<東京怪談ノベル(シングル)>


夢の終わり


 汚れていた石像が、綺麗になっただけだった。
 石に変わった美肌を、聖水の湯でいくら丹念に洗っても、元に戻らない。
 レピア・浮桜は、石像のままだった。
 すらりと長い手足を獣の如く踏ん張らせ、形良い唇から鋭い牙を剥き出しにした、美しい獣人の像。
「レピア……」
 エルファリアが声をかけても、応えてはくれない。
 別荘の、露天風呂である。
 様々な悪しき状態変化を、洗い落として解除する、聖なる湯。
 ここに入るだけで、レピアはいつも元に戻ってくれた。
 石に変わっても獣に変わっても、この温泉に浸かるだけでレピアはいつでも、元の美しい踊り子に戻ってくれた。どんな悪しき状態からも、帰って来てくれた。
 そんな万能の聖湯に浸されたまま、しかし生身に戻ってはくれない獣人の石像を、エルファリアはそっと抱き締めた。
 頼り過ぎていたのかも知れない、と今は思う。
 この聖なる温泉があれば、いつでも容易くレピアを助けてやれる。そんな安直な思い込みが、自分にはあった。
「今こそ、私が……私だけの力で、レピアを助けてあげなければ……」
 石像のままのレピアに、たおやかな美貌をすり寄せたまま、エルファリアは目を閉じた。
 そして念じ、聖なる言語を呟いた。
 レピアの石の全身が、淡く白い光に包まれながら、急速に縮んでゆく。
 等身大の石像が、小さな石像に変わっただけだ。掌に載せられる大きさである。
 四つん這いのまま小さな石人形と化したレピアを、エルファリアは湯の中から拾い上げた。
 助けてあげる、などと決意を新たにするまでもない。
 レピアを助ける。それは当然の事なのだ。


 美しいもの、可愛いものを、愛したい。信じたい。
 だが人間は愛せない、信じられない。
 だから、こんな事をしているのだ、とエルファリアは思った。
「うぐぅ……ぐぅるるるる……」
「こふっ、がふぅ……」
「がううう! わんわん!」
 愛らしい唇から牙を剥き、唸り、吼える美少女たち。
 皆、人間としての意識と理性を失い、獣と化している。そして飼われている。番犬としてだ。
 聖都エルザード郊外にそびえ立つ、魔女の塔。
 エルファリアは1人、ここを訪れ、番犬の少女たちによる威嚇を受けていた。
「お願い、そう邪険にしないで……」
 牙を剥く少女たちと、エルファリアはまず会話を試みた。
「私……貴女たちの仲間になりたくて、来たのだから」


「まさか、こんな所で王女様をお迎えする事になるとはね……」
 魔女が暗い笑みを浮かべ、エルファリアを迎えた。
 獣と化した少女たちに連行される形で、エルファリアは今、塔の主たる魔女の面前にいる。
「わかっているの? ここへ来るという事は要するに、私のものになるという事……」
「私は貴女の、犬にもなります。獣にもなります。可愛がって下されば嬉しいですけど、手慰みに殺して下さっても一向に構いません」
 応えながらエルファリアは、ドレスの懐から小さなものを取り出した。
 掌に載る石人形と化した、レピアである。
「私を、貴女の思うままに……その代わりに、お願い。レピアを助けて……」
 自分だけの力で、レピアを助ける。
 そう決意はしたが、しかしエルファリアの魔力でレピアを元に戻す事など出来はしない。
 それが出来る者に、己の身を捧げて懇願する。エルファリアに出来る事など、その程度だ。
「貴女……私を、哀れんでいるのね」
 年齢の読めない魔女の美貌が、微かに歪んだ。
 苦痛と屈辱の歪み、であった。
「咎人の呪いを受け、この塔から出る事も出来ない私を……」
「塔から出られない、わけではないでしょう」
 エルファリアは言った。
「塔から離れると、私などでは想像もつかないほどの苦痛が身を蝕む……それが貴女の、咎人の呪い。その苦痛に耐えてまで、貴女は塔を出ては彼女たちをさらい集め……このような目に、遭わせている」
 獣に変わった少女たちに、エルファリアは黄金色の瞳を向けた。
 その瞳が、涙で揺らぐ。
「呪いの痛みに耐えてまで何故このような事を? それは貴女が、美しいもの可愛らしいものを、こよなく愛する人だから。だけど人間は愛せない人だから」
「お黙り……!」
 魔女の美貌に、怒りが漲る。
 涙に沈みかけた黄金の瞳で、エルファリアは見つめ返した。
「そのような人に……哀れみ、以外の何を差し上げられると言うのですか?」
「王女……貴女は……ッッ!」
「差し上げられるものがあるとすれば、私のこの身……お好きなようになさい」
 黄金色の眼光が、涙を蒸発させるかのように燃え上がる。
「その代わり、レピアを元に戻しなさい。ソーンの王族として貴女に命じます」
「……獣として一生、汚物にまみれ続けるがいい」
 魔女が呻き、片手を掲げた。
「その覚悟に免じて、いいわ。レピア・浮桜を、解放してあげる……」
 たおやかで形良い、だが枯れ枝のようでもある五指から、目に見えぬ魔力が迸る。
 エルファリアの手から、レピアがこぼれ落ちた。
 そして床に落下しながら、地響きのような音を発する。
 小さな石人形が、等身大の石像に戻っていた。
 そこまでだった。それ以上の変化は、起こらない。
「拒んでいる……」
 掲げた片手を震わせながら、魔女は呟いた。呟く声も、震えている。
「元に戻る事を……この子自身が、拒んでいる……」
「……何を、言っているの?」
「貴女を獣にしてまで、元に戻りたくはない! そう言っているのよ、この傾国の踊り子は!」
 魔女は叫び、身を震わせ、うなだれた。
 枯れ木を思わせる細い身体が、うなだれたまま淡い光に包まれる。
 獣の少女たち、それに石化したレピアの身体もだ。
 辛うじて視認出来る程度の、白色の光。それが、うっすらと消えてゆく。
「う……ん……」
「あれ……ここ、どこ?」
 獣と化し、久しく人間の言葉を忘れていたのであろう少女たちが、そんな声を発している。
 あらゆる呪いが、解けた瞬間だった。
「……家へ、お帰り……」
 魔女が言った。
「今まで私の慰みに付き合ってくれた事、感謝している……今後、貴女たちが何か不幸に見舞われるような事があれば、私が助けてあげるよ」
 少女たちの姿が、消え失せた。まるで最初からいなかったかのように。
「貴女がたの勝ちよ……これで、満足?」
 魔女が、疲れたように微笑んだ。
 その笑顔に、微かな、だが確かな、老いが滲み出ている。それを、エルファリアは見て取った。
 この魔女は、正常に年老いてゆく肉体を、取り戻したのだ。
「咎人の呪いが……解けたようですね。貴女が、人の心を取り戻したために」
「そんなつもりはないわ。言ったでしょう? 私は、貴女たちに負けただけ」
 魔女の目が、ちらりとレピアの方を向く。
 生身に戻ったレピアが、目を覚ましたところだった。
「ん……あれ……エルファリア……?」
「おはよう、レピア」
 眠そうに上体を起こそうとするレピアを、エルファリアはそっと抱き締めた。
「長い夢を……見ていたわね」
「夢……? あたし……」
 何も覚えていない様子のレピアを、膝の上で抱き締めたまま、エルファリアは魔女の方を見た。
「ありがとう……」
 そう言おうとしたが、魔女はすでに姿を消していた。