<東京怪談ノベル(シングル)>


そして視界は黒に染まる
 長く伸びた艶やかな黒髪が、風に揺れる。
 普段はどこか憂いを帯びている女の瞳が、今はまっすぐと前を見つめていた。その瞳は、落ち着いていながらも闘志の炎を宿している。
 愛用の細身の長剣を構えるジュリス・エアライスの視線の先には、一人の大柄な男が立っていた。
 レーヴェ・ヴォルラス。
 此処、聖都エルザードで最強の騎士と呼ばれている男。
 ジュリスが、今日試合をする事になった相手だ。
 二人はしばし、無言で対峙する。
 ぴりぴりとした緊張感を孕んだ空気が、肌を刺す。武器を構える手に、自然と力がこもった。
 二人の間に割って入るかのように、大きな風が一度吹く。
 ――それが、開幕の合図となった。
 風のようにジュリスは駆け、相手の懐へと素早く潜り込む。
 一閃。流れる水の如く美しき仕草で、彼女は長剣を薙ぐ。レーヴェの鎧が小気味の良い音を立てる。衝撃に、男が僅かに退いた。
 相手は筋骨隆々の大男だというのに、ジュリスは怯む事なくその流麗な剣技でレーヴェを追い詰めていく。
 普段の臆病者なジュリスの姿からは想像も出来ない程に、勇ましい横顔。凛とした女戦士の姿が、そこにはあった。
 彼女の剣撃は相手を圧倒する。その速さで、その強さで、そしてその美しさで。
 素早く相手へと斬りかかり、流れるように次の一手を加えていくその動作に迷いはない。思わず見惚れそうになる程、完璧な剣技。
 しかし、時が経つにつれ、レーヴェが反撃する回数が増えていった。
 ジュリスの動きが、読まれてきたのだ。
 ジュリスは、美しき女性だ。本来ならこのような女性に向かい剣を振るうなど、レーヴェの騎士道に反する事だろう。
 しかし、ジュリスは美しき女性でありながらも、立派な女剣士でもある。手加減をする事こそが、逆に無礼にあたるのだ。故にレーヴェが繰り出す一撃に、容赦はない。
 振り下ろされた大剣を、ジュリスは自身の剣で防ぐ。しかし、その一撃はひどく重く、彼女の体へと大きな負担を与える。
「くっ……!」
 このように重い攻撃を、何度も受けていては体がもたない。長期戦は不利だ。
 聡い彼女はそう察したものの、思うようには行かなかった。レーヴェの頑強さは相当なものであり、どれだけ剣を薙ごうが相手の体に致命傷を与える事が出来ないのだ。
 そして、焦りは隙を生む。
(しまった……!)
 ジュリスがそう思った時には、もう遅かった。
 レーヴェの太く逞しい腕が、彼女の女性らしく豊満な体を捕える。
「ぐぅ……! あっ……!」
 きりきりと、ジュリスの体が締めあげられる。
 震える手を相手の腕へと伸ばし、彼女は抵抗しようともがいた。
 しかし、がっしりとジュリスの体を掴むレーヴェの頑丈な腕はびくともしない。
 苦痛から逃げ出そうと、無意識の内にジュリスの長い足が宙を蹴る。
(く、苦しい……、息が……出来ない……っ)
 だんだんと、彼女の視界にもやがかかっていく。体から力が抜けていくのを感じる。紅玉のように美しい赤色の瞳が、瞼の下に隠されて行く。
 甲高い音を立てて、ジュリスの長剣が逃げるように地面へと落ちた。それを目で追う事すら叶わずに、彼女はただ苦悶の声をあげ続ける。
(いや……このままじゃ……わたし……)
 襲い掛かってくる、恐れという感情。苦痛への恐怖。……死への恐怖。
 息も絶え絶えになりながらも、彼女は力を振り絞り喉を震わせる。か細く、弱々しい声が女の桃色の唇からこぼれ落ちた。
「……っ、わたしの……負け…………です……」
 ジュリスの端正な眉が、苦痛と屈辱に歪む。
 それでも、これでようやく助かるのだという安堵に、自然と肩の力が抜けた。
 レーヴェがようやく、女の体を解放する。どさりと音をたてて、ジュリスの体はその場へと崩れ落ちた。
 薄れ行く意識の中、彼女が最後に見たのは毅然と佇む大柄な男。
 敗者を見下ろす、勝者の姿。
「嗚呼……わたし…………」
 言いかけたものの、最後まで言葉にする事は出来なかった。自分が何を言おうとしたのかすら、もはやよく分からない。
 敗北という二文字から目をそむけるかのように、ジュリスの意識はそのまま闇へと落ちていった。