<東京怪談ノベル(シングル)>
魔の大陸へ
「うおおおおおおッッ!」
大蛇の如く巻き付いた触手を、ガイは無理矢理に、己の身体から引き剥がした。
無数の吸盤が、全身あちこちに食いついている。構わずガイは、引き剥がした。
鮮血がしぶき、真紅の霧となった。
ガイの分厚い胸板に、引き締まった脇腹に、大木のような太股に、吸盤の跡が傷口となって残り、血を噴出させる。
痛みを感じている暇すらなかった。
無数の吸盤を備えた、何本もの巨大な触手が、貨物船に絡み付いている。
重荷を運ぶために造られた頑強な船体が、ミシミシと危険な音を発した。
このままでは、船が潰される。
激しく揺れる甲板上で、船員たちが右往左往していた。
中には勇敢な者もいて、剣を抜き、巨大な触手に切り付けている。が、柔らかく強靭な肉に、刃を弾き帰されるだけだった。
やはり、海賊を相手にするようなわけにはいかない。
ガイは海面を睨んだ。
光が見えた。何かが水中で、淡く陰鬱な輝きを発している。
眼光だった。
触手の発生源である巨大な肉塊が、海上の獲物に向かって、飢えた眼差しを爛々と輝かせているのだ。
タコかイカか、とにかく巨大な頭足類。
その触手が、再びガイを襲う。
絡め取られる前に、ガイは跳躍していた。
褌1丁の力強い半裸身が、襲い来る触手を飛び越えつつ海に落下する。と言うより、甲板上から海面に向かって突進して行く。
船上から巨大な銛を発射したかのような、飛び蹴りであった。
それが、海面に突き刺さる。
ガイの右足が、大量の海水を蹴散らしながら、怪物の眼球を直撃した。
水中の敵への攻撃である。ガイの蹴りをもってしても、眼球を叩き潰すところまではいかない。
それでも、いくらか怯ませる事は出来たようだ。
何本もの触手が、痛そうに苦しげにうねりながら、貨物船からほどけてゆく。
その全てが今、ガイ・ファング1人に集中しつつある。
怒り狂う怪物の、恐らくは頭部であろう巨大な肉塊の上に今、ガイは立っている。足場としては最悪だ。
そこへ、触手たちが襲いかかる。
ぶよぶよと弾む不安定な足場の上で、ガイは巨体を翻した。
大木の幹のように筋肉の固まった両脚が、左右立て続けに暴風の如く弧を描く。白い、気力の光を帯びながらだ。白色に閃く、回し蹴りと後ろ回し蹴り。
「気功、斬鉄蹴!」
吸盤のある巨大な触手が何本か、滑らかに切断されて海中に落ち、水飛沫を跳ね上げて暴れる。毒々しい色の体液が、海の中に垂れ流される。
暴れる怪物の頭上から、ガイも水中に落下していた。
「旦那、こっちだ!」
貨物船の甲板上から、船員たちが縄を投げつけてくる。
それに掴まりながらガイは、凄惨な光景を目の当たりにしていた。
何匹もの鮫が、凶暴に群がって来たところである。垂れ流された怪物の体液が、彼らを呼び寄せたのだ。
頭足類と思われる怪物の巨体が、凄まじい勢いで食いちぎられてゆく。
船員たちが数人がかりで、ガイを甲板上に引っ張り上げてくれた。
引き上げられながらガイは、巨大な怪物が跡形もなくなってゆく様を、半ば呆然と見つめるしかなかった。
肉片を奪い合うかのように暴れ泳ぎ、荒れ狂う鮫たち。1つ間違えば、ガイが彼らの餌食となっていたところである。陸上では数多くの敵を倒してきたが、水中で鮫の群れと戦えるような技などない。
「これが、海か……」
胸板や脇腹、太股の傷に、海水がしみる。
痛みを、ようやく感じ始めながら、ガイは呻いた。
「……水の中でも、戦えるようにならねえとな」
霧が出て来た。
海上の霧。それ自体は別に、珍しいものではない。
問題は、その霧の中に浮かぶ、無数の船影である。
艦隊規模の、船の群れ。それが今、この貨物船を取り囲んでいるのだ。
「な、何だ。また海賊どもか?」
「尋常な数じゃねえぞ。こんなでかい海賊団が、この辺りにいるなんて」
「おい、何かおかしくないか」
ざわつく船員たちに、ガイは問いかけた。
「何が、おかしいんだい?」
「いや……あれだけ沢山の船が動いてるのに」
霧の向こう側から現れつつある艦隊に、船員の1人が指を向けた。
「波が、立たない……海面が、揺れてないんだよ」
「実体がねえ、って事か……」
幻影……あるいは亡霊。
実体のない船たちが、波を蹴立てる事もなく、あらゆる方向から近付いて来る。
軍船もある。海賊船も、商船もある。
それらの舳先や甲板上に、骸骨が立っていた。水死体が立っていた。
皆、眼光をギラギラと燃やしている。求める物は、生者の命か。血と肉か。
「俺たちを、仲間に入れてくれようってんだな……せっかくだが、お断りするぜ」
ガイは貨物船の舳先に立ち、幽霊船の艦隊を見据えた。
応えるように、数隻が近付いて来る。
その船上に立っているのは、海水で腐蝕した武具をまとった、死せる兵士たちだ。
「ちょうどいい、一点突破といこうか」
ガイは分厚い右掌を眼前で立て、目を閉じた。
そして念じる。幽霊船に、語りかける。
「そう慌てなさんな……俺もそのうち、お仲間に入れてもらうからよ」
貨物船を中心として、白い波紋が生じ、海原一面に広がった。
除霊の波動。
鎮魂の思いが、白い気の波紋となって幽霊船を包み込んだ。
近付いて来た数隻が、その波紋に飲み込まれて砕け散る。
粉々に飛び散った霊気の粒子が、霧と混ざり合い消えてゆく。
幽霊船団による包囲網。数隻が消滅し、その一角に穴が空いた。
「よし、今だ!」
船長が、号令を下した。
包囲網の穴に向かって、貨物船が直進して行く。
直進して行くうちに、霧は晴れていた。
幽霊船は1隻残らず、最初からいなかったかのように消え失せている。
「やれやれ……助かったぜガイの旦那、あんたのおかげでな」
船員たちが、声をかけてくる。
「あんた一体、何者なんだい。どっかの偉いお坊さんか? 幽霊どもを、あっさり片付けちまうなんて」
「ただの風来坊さ」
ガイはそれだけを答え、前方を見据えた。
海原の彼方で、水平線が太く膨らんでゆく。その膨らみが、凸凹に盛り上がってゆく。
「見えてきたぜ……南の大陸だ」
船長が言った。
「くどいようだが何度でも言っておく……危険な場所だぜ、ガイの旦那よ」
「だろうな。俺は、死んじまうかも知れねえ」
ガイは応え、牙を剥くように微笑んだ。
「そうなったらまあ、こういう奴がいたって……酒を飲みながらの馬鹿話の種にでも、してくれよ」
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