<東京怪談ノベル(シングル)>


深い森の魔女―前編

笑いあう人々の派手な喧噪。
はじけ飛ぶエールの泡、ぶつけ合うワインのグラス音。飛び交う注文の声に機敏に立ち回る給仕たち。
夜の黒山羊亭はいつもの活気に満ち溢れていた。
そんな店のテーブルで、レピアと斑咲は軽くグラスを傾けながら、取りとめのない話題に花を咲かせていた。
普段、騎士団の諜報役を務めている斑咲は忙しく、飲みに行く暇などない。
だが、こうして暇を見つけてはレピアを誘って、黒山羊亭へとくり出し、手に入れた―彼女に役立つと思われる、貴重な情報を聞かせてくれる。
今夜もそうした情報を手に入れたので、わざわざ誘いをかけてくれたことに、レピアは感謝していた。

「面白い話をありがとう、さすがは斑咲ね」
「それはどうも」

礼を言うレピアに対し、いつもと変わらぬ淡々とした口調で応じた斑咲だったが、ふと思い出したように傾けかけたグラスをテーブルに置いた。

「エルザード郊外の森に、呪いに長けた魔女が住んでるって話を聞いたことはある?」

不意の質問にレピアが首を横に振ると、斑咲はグイとグラスに入った琥珀色のウイスキーを一口飲み、思い出すようにゆっくりと話し出した。
はっきり言うと、あまり気持ちのいい話ではないし、話したくはない。だが、この不運な友人にとって有益になるのでは、と思い直し、話すことにしたのだ。

「聖王都エルザードの郊外にある深い森に抱かれるように守られた館に、一人の魔女が住み着いた。彼女は強い魔力を持った魔女で、記憶を奪って人を思うがままに操り、呪いをかける邪悪な魔女だそうだ」
「呪いを操る魔女ね……それで、実際にはどんな呪いを?もしかしたら、私の呪いを解くことも」

呪いをかけられた身であるレピアは若干興奮したように、思わず身を乗り出してくるのを、斑咲は片手で制すると、大きくため息を吐き出しながら、カランとグラスを回す。

「邪悪と言ったろう?その魔女」
「というと?」
「とんでもない奴だ。館から離れると、激痛に身体を蝕まれる呪いをかけられていたお蔭で森から出て来なかったらしいが、ここ数年、その呪いが弱まったらしくてね」
「あら、うらやましい」

ポンと手を合わせて笑うレピアが本気で言っていないことに気づきながらも、茶化すな、と斑咲は叱って、言葉を続けた。
本題はここからだ。それがなければ、騎士団の中で問題視され始めているはずがなかった。

「転送魔法でエルザードに現れては、気に入った美少女や美女を攫っているそうだ。被害者がもう十数人に上っている……嘆く親たちの声に応えて、騎士団では討伐隊も考えているみたいだね」

分隊長級の間で、そういう話も上がってはいるが、騎士団上層部は動く気配はない。
下手に魔女と関わって、甚大な被害をもたらすような結果を避けたがっている、というところだろう。
だが、被害がもっと広がれば、いずれは大部隊で動くことになるだろう、と斑咲は考えていた。

「実際に魔女とやり合った騎士たちもいて、話を聞いたが、相当な魔力を持った魔女でかなり危険な人物だったそうだ。だから下手に」

踏み込むな、と、隣で飲んでいるレピアに警告しようとした斑咲だったが、すぐに無駄であったことを悟り、がっくりと肩を落とした。

「許せませんわっ、何の罪もない美しき少女たちを拉致するなんて!!」
「確かにね。だけど、攫われた少女たちがどんな目に遭っているか、全く……」

分からない、と言おうとした時には、隣にいたはずのレピアの姿はなく、斑咲は慌てて周囲を見回す。
鍛えられた忍者たる自分に気配を感じさせずにいなくなるとは、さすが、と思うも、そうではないと1人ツッコんで、肩を怒らせてドアを押し開けていくレピアの姿を見つけて呼び止めようとするが叶わなかった。
周囲の喧騒に斑咲の声は完全にかき消され、レピアには届かなかった。

「やれやれ、無茶はしなきゃいいが」

一抹の不安を覚えながら、斑咲はレピアの背を見送るしかなった。

闇を抱き、木々が鬱蒼と生い茂る深い森は立ち入ろうとする者を踏みとどまらせ、自然と追い返していた。
まるで、その先に住まう者の恐ろしさを警告するかのように。
その禁忌の森にレピアは迷うことなく踏み込んでいく。
ざわざわと木々が枝を揺らし、侵入者であるレピアに危険を知らせ、追い返そうと試みる。
だが、斑咲から聞いた少女たちの悲劇と魔女に対する激情が遮ってしまう。
危機はすぐ近くに迫っていると必死で伝えようとする森の叫びを。

「許せない。何の罪もない少女たちを攫うなんて、絶対に許さない!」

勇ましい、というよりも、怒りまかせの言葉が口をついて出るレピア。
木々の木立の向こうに瀟洒な館の影が見えた瞬間、低いうめき声―否、鳴き声がいくつも聞こえ、レピアは足を止め、辺りを見渡した。
激情に任せてここまで踏み込んできたはいいが、相手は邪悪な魔女。あまりにうかつ過ぎた。
気づけば、周囲を完全に取り囲まれていたことにようやくレピアは思い知った。

