<東京怪談ノベル(シングル)>
春の嵐
(1)
そわそわと落ち着かない様子で入ってきたのは、一目見て恋をしているとわかる赤茶の髪の少女だった。所狭しとさまざまな商品の並んだ店内をきょろきょろと見回しながら、足取りもどこか夢見心地だ。
「いらっしゃい」
エル・クロークはいつものように穏やかな声で客を迎えた。
「どんな香りをお求めかな?」
「あの……ある人の印象に強く残るような、そんな香りってありますか? あ、いい意味で印象に残りたい、んですけれど」
「なるほど。それなら……」
勝手知ったる店の中を歩き、いくつかの小瓶を摘み上げる。
「この中でどれが気に入ったか、印象を教えてくれるかな」
ほどなくして、少女は小瓶の一つを大事に胸に抱え、店を出て行った。
それから数日後。
おとなしそうな外見の、ボブカットの少女が訪れた。店に入ったは良いものの、入り口のすぐそばで立ち止まってしまう。
「いらっしゃい。何をお求めかな」
「あの、欲しい香りがあるんです」
「どんな香り?」
「小さな花のような……あ、水色の小瓶に入っていて、ふたは金色でベルみたいな形をしていて」
少女は熱心に特徴をあげる。それは、赤茶の髪の少女が選んだものと同じ香水だった。
「お買い上げありがとう」
流行っているのだろうか。少女を笑顔で見送りながら、内心でそんなことを考えた。
(2)
また、数日後。
赤茶の髪の少女がやってきた。表情を見ると、どうやら恋はうまくいっているらしい。
「今度、初めて二人で少し遠くまで出かけるの。だから、何か二人が楽しくなるような香りはないかしら」
「どこへ出かけるのか、参考までに教えてくれるかな」
「ええと、まず……」
そうして聞かされたのは、あまりにほほえましいデートコースだった。
エル・クロークはそこへときめきを加えるべく、時間がたつにつれて香りが変化する香水を調合することにした。デートであれば、ただ「楽しかった」で終わらせてはもったいない。また会いたい、この人のことをもっと知りたい、そう思わせなくては。
数日後。ボブカットの少女が現れた。元気がない様子だ。
「何か、悩みごとかな」
奥の部屋が脳裏をよぎる。が、
「いいえ、悩みは……。あの、欲しい香りがあるんです」
そうして彼女が指定したのは、初めてのデートにうってつけの例の香水であった。
(3)
そのような偶然が数度重なり、季節が一巡りしたある春のこと。
「こんにちは。とても久しぶりなのだけれど、覚えてくださっているかしら」
赤茶の髪の少女が来店した。
「えぇ、覚えているよ。でも、記憶の中の姿よりも、印象がずいぶん変わっているね」
「それは、いい意味で、かしら?」
「もちろん。とても大人びて見える」
その答えに、彼女は満足そうに微笑んだ。
「結婚式を挙げることに決まったの。それで、その場所にふさわしい香りがほしくなって」
この店から足が遠のいていたということは、交際が順調だったということなのだろう。
「では、あなたの幸せな門出に花を添える香りを選ばなくてはね」
エル・クロークは彼女にいくつか質問をしながら、彼女のための、彼女にしかまとうことのできない香りを調合していった。
次に彼女がこの店を訪れることはあるだろうか。
それから数日後、春の嵐に窓ガラスがカタカタと音を立てる花冷えの日であった。
「こんにちは……。あの香りがほしいのだけれど」
ボブカットの少女がやってきても、驚きはしなかった。
「もしもよければ、お茶を一杯どうかな。あいにくと、このような天気だしね」
「それは悪いわ。……でも……」
用事を済ませてさっさと帰るには、店内の暖かさはあまりに魅力的だった。
「じゃあ、一杯だけ……いただいても良いかしら」
彼女は恐る恐る椅子に座ると、出された紅茶に控えめに口を付けた。視線はずっと床に落としたままだ。
エル・クロークは、頃合いを見計らって切り出した。
「今日、あなたが欲しいという香りを当ててみようか」
はっとして顔を上げる。追い詰められたような表情が、ふ、とゆるんだ。
「店主さんにはばれていると思ったわ。私が欲しいのは、あの人の結婚式を彩った、素晴らしく幸せに満ちていて、悲しさのあまり消えてなくなりたくなるあの香りよ」
叶わない想い。彼に、彼女に、何も伝えられないまま、同じ香りをたどることしかできなかった、ひそやかな想い。手の届かない幸せ。
彼女の頬を涙が伝った。
「もしも時間が許すなら、奥の部屋を案内させてもらえないかな」
彼女は少し悩むように目を閉じ、やがてゆるりとうなずいた。
外のにぎやかさが嘘のようにしっとりと静かな部屋。キャンドルの明かりがゆらゆらと部屋全体を浮かび上がらせる。
ソファに体を預けた彼女に、エル・クロークは静かに語りかける。
「あなたの心を縛るものはなにもない。あなたの思うままに思えば良い。だから、僕の言葉に耳を傾けて」
立ち上るのは、消えたくなるほど幸福、と称されたあの香り。
「目を閉じて。――そう、ゆっくりと深呼吸をして――」
彼女が立ち止まる間にも、彼らは彼らの人生を歩んでいく。立ち止まることは悪ではない。
「私、あの人になりたかった……そして、あの人の隣にいたかった……。どうすれば、あの人みたいになれたのかしら……」
幼子のようにぐずりだし、やがて泣き疲れたのか眠りに落ちていった。
表情は、やがて穏やかな微笑みに変わる。
香りが薄くなっていった頃、彼女は目を開けた。
「――なんだか、とても都合のいい夢を見てしまったようだわ」
照れくさそうに肩をすくめてみせる。
「あなたの夢の世界なのだから、誰に遠慮する必要もないんだよ」
「そう……そうね……」
ソファから立ち上がり、足を踏み出しかけたが名残惜しそうに振り返った。
「あの……また来てもいいかしら。それとも、弱い人間だと怒る?」
「あなたの望むようにすればいいよ。一つ言えるのは、あなたにも、彼や彼女にも、同じように時間が流れているということだけ」
「……そうね」
彼女は、泣き出す一歩手前のような表情で微笑んだ。
End.
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