<東京怪談ノベル(シングル)>
解放の呪い
ザアザアと音がする。
雨が降っていた。森の中で密集した葉の間から零れ落ちていく――雨粒。
(ん……眠っていたみたいね……)
辺りはひっそりと静まり返っている。深夜の森は暗く、レピア・浮桜の意識を鈍らせた。
(あたし、どうしてこんな所に――)
倒れていた自らの身体を起こし、立とうとした。
だが膝から崩れ落ちた。肉付きの良い太ももは、レピアの身体を支える気がないとばかりに倒れ込んだ。
……気付いたら、四つ這いになっていた。
(何で? あたしの足、立ち上がってよ……!)
心の声と裏腹に、胸の奥底で充足感が広がった。
濡れた土にまみれた足は、嬉しがっているように、フルフルと震えた。これでいい。これが普通。そんな声すら聞こえた気がした。
(そんな筈ない!)
レピアは叫んでいた。言葉は出なかった。獣のような雄叫びが木々を揺らした。
無意識に、ムッチリと丸い尻を突き出していた。
犬のようなポーズ。
レピアは再び、足を震わせた。豊満な胸と尻肉が小刻みに揺れた。それを気にする者は何処にもいなかった。
数時間前、レピアは黒山羊亭で斑咲と酒を酌み交わしていた。斑咲とは呑み友達だったが、ギブ&テイクの関係でもある。レピアが酒場での噂話を提供する代わりに、斑咲は咎人の呪いを解く方法を調べていてくれた。
その日は満月で、酒が進んだ。美酒こそ本当の水であると、二人で笑いながら。
「まだ噂の域を出ないけど、こんな話がある」
斑咲は奇妙な話をした。
――聖都エルザードの郊外にある館に、一人の魔女が住んでいる。彼女は館から出ると肉体に激痛が走る呪いを掛けられていた。
しかし数時間であれば痛みを緩和出来るようになった。
魔女は転送魔法でエルザードに来ては、美しい少女達を攫っているという。少女達を醜い野犬にするのだ。番犬やペットとして愛玩するために――。
激昂したレピアは、斑咲の制止を振り切って館へ向かった。
火照った身体に夜風が当たる。少女への無慈悲な行いに対する憤りと混じり合って、レピアはひどく高揚していた。
館の前には森が広がっていた。
レピアは臆することなく入っていく。
……ザワ……
ザワ…ザワ……
風で揺れる葉が、いくつもいくつも重なり合い、悲鳴を上げていた。
(何?! この臭い……)
風上から流れてくる悪臭に、鼻を覆った。
「ウオオオオオオオオオオオオ!」
切り裂くような唸り声。
土を蹴り、レピアは宙を舞った。くるくると回転し、着地する。
「貴方達は……」
レピアは目を背けずにはいられなかった。
十代の少女もいれば、二十代の女性もいる。元々は美しかったのだろう、だがその白い肌は土にまみれ、足の裏には小さな蟲の死骸が張り付き、長い髪は泥で汚れていた。辺りを悪臭が漂っていた。人でありながら、人でなかった。その体臭は獣そのものだった。
「素敵、素敵。すごぉーくいいわぁ……」
中に一人、目を輝かせている女性がいた。太ももまで伸びた髪を束ね、ぽってりと紅い唇をしていた。半裸の姿をしているが、塵一つ汚れのない身体……例の魔女だった。
「ぅぐっ……!」
次の瞬間には、レピアは捕えられていた。野犬にされた少女達が二人、レピアにのしかかっていた。押し倒されていたのだ。
抵抗したが、腕にアザが出来、口の中に土が入っただけだった。土には小動物か何かの死臭が染みついていて、レピアは嘔気に襲われた。
「あ、だめだめ吐いたら。まだ汚れるには早いから……綺麗にしてあげるわね」
魔女の細い指がレピアの唇を割って入ってきた。レピアは舌を押され、念入りに土を吐き出され……それでもレピアは抵抗を止めなかった。吐くのを堪えたために涙ぐんだ目で、しかし、力強く相手を睨んでいた。
「そんな目されたらゾクゾクするわね。私のモノにしちゃう……」
「誰があんたなんかに……! 少女達も解放しなさい……!」
「あらぁ、これこそ解放よ。こういう生活が生き物の本能で、幸せなの。貴方は綺麗で凛としていて、好きよ。だから貴方も解放してあげる。ね?」
レピアの両頬は、魔女の掌に覆われた。その掌が、印を結び、肌を撫でていく。
「こんな小奇麗な服、貴方には必要ないわ……ま、どうせすぐに汚れてしまうわね」
胸元の布を、指で悪戯に弾かれた。
そこからの、記憶がない。
否、以前の記憶すら、どうだったか。
はらはらと、散っていく花びらのように、落ちて消えていってしまう。
少しずつ、落ちて、落ちて。
堕ちて――……。
(そんな筈ない)
時折戻る人間の意識が、叫ぶ。
(あたしは人間よ。人間なのよ!)
レピアは、口を開けていた。口から覗く舌から、一筋の涎が流れていた。
泥にまみれた白い肌。揺れる胸の谷間に、汚れた髪が入り込む。四つ這いで、歩いていた。
目の前には、泥水があった。レピアは泥に顔をうずめると、淀んだ水を啜った。
(あたしは、あたしは――)
ハアハアと息を吐いた。生臭い……。それが自分の息であることは、おぼろげに、理解していた。
おぞましい、地獄のような日々――…………。
半年後――行方不明になったレピアを探しに来た斑咲は、見た。
破れた踊り子装束を纏い、悪臭を放っているレピアを。
四つ這いになって歩きまわり、木の傍で粗相をしている彼女は、もう斑咲の知っているレピアではなかった。
「レピア……?!」
斑咲の言葉に、レピアは唸り声で応じた。尻を強く突き上げ、地響きのような低い声で唸り狂った。髪を振り乱し、胸を大きく揺らしていた。
斑咲は距離を保ってレピアを眺めていたが、やがて俯き、静かに去った。
咎人の呪いから解放されたがっていたレピア。
彼女は確かに、咎人の呪いからは解放されていたのである。
終。
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