「失敗した。逃げ道がない」
「あら、自分から飛び込んでくるとはいい度胸ね。でも、自らの愚かさを悔いるのね……それができたらの話だけど」

自然と唇を噛みしめたレピアの耳に嘲り、心底楽しんでいる女の声が響いた瞬間、周囲の茂みから何かが無数に飛び出した。
その姿を見た瞬間、レピアは声を失い、その場に縫いとめられる。
現れたのは、人の姿でありながら、獣のように四つん這いで歩く美しい少女たち。
だが、その目には正気の光を失い、狂気の色をはらんで、レピアを睨みつけていた。

「この子たちは……攫われた」
「そうよ、私のかわいい番犬ちゃんたち。さぁ、招かざる客人を成敗しておやり」

にたりと笑ったような女の声に獣と化した少女たちは一斉に唸りを上げてレピアに襲い掛かった。
咄嗟に飛びかかってきた一人を振り払い、横から襲ってきた別の相手にぶつける。
一瞬、彼女たちがひるみ、その隙にレピアは身を翻して、その場から逃げ出そうと試みた。
けれども、その行く手を背後にいた少女たちがふさぎ、一斉に飛びかかる。
理性を失い、完全なる野生の獣と化した少女たちに危害を加えるわけにもいかず、レピアは必死に振り払い、逃げ道を探そうとするが叶わなかった。

「ふーん、どこの酔狂な冒険者かと思ったら……掘り出し物の美人じゃない」
「何者よっ」

複数の少女たちに押さえつけられ、身動きのできないレピアを面白がるように声をかけてきたのは、漆黒のローブに身を包んだ妖艶な女―この森の住まう邪悪な魔女。
品定めをするように、レピアの顔を片手でつかむと、しっかりと容姿を確かめ―やがて満足したかのように笑った。

「この番犬たちを救いに来たお人よし、その思い上がりに敬意を表して精神を解放してやろう」
「きゃああああああああ」

にたりと魔女が微笑んだ瞬間、その手から青白い電撃がほとばしり、レピアの身を焼き尽くさんばかりに火花を散らす。
凄まじい激痛のあまり、悲鳴を上げ、苦しむレピアを魔女は無慈悲にも、さらなる電撃を浴びせる。
声すらあげられず、全身をけいれんさせるレピアの視界は次第に歪み―やがて、ぶつりと糸が切れるように真っ暗になった。
くたりと力なく倒れ伏したのを合図に、野生化した少女たちは一斉にレピアから離れ、魔女を守るように取り囲む。
やがて、ぶるりと身を震わせたレピアが目を開け、ぐるるるっと低いうなり声を上げて、四つん這いで魔女の前に頭を下げた。

「さぁ、この森で本能のまま暮らすがいい。それがお前の正しい姿なのだから」

レピアの姿に満足した魔女は低く、楽しげに笑い声を立てながら、森の奥へと姿を消す。
あとに響いたのは、人の姿をした獣たちの遠吠えだけだった。

風のように高く伸びた木々の枝を駆け抜ける斑咲。
かつては旅人や隊商の行きかったその森は今や、知らぬ者はいない魔性の森と呼ばれ、エルザードだけでなく、誰一人として踏み込まない危険地帯と化していた。
その原因は森の奥にあると言われる館に住む一人の邪悪な魔女。
強大な魔力を操り、館に踏み入ろうとする者を獣たちで駆逐していると言われていた。
そんな噂のある森に任務でもなければ踏み込むことはない、と斑咲も思っていたが、事態が事態であったため、森の中を駆けていた。。
半年ほど前、王女エルファリアの所有物、と公言している踊り子の友人・レピアがこの森に踏み込んで以来、行方知れずとなったのだ。
最初のうちはいつものことですぐ戻ってくるだろうと踏んでいたが、さすがに半年もすぎると、斑咲も心配となり、意を決して森に踏み込んだ。
踊り子といえども、かなりの実力者であるレピアがそう簡単にやられるわけがないと思いながらも、魔女が放っているという魔物にやられたのでは、という不安が脳裏をよぎる。
それを即座に否定し、地上を駆け回る獣の影を見つけ、立ち止まった斑咲は眼下に見つけた光景に我が目を疑った。
美麗な踊り子の服は見る影もなく破れ、泥と汚物で薄汚れた身体で四足で駆け回るだけでなく、時折、獣のように唸り声を上げる友人・レピアの姿。

「魔女の……呪いか」

呻くようにつぶやくと斑咲は思わず天を仰ぎ、ギリッと唇をかむ。
天空には眩く地上を照らす太陽の姿。
皮肉な話だ。魔女の呪いで、人であることを失ったがために、レピアを苦しめていた咎『人』の呪いから解放されたとは。
魔女の子飼いとなって駆け回るレピアをどうすることもできず、斑咲は呆然とその姿を見送るしかできなかった。