<東京怪談ノベル(シングル)>
異世界のオヤジ女子
何はともあれ手羽先。そんな日々であった。
会社で腹立たしい事があっても、あの店の手羽先と生ビールで、全てを忘れる事が出来た。
そんなサラリーマン生活が、これからも漫然と続いてゆくのだろう。そう思っていた矢先の、この事態である。
若い女性として、異世界に転生……と言うべきなのだろうか。
その際、日本人のしがない中年男であった私の肉体は跡形もなく消滅してしまったらしいので、もはや元の世界に戻るのは不可能であろう。
私は水操師セレスティアとして、このソーンという世界で生きてゆくしかない。
手羽先と生ビールの一時は、永遠に失われてしまった。
スパイシーな塩味と程よい脂っ気を、ビールで一気に流し込む。
あの至高の味わいに、このソーンという中世ヨーロッパのような世界で出会えるはずがない、と私は思っていた。
味覚も衛生概念も未発達な人々の舌に合わせたものを、食わされるのか。
エルファリア王女には申し訳ないが私は、落胆しつつも戦々恐々としていた。
目の前に出された鳥肉の揚げ物を恐る恐る一口、かじってみるまでは。
「美味い……」
少なくとも、見た目は若く上品な女性客である。美味しい、と言うべきなのかも知れないが、そんな体面はもはやどうでも良くなるほど極上の逸品である。
あの手羽先に最も近いと思われるものを注文してみた。
出て来たのは、香ばしく揚げた骨付き肉に少数の野菜を付け合わせた一皿である。
鳥肉だが、どうやら鶏ではないらしい。
何の肉であるのか、それもしかし私はどうでも良かった。
肉の歯触りも、スパイスと塩の加減も、絶妙である。脂分は、もう少しあっても良いかも知れない。
何にしても、あの手羽先に劣らぬ一品であった。ビールにも合う。
そう。驚くべき事に、このソーンという世界には生ビールが存在するのだ。
喉越しも申し分ない、本物の生である。
現代日本に劣らぬ醸造技術が、ソーンにはある。
私は付け合わせの野菜もろとも肉をかじり、軟骨をかじり、骨をしゃぶり、ビールを呷った。
ソーンの首都エルザードの、いわゆる歓楽街に建った1軒。黒山羊亭という店である。
店内を見回すと、明らかに人間ではない客たちが、人間の酔客らに違和感なく混ざり、楽しげに飲み食いをしていた。
でっぷりと肥った狼男が、漫画肉をガツガツと食らいながら酒を飲んでいる。
半魚人の紳士が、魚のムニエルらしきもので上品にワインを嗜んでいる。
メデューサかゴーゴンか、とにかく頭髪の代わりに蛇の群れを生やした女性客が、人間の男に口説かれている。
それら酒席に囲まれた舞台の上では、1人の踊り子が舞いを披露していた。人間の女性である。
見事な太股が、音曲に合わせて躍動し、胸の膨らみが荒々しく扇情的に揺れ続ける。私の目は、釘付けになっていた。
口と胃袋で肉とビールを、目では踊り子の胸や太股を楽しむ。
今や私は、セレスティアの姿のまま、完全な中年男に戻っていた。
「いい飲みっぷりだねえ、お姉さん」
店員が、声をかけてきた。
「上品な別嬪さんでも、飲みてぇ時はあらあな。遠慮する事ぁねえ、ガンガンいきなよ」
「それじゃジョッキもう1つと、あと何かエビチリっぽいもの……あ、すいません王女様。追加注文してもいいですか?」
「……どうぞ、遠慮なさらず」
向かいの席に座ったエルファリア王女が、呆気に取られている。
お忍びというやつであろう。純白のマントとフードで、その美貌と優美な姿を包み隠してはいるものの、匂い立つような高貴さを完全に隠す事など出来はしない。
「貴女がもともと男性であったというお話……今ならば、信じられます」
王女が言った。いささか呆れているようである。
「今の貴女は……私の父が、お酒を飲んだ時にそっくり」
「へえ、王様とねえ。いつか御一緒に飲んでみたいものです。やっぱり王様もアレですか、うちの社長と同じで、酔っ払ってハメ外してホステスさんとかに絡んだり……あ、こんな事言ったら不敬罪ですかぁ?」
「……聞かなかった事に、しておきましょう」
王女が、疲れたように苦笑する。
この人で大丈夫なのだろうか。と、その顔には書いてある。
