<東京怪談ノベル(シングル)>
名無しの姫君
18歳の瑞々しい肌と曲線そして美貌を保ったまま、すでに500年を生きている。
魔法の研鑽と習得に本気で取り組むならば、100年や200年の寿命ではとても足りない。最低でも1000年は必要だ、と彼女は思っている。
賢者、と呼ばれてきた。
この500年もの間、例えば凶作に苦しむ村のために雨雲を召喚してやったり、放っておけば死に至る重病人を白魔法で快癒させたりと、人助けと呼べる行いを確かにしてはきた。
全て、魔法の実験である。
それによって大勢の人々が助かったのは、単なる結果に過ぎない。
助かった人々が、自分を女賢者などと呼んで崇め奉ってくれる。まあ悪い気分ではない。
だが、と彼女は思う。自分は女賢者などではない。
魔女だ。
「その証拠に……ふふっ、こんな事だってしちゃうのよ」
隣で安らかな寝息を立てている女性の髪を、彼女はそっと撫でた。サラリと指をくすぐる手触りが、心地良い。
枕を覆い隠す、金色の髪。
俗世間の、きらびやかなだけの黄金の品々とは全く違う清らかな輝きが、夜闇の中でも感じられる。
20代の半ば、であろうか。もはや少女と呼べる年齢ではないが、どこか幼げな愛らしさを失ってはいない娘であった。
その愛らしさを、彼女は堪能した。
今は、可愛らしい寝顔を浮かべている。
先程は、様々な表情を浮かべて見せてくれた。耳に心地良い、甘美な悲鳴を上げながら。綺麗な涙を、飛び散らせながら。
「メイドのファリア……貴女は、私のもの」
愛らしい寝顔をそっと撫でながら、女賢者は囁いた。
「だけど誰かが連れ戻しに来たら、帰してあげなくもないわ……その誰かが本当に、貴女の事を思っているのなら」
聖都エルザード、アルマ通りの一角で、エルファリアはその少女と出会った。
お忍びである。護衛もなく、1人でこんな所を歩いている。
父・聖獣王が知ったら激怒するであろう。
あの父に怒られるのは一向に構わない。が、侍女たちや衛兵団に心配をかけているのは心苦しい。
最も怒り、最も心配してくれるのは、レピアであろう。
幸いにと言うべきか今は昼間。レピア・浮桜は石像と化し、別荘に飾られているところだ。
彼女がいくら心配してくれようとも、王族として、民情の視察を怠るわけにはいかない。
エルファリアは、立ち止まった。
白山羊亭の屋外席で、1人の少女がふわりと立ち上がり、こちらを見ている。
年の頃は17、8歳。ほっそりと優美な肢体を、薄手の白い衣服に包んでいる。
そんな美少女が、エルファリアを見つめ、言った。
「……貴女に、決めたわよ」
「それは、ありがとうございます」
エルファリアは、とりえず会話に応じた。
「何かは存じ上げませんが私、合格させていただいたようですね……それで私、貴女に何を認めていただけたのでしょうか?」
「全部よ」
たおやかな右手を、エルファリアに向かって掲げながら、少女は言った。
「貴女……お名前は?」
お忍びである。無論、偽名は用意してある。
だが、エルファリアは答えていた。
「私は、エルファリア……」
正直に答えた、と言うよりも、真実を少女によって引きずり出されていた。
名前が、唇から引き出され、奪われてゆく。
「素敵な名前ね……でも、少し長いわ」
少女が微笑み、そして告げた。
「貴女はファリア……メイドの、ファリアよ」
レピアが石像として眠っている間に、エルファリアはいなくなっていた。
珍しい事ではない。誘拐されたり拉致されたりと、忙しい王女ではある。
だが今回は違う。
「エルファリア? それ、どこの娘よ。やあねえレピアは。またどっかのお店で、一夜限りの恋人なんか作っちゃったりしてるんでしょう」
黒山羊亭の女店主が、そんなふうに笑っていた。
王室と付き合いのある商人ですら、レピアの問いに首を傾げていたものだ。
「エルファリア? 聖獣王陛下の御身内に、そんな方はいませんよ。レピアさん、魔本か何かの読み過ぎではないですか?」
無論、堂々と謁見出来る身分ではない。だが恐らく聖獣王ですら、エルファリアの事を全く覚えていないだろうとレピアは確信した。
否。
