通程度ではあるが。
まして相手は獣である。声をかけられたことでセリスへ注意を向けた獣は、言葉にならないぼんやりとした思考だけをセリスに伝えて来る。結論だけ言えば、残念ながら何を考えているのかセリスにはさっぱり分からなかった。ただ、セリスを邪魔だなぁ、と感じていることだけははっきり理解できる。
「え、ええとですね。ここの橋、通れるようにしてもらいたいのです」
それでも訴えてみる。こちらも風の力を借りているから、あちらにも意図くらいは通じているはず――だったのだが。
獣はその言葉にゆっくりと背を向けた。「あ、通じた」と安堵の笑みを浮かべたのもつかの間、ぼん、という破裂音にまず驚いて跳ねあがり、そして、
「!? げほっ、げほっ…!!」
次いでセリスを襲ったのは目に染みて涙目になるほどの強烈な悪臭であった。慌てて橋から逃げ出しながら、セリスは事前に聞いていた商人の言葉を思い出す。
――あの森に棲んでる魔獣でね、滅多に人の居る方には降りてこないんだが、どういう訳か橋のたもとに居座っててね。
――追い払うのはいいんだが、何しろあいつは、敵に向かってオナラをするんだ…笑いごとじゃないんだよ、とにかく酷い匂いなんだこれが。
(そ、そりゃあ冒険者の人を頼ろうとするわけです…)
加えて、セリスが「じゃあ私が」と名乗り出た時の周りの「本当に大丈夫か?」という心配げな視線の意味も今更思い知る。悪臭と言われて、その程度か、などと甘く見たのが大間違いだった。
涙目で咳込み、セリスは持ってきていた布を川で濡らして顔を拭った。鼻さきに匂いが染みついているようで酷い気分だ。
「も、もう、こうなったら何としてもどかしてやるんですからね…!」
誰にともなく彼女は宣言する。気合を表す様に銀髪と、そこに絡んだリボンが風をまとってふわりと揺れた。
まずセリスが思いついたのは単純な力押しである。相手は魔獣とはいえ、聞くところによれば特に何か魔術的な力を持つ訳でも無く、ひたすら身体が大きく、ひたすらオナラが臭いだけの傍迷惑なだけの生き物である。さすがに風の力だけで吹き飛ばすことはセリスには出来ないが、強風が吹けば嫌がって場を変えるのではないかと思ったのだ。
ついでに言えばこちら側が風上になるので悪臭の被害には遭わないはず。そんな目論みもあったのだが。
「ぜー…ぜー…こ、これでも、だめ、ですか」
つんとそっぽを向く魔獣は微塵も動く積りは無いようであった。失敗。
次いでこちらも力技であるが、ロープで引っ張ってみようとしたのだが、まぁ当然これも失敗した。そもそもセリスは獣人みたいに体力に優れる訳ではない。おまけに自分が風上に立つのを忘れて再度悪臭被害に遭ってしまう始末である。
咳込んで涙目になりながら、「あれ、これ二回目…」等と落ち込み、セリスは自分の服をつまんで匂いをかいで、顔を顰めた。
(あああ、宿に帰ったら洗濯させてもらわなきゃ。それにお風呂も…)
さて、どうしたものか――腕組みして考え込むセリスの眼前で、魔獣は大きな口を開けて呑気に欠伸をし――あまつさえそのまま転寝を始めるではないか。馬鹿にされている、なんてものではない。
今度は怒る気力もなえて――さっきの風圧作戦で体力を根こそぎ使ってしまったこともあり、セリスは項垂れて、鞄を下ろした。鞄の中には宿で詰めて貰ったお昼ご飯のサンドイッチが入っているのだ。腹時計の具合からすれば多分今はお昼頃だろう。そういうことにして、彼女は橋のたもとで足を揺らしながら、サンドイッチの包みを剥がす。
白パン、なんてぜいたくは言えないので少し硬めのライ麦パンに、中身は萎れているけれど、近隣の畑で良く採れるレタスに薄くスライスしたチーズ。茹でた卵。宿の女将さんはセリスのような新入りの冒険者には大層優しいので(その分、売出し中の冒険者たちからはしっかり取るもの取っているようだ)、少し多めにハムも入っている。更に、鞄から水筒を取り出し、中身を確認。ぬるまっているけれど、中身は紅茶だった。宿の女将さんの娘さんが毎朝拘って淹れている紅茶は冷めても美味しいのだ。一緒に入れられていたレモンスライスを一切れ紅茶に入れて、さてのんびりとランチでも、と思ったその時だった。
のそり、と。
魔獣が動いた。
「え? え、何で? あ、もしかしてやっと退いてくれる気になったんですか!」
今までセリスがあれこれとアプローチしていたのが通じたのかもしれない。そう思って安堵の笑みと共に立ち上がったセリスに、魔獣はのそのそと歩み寄り、そして。
思った以上に間近によってきた魔獣に驚いてセリスが硬直しているのを余所に、広げられていたサンドイッチをぺろり、と平らげてしまったではないか。
「あーーーー!!!?」
私のお昼ご飯!!! と悲痛な叫びをあげるセリスを歯牙にもかけず、魔獣はサンドイッチを、それも三つとも全部食べてしまった。セリスが楽しみにしていたハム入りのサンドイッチもだ。わなわなと震えるセリスだが、成す術はない――ゆったりと、魔獣が立ち去るのを彼女は呆然と見送るハメになった。
「……。もしかして、お腹が空いていただけだったんでしょうか…」
呆気にとられて唸る。そういえば、ここを通る行商人はこうも言っていた。
――今年は居ないんだが、俺以外にも珍しく、この抜け道を遣ってる商人の爺さんが居てな。いや、亡くなったんじゃねぇよ、隠居だ。
――その爺さんが、ここを通る時に、よくあのデカブツに餌付けをしてたようなんだよなぁ。
(もっと早くに思い出せば良かったのに! 私のばか!)
その場に頽れるセリスのお腹がぐぅ、と切なく音を立てる。まるで答えるように、遠くの方で、村の中心の教会の鐘の音が鳴った。
その日の夕刻、少し早めに宿へ戻ってきたセリスは、食堂を兼ねている1階の酒場でテーブルにべったりと突っ伏していた。さっきまで、珍しく水浴びではなく湯浴みまでしていたので、銀髪は少し湿り気を帯びて、萎れているようにも見える。
一応は依頼を果たしたということでささやかながらお礼は貰った。そんな彼女に、今日はお疲れ様、と差し出されたのはほかほかと湯気のあがるスープだった。ごろりとその中に転がった塊肉にセリスのお腹がぐぅ、と音を立てる。何せ昼から何も食べていない。
「大変だったけど、商人さんはお礼言ってたわよ。という訳で、このお肉は私の奢り」
「でも、でも」
仕事は完遂した、とは言い難い。セリスがもっと早くに気が付くべきだったのだ――そんなことばかり頭をぐるぐるとまわっている。スプーンを手にしたまままだ項垂れていると、またしてもお腹が抗議するようにぐぅ、と鳴った。あはは、と横に居た女将が声を出して笑う。
「まぁ、勉強したと思いなさい。また明日、頑張ればいいんだよ」
また明日。
眉をぎゅっと寄せてセリスはその言葉を噛み締める。それから、スプーンでシチューを口に運んだ。じわりと染みるバターの香りと塩気の強い味。
そうだね、明日はきっと。
温かなシチューは、いつもより少しだけ、塩辛いようでもあった。
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