<東京怪談ノベル(シングル)>
香餌の下待ち惚け
小さな客人は、街並みを駆け細い裏路地を進んで行く。そしてまるで誘われるように、とある店へとその身を忍ばせた。
全体的にレトロな雰囲気の店内は、様々な『香り』にあふれている。
香水瓶や香炉やポプリに、紅茶の葉や茶葉入りの菓子。香りに関するものが、商品棚に丁寧に陳列していた。
アンティークなランプには仄かな明かりが灯され、周囲を淡い光で照らしている。
他に、客の姿はない。まるで世界から隔離されたかのように静かな店内。ただ、針が時を刻むような音だけがどこか遠くで響いていた。
「随分と珍しいお客さんだね。お探しものは何かな?」
表側の喫茶スペースのカウンターにいた一つの影が、客人へと声をかける。
夜のような色をした黒い衣装を身にまとった、青年のようにも女性のようにも見えるどこか神秘的な雰囲気を持つ人物だ。
名を、エル・クロークという。
客人は、「にゃあ」と一声鳴いてから、クロークへと近づいて行く。
クロークはこの客"人"と呼んでいいのかも分からぬ来訪者を、丁寧な態度で歓迎した。
「お勧めは、そうだな――……ほら、これはどうかな。きっとお気に召すと思うよ」
クロークは慣れた手つきで、棚からハーブの入ったポプリを取り出す。客人は喜んで、その葉へと体をこすりつけた。
ハーブティーにしても美味しいこのハーブは、人を楽しませるのはもちろんの事、猫にとっても好ましい香りなのだ。
――ここは、クロークの営む、香り物全般を扱う店だ。
路地裏にある小さな店だが、香りに関するものは何でも揃っており、好みの香りを求めやってくる客は少なくはない。
彼女がやってきたのは、小さな客人が去ってから数刻程経った頃だった。
扉の開く音に、そこから入り込んでくる外の香りに、クロークは顔を上げる。
「いらっしゃい。おや、あなたは……」
店内に足を踏み入れた憂い顔の婦人には見覚えがあり、クロークは赤い瞳を僅かに細めた。
◆
「すごい……」
愛しい少年の手を引き歩く少女は、クロークの店の中にある数々の品を見て目を輝かせた。
香水の瓶が並んだ商品棚の前で、彼女はうっとりとした様子で呟く。
「綺麗なものばかりで、見ているだけでも楽しい。香りも、もちろん素敵だわ」
ばしゃぐ彼女の姿を、彼は微笑ましそうに見つめていた。
「この店の噂を聞いて、ずっときてみたいと思っていたの。他でもない、あなたと」
けれど、なかなか彼と予定が合わずに少女は歯がゆい思いをしていたのだ。
(でも、こうして今日くる事が出来てよかった。素敵なデートになりそうだわ)
「ねぇ、どの香りが私に似合うかしら」
少女の問いかけに、少年は迷いながらも選んだのはチョコレートの香りだ。
甘いチョコレートの香りは、恋をする少女に確かに似合っていて、少女は顔をほころばせる。
素敵なお店で、彼と過ごす楽しい時間。まるで夢のようなひととき。だからこそ、過ぎるのもあっという間だ。
ひと通り店の中を見終わり、デートに終わりの時間が訪れる。
購入したクッキーや香水を抱えながら、少し寂しげに少女は視線を落とした。
けれど、すぐに顔を上げ彼女は笑みを浮かべる。
「またこようね。二人で一緒に」
寂しがる必要など、どこにもない。次にくる約束をし、指切りをすればいいだけの話なのだから。
「何年経っても、ずっとずっとあなたの事が私は好きよ」
まっすぐに彼の方を見て、そう言う彼女の瞳は真剣だ。
そんな彼女に、少年も真面目な顔をして、けれど少しだけ照れくさそうに頬を染め頷いた。
――そこで、彼女……婦人は夢から覚める。
「満足していただけたかな? ああ、焦って体を起こさなくとも大丈夫、落ち着いて。ゆっくりでいいよ」
彼女の傍らには、微笑みを浮かべるクロークの姿があった。
ここは、クロークの営む香り物全般を扱う店だ。けれどそれは、表向きの話。
裏では、特殊な香を焚いて客に一時的な夢や幻を見せ、願望を満たす仕事をしている。
婦人もその『裏』のほうに用がある、常連客の一人だった。
「他に、何か希望はあるかな? 僕に出来る事ならば、何なりと」
「いえ、今日も素敵な香りをありがとう。楽しかったわ」
婦人は丁寧に頭を下げると、店の出入口に向かって歩いて行く。
その表情は明るく、満足気だ。店内に足を踏み入れた時の憂い顔など、嘘のようであった。
先程の店での少女達のデートは、全て婦人が見た夢であり幻だ。
夢の中で婦人は、淡い恋をしていた少女の姿に戻り、愛しい彼に愛を囁く。
けれど、現実では彼女は彼とデートをした事などなかった。
本当は分かっていたのだ。彼には他に、想い人がいるという事を。
分かっていたけれど、彼女は夢を見てしまった。
それ故に、彼女はこの店で『夢』を見る。あの日から欠けたままの心を満たす。
幻の中で彼と待ち合わせ、あの日果たされなかった逢瀬を楽しむのだ。
婦人と入れ変わるように、店に一人の男性客が来店した。
年は、恐らく婦人と同じくらいであろう。その目元には初老の兆しが刻まれていたが、横顔には微かに彼女の夢に出てきた男の面影があった。
彼は、婦人が夢にまで見ていた愛しの彼だった。
けれど、彼女がその事に気付く事はない。
彼女には、もう見えていないのだ。現実の彼など。
彼女の胸を巣食っているのは、思い出の中の彼だけ。夢でしか出会えない、昔の彼だけなのだ。
「こんにちは。紅茶を探しにきたんですが、何かお勧めはありますか?」
朗らかな笑みを浮かべ、男がクロークへと尋ねる。
クロークは彼へと向き直ると、いつもの笑みのまま言葉を返す。
「いらっしゃい。今日のお勧めは……そうだね、これなんてどうかな」
クロークの差し出した香りの良い紅茶に、男は満足気に頷き礼を述べた。
時は刻まれ続ける。その流れには、決して逆らう事は出来ない。
誰が何を望もうと、過去に思いを馳せようと、時計の針は決して逆回りする事はない。
懐中時計は今日も止まる事なく、未来に向かい針を進める。穏やかな微笑みを、浮かべながら。
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