<東京怪談ノベル(シングル)>


『苦い香り』

 
 私の母は、
 借金で首が回らなくて、
 自己破産する知識も無くて、
 来る日も来る日も来る日も、
 悪質な借金取りに脅されて、
 そうして、鬱になって、働けなくなって、心も体も襤褸切れのようになって、自殺して死んじゃった。

 それを見ていた私は、借金なんて絶対にしたくなくて、
 だから、悪質な借金取りの男に脅されて乱暴されても、
 そいつに風俗店で働くことを強制されても、
 借金することに比べたら全然マシだから、
 私はそれを享受した。

【1】

 その人物がエル・クロークの店に客として訪れたのは夕刻だった。
 3月も末。街では春の香りがしだし、淡い薄紅の花が通りを歩く人の眼や心を和ませている。
 裏通りにあるその店には普段なら表通りの喧噪は届かないものだが、ゆっくりと雪を溶かし春にする温もりが奏でさせる喧噪は伝わるものらしい。
 店内に漂う上品な香りに控え目にアクセントを与えているのも店の片隅に生けられた桜の枝に咲く薄紅の花の香りだった。
 その人物はたれ目をたおやかに細めて、右の泣き黒子を覆っていた髪を弄いながら、顔を桜の花に近づけた。
「良い香りだね」
「つい先ほどまで表通りで咲いていた桜ですからね。ふんだんに日の光を浴びている分、悪戯っ子に枝を折られても、簡単には死なない。それは、あなたの顔に乗っているそれと一緒」
「俺の肩に?」
 その人物は自分の肩を見た。
 そこには小さな女の生首が乗っていて、歌を歌っている。
「うわぁ! なんだ、これ!」
「さあ、何でしょう?」
「何でしょうじゃねー。あんた、何とかしてくれよ」
「あんた、ではなくて、エル・クローク。クロークと呼んでください」
「エル! 何とかしてくれ! 気持ち悪い!」
 しかし、クロークはそれに反応しない。
「あー。だー。クローク。この生首、何とかしてくれ! 気持ち悪い! 怖い!」
 クロークは肩を竦めて、その人物の白い手を取って、喫茶スペースを兼ねたカウンターの奥にある部屋にその人物を連れて行った。
 店のレトロアンティーク調の表側は喫茶スペースも兼ねたカウンターがあり、それに様々な香りに関する物が陳列された棚などがあった上品で落ち着いた雰囲気の内装であったが、店の裏側は暗く閉めきられており、その重い闇の帳に内包された香りと、部屋の温度、ぼんやりと浮かぶランプの灯りが膝を笑わせるようなざわつき、まるで裸で冬の雪山に放り出されたような、剥き出しの魂に触れられて引っ掻かれる様な恐怖を感じさせた。
 アンティーク調の瓶が並ぶ棚は表側と同じ風景のはずなのに、部屋の真ん中にあるリクライニングチェアがその棚すらも禍々しい物にしている。(もしも、明るい陽光の下でこれを見れば、何の変哲もない物であることがわかるであろうが。)
 裏側に足を踏み入れたその人物は、その一歩目で戦慄して臆した。
 しかし、意外なほどにクロークの手の力は強く、その人物の細すぎる腕ではクロークの手を振りほどくのは難しかった。
「さあ、そこのリクライニングチェアにどうぞ」
「どうぞじゃない。そこに俺を座らせてどうするつもりだ?」
「その女の生首、外したいのでしょう?」
 それはそうだが、しかし、今はクロークの方が怖い。そうその人物の顔が言っている。
 クロークは肩を竦めた。
「本末転倒では?」
 これにその人物は意味ありげな表情をし、たれ目を細め、華奢な肩を竦めた。
 リクライニングチェアにその人物は腰を下ろした。
 ――そう、自分はこの店に、エル・クロークの目の前に現れた目的を忘れてはいけない。
 クロークは棚からいくつかの瓶を取り出し、その中身を使って手際よく調合をし、香を焚き始めた。
 その香りが部屋に徐々に香り始めると、その人物の肩の上で「あぁー。あぁー。あぁー」と歌うように声を出していたその女の顔がぽとりと肩から落ちた。