彼女が言うほど、このソーンという世界が深刻な事態を迎えているとは、今のところ私には思えなかった。
人々は普通に働き、酒を飲む。働きもせず飲んでいる輩もいる。日本と同じだ。
それは確かに、どこかで人食いドラゴンが暴れていたり、魔王の封印が解けかかっていたりと、ファンタジー世界らしい危険はあるだろう。
だが少なくとも王都エルザードの歓楽街は、こうして平和そのものである。
衛生概念が未発達、などと思っていた自分を、私は恥じた。
地方の町村はどうか知らないが、ここエルザードは上下水道完備で、街中に汚物が溢れかえっていたという中世ヨーロッパとは似て非なる、似ても似つかぬ世界である事を、私は思い知らされてしまった。
マシュー・ペリー提督が、江戸の町の清潔さにカルチャーショックを受けたという話がある。本当だとしたら、今の私の心境は、まさしくそれであろうか。
「いやぁ、ここは素晴らしい世界ですねえ王女様。お酒は美味しい、食べ物も美味しい、町は綺麗で女の人も綺麗! あ、もちろん一番お綺麗なのは王女様ですよぉ。ほらほら飲んで飲んで!」
酔いどれサラリーマンに戻りつつある自分を、私は止められなかった。ネクタイがあれば頭に巻いているかも知れない。
エルファリア王女は、小さく溜め息をついている。
「別の世界の方にソーンを誉めていただいて、とても誇らしい思いは確かにあります……ですがセレスティア、私はまだ貴女に、ソーンの汚らわしい部分を見せてはいません。見れば貴女はきっと、このソーンという世界を嫌いになってしまいます」
「そんな事ありませんよぉ」
私は酔っ払ってはいるが、言葉は本心からのものだ。
「私が元いた世界はねえ、はっきり言って、ここよりずっと平和でした。けどその裏側では、やっぱり色々ありましたよ。社会が腐りきっている、なんてネットで騒いでるだけの奴もいましたが……私はあの世界、嫌いじゃありませんでしたね。もちろん、ここも素晴らしい場所ですけど。世界って、どこもそんなものじゃないですか? 少しくらい汚くて腐ってたって、嫌いにはなれない。そういう場所だと思いますよ、誰にとっても」
酒が入ると、よどみなく綺麗事が出て来る。私はそういう類の酔っ払いだ。飲むと語りに入る上司として、大いに鬱陶しがられていたものである。
「……貴女で本当に良かったわ、セレスティア」
エルファリア王女は、鬱陶しがる事もなく微笑んでくれた。
「元いた世界を憎んで、ソーンに落ちて来た……そんな世捨て人のような来訪者に水操師の力が与えられてしまったのだとしたら、これほど危険な事はありませんから」
世捨て人のような来訪者が現れ、危険分子となる事もあるのだろうか。
それを私が訊いてみようとした、その時。
「ごめんなさい……」
王女が、マントから左手を出した。
たおやかな人差し指で、指輪が発光している。
その淡い光の中に、小さな人間がいた。いくらか年配の、男性である。
どうやら立体映像らしい、その男と、王女は小声で会話をしていた。何らかの報告を、受けているようである。
その指輪は、携帯電話やスマートフォンのような通信手段なのだ。アプリに相当するものも、あるのだろうか。
優れた科学技術、ではなく魔法であろう。
このソーンという世界では、私が元々いた世界における科学技術と同じくらいに、魔法が発達している。
電気がない、原発もない。その代わりに魔力がある。
核兵器もない。その代わり、攻撃魔法でクリーンな大量殺戮が出来るのかも知れない。
王女の声は聞き取れないが、緊迫した口調は伝わって来る。何か政治的な問題が起こっている、のかも知れなかった。
私はどうやら、救世主のような役割を期待されているらしい。
その仕事の内容が、例えばエルファリア王女の政敵と戦う事だったり、彼女の政治的立場を守る、まあ選挙運動のようなものであったとしても、私は一向に構わなかった。
「こうして、接待を受けちゃいましたからね……」
通話中の王女に聞こえぬ小声で、私は呟いた。
「貴女のために、仕事をさせてもらいますよ。それがサラリーマンの仁義というものです」
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