誰もエルファリアという人名を、覚えていないのではなく最初から知らないのだ。
エルファリアは消えたのではない。最初から、いなかったのだ。
「……そんなバカな事あるかああああああッッ!」
夜の人混みの中で、レピアは吼えた。
通行人の視線など、どうでも良かった。
自分が石像として眠っている間にソーンは、エルファリア王女が最初からいなかった世界に造り変えられてしまっていた。
まるで、おかしな魔本の中にでも迷い込んでしまった気分である。
エルファリアと一緒に興じていた魔本遊びでは、とにかく一番の悪玉がいて、それを倒せば一件落着であった。
どこかにいる、とレピアは思った。
「一番悪い奴が、どっかにいる……!」
怒りのあまり、危うく見逃してしまうところであった。
見覚えのある美しい金髪が、視界の隅をかすめたのだ。
レピアはそちらを見た。
メイド姿のエルファリアと、目が合った。
レピアは叫び、駆け寄った。
「エルファリア! 一体どこ行ってたのさ!」
「エ……ル……ファリア……?」
メイド服を着せられた王女が、可愛らしく首を傾げている。
「私は、メイドのファリア……お人違いを、なさっているようですね」
「やめてよ、そういう冗談! 本当、心配したんだから……ッ!」
「どなたか大切な人を、捜しておられるのですね……」
エルファリアが、悲しそうな顔をした。
本気で、心の底から、レピアに同情してくれている。
「私の主が、貴女のお役に立てるかもしれません」
「お帰りなさいファリア……あら?」
美少女の姿をした、だが明らかに数百年の時を生きている何者かが、レピアに怪訝そうな顔を向けた。そして苦笑する。
「……いけない子ねえ。こんな野良犬を拾って来ちゃうなんて」
「お許し下さい、御主人様……」
エルファリアが、その少女に擦り寄って行く。まるで仔犬のように。
庵、あるいは祠であろうか。
エルザード郊外に、その少女は隠者の如く住んでいた。そしてエルファリアを飼っていたのだ。
「この方は、大切な人を捜しておられます……御主人様のお力添えを、どうか」
「駄ぁ目。私が力を使うのはファリア、貴女を守るためにだけよ?」
そんな事を言いながら少女が、エルファリアを抱き寄せた。
レピアがかつて、そうしていたように。
脳漿が沸騰するのを、レピアは止められなかった。頭の中から何もかもが吹っ飛んで消え失せ、殺意だけが残った。
身体が、ほとんど勝手に動いていた。
跳躍、そして蹴り。
踊り衣装に躍動感を閉じ込めた肢体が、空中で旋風の如く回転する。むっちりと力強い美脚が、空を裂き、唸りを立てて少女を襲う。
衝撃が、レピアの全身を打ち据えた。
少女の周囲に、目に見えぬ壁が出現している。
魔力の塊。
それが激しく膨張し、レピアを弾き飛ばしたのだ。
弾き飛ばされ、床に激突しつつ転がり、起き上がり、レピアは低く身構えた。まるで牝豹のように。
レピアは、血を吐いていた。折れた肋骨が、体内のどこかに突き刺さっている。
綺麗な唇が、血にまみれながら牙を剥く。
少女が言った。
「貴女……獣ね。過去に何度か、獣になった事があるでしょう?」
「過去にだけじゃない……あんたをブチ殺すためなら、いつだって! 獣にだって何だって、なってやるッ!」
「……いいわ。この子を、返してあげる」
少女が、溜め息をつきながら微笑んだ。
「メイドのファリアに、本当の名前を返してあげるわ」
馴れ馴れしい抱擁から解放されたエルファリアが、崩れるように倒れてゆく。
「この子が目を覚ました時にはもう、ソーンは戻っているから。エルファリア王女の存在する世界にね」
「……どういう、つもりよ」
意識のないエルファリアを抱き起こしながら、レピアは油断なく問いかけた。
少女は、微笑んでいる。
「貴女から身を守るためには私、貴女を殺さなきゃいけないわ。そういう事、好きじゃないのよ」
「やってみなよ……!」
「あら恐い。貴女、本当に獣ね……興味はあるけど、今はお帰り」
本当に楽しそうに、少女は微笑んでいる。
「エルファリアには、ちょっとしたお土産を持たせてあげたわ。貴女のお役にも立てる……本当に、ちょっとした力をね」
|
|