 そう、落ちた。

 足下に落ちたそれを見て、その人物は納得した。
 それは、椿の花に変わっていた。

「どうして、この花は?」
「さあ、考えるだけ時間の無駄ですよ。この花の気持ちはこの花にしかわからない。あなたの気持ちがあなただけの物のように」
「それでも俺は、この椿の花に何かしてやれなかったのかな?」
「あなたにできる事は何もありませんでしたよ。これはただ黙ってすれ違うだけの、そういう存在なのですから」
「容赦無い、な。クローク」
 しかし、クロークはこれに反応はしなかった。
 部屋に立ち込める香りが濃密になっていく。
 他の香りを消してしまいそうなぐらいになっていくその香りの中で、クロークはしかし、意外そうな表情はしなかった。
 クロークはその人物の細い身体に顔を近づけて、そっと手を動かす。それは調香師の特有の動作だった。
 その人物は動じることなくクロークを見据えている。
「良い香りだろう、俺は」
「ええ。どの香りも」
 果たしてクロークは唇の前で右手の人差し指一本を立てて見せた。
 それは、それ以上、何も言うな、という意味にも思えたし、逆に何かを言ってみろ、という挑発のようにも思えた。

【2】

 彼が不満そうな顔をしたのは、彼が今しがた口に運んだ紅茶の味が不味かったからではない。
 むしろそれは、喉元から胸に心地よくその温もりを広げていっている。
 舌に残るその上品な味も、カップに残る液体から香る匂いも、彼がこれまでの人生で飲んできたどの紅茶よりも絶品の物であることは間違いなかった。
 だから、それは彼が悪かった。
 エル・クロークという人物に片思いの切ない話をする方が悪い。
 彼は期待する相手を間違えている。
 クロークは色恋沙汰には興味などないのだから。
「つまらん」彼は不貞腐れて見せた。
「そうは言われましても興味の無い物は仕方がない。それでも、話は聞いていますので、どうぞ、あなたの気の済むまであなたの恋のお話をお聞かせください」
「おい、クローク。俺に独りごとを言えと? いいさ。言っちゃる」

 それは、彼の恋の話。

 彼は小さなキネマ館で働いていた。
 いつも朝から晩まで映画のチケットを切ったり、劇場の掃除をしたり、パンフレットを売ったり、映画を上映したりしている。
 そして、いつも映画館が終わってから独り、深夜の劇場で自分の好きな映画を自分のためだけに流すのが楽しみだった。
 観終わって、劇場の座席に横になって眠る。
 そういう毎日を過ごしていた。
 同じ日々。
 繰り返す時間。
 そんな日々が続くのだと思っていた……。 
 彼の働く劇場に毎日、女性の客が来るようになった。
 その彼女は毎回、来るたびにくるくるくると雰囲気が違っていた。
 衣装や髪型、メイク、そういう物が違っていたのだ。
 彼以外の従業員は彼女が同一人物だとは気がつかなかったが、彼は彼女が同一人物だと気が付いていた。
 それは彼が彼女に気が合ったから、ということではない。この時点では彼女は彼にとってはちょっと変わった女性の常連客、ただそれだけだった。
 それが変わったのは、たまたま臨時休業でいつもよりも早く劇場が閉められ、さあ、今夜はいつもよりも多く映画が観られるぞ、と彼が酒とつまみをコンビニで買って軽い足取りで劇場に戻ってくると、あの女性が喪服を着て立っていて、泣いているその顔を見た瞬間、あるいはその彼女に声をかけた時に彼の鼻腔をくすぐった香水が彼が昔好きだった女性と同じものであったと思った時かもしれない。
 もちろん、それは後から彼がこじつけた理由で、本当は人が人を好きになるのに理由なんて要らないのかもしれないが。
「あの、いつも来てもらっているのですが、今夜は臨時休業で」
「そうなのね。残念。予定では今夜だけ、あの古い映画がやる、ってあったから、それを観に来たのだけれど」
「あ、えっと、すみません。実は、その映画、明日の朝に次の劇場に回さないといけないので…」
「そっか」そう呟いた彼女は泣きそうだったし、そして、何よりも喪服を着た彼女がそのままこの世界から消えてしまいそうなぐらいに存在の気配が頼りなかったので、
 彼は、夜空のオリオン座を見上げて、ほんの一瞬だけ悩んで、決めた。
「OK。わかりました。いつも俺、劇場に泊まり込んで自分の好きな映画を流しているんです。何観ても良いってなってるんで、一緒にその映画を観ましょう」
 そうして、彼と彼女はふたりで一緒に映画を観た。
 狭い劇場で、とても古い映画が流される。
 それはアル中のせいで舌がうまく動かせなくて客に殴られて腐っていたブランデーが好きな娼婦が、たった一杯のブランデーを奢ってくれた男に一晩だけ抱かれて、そして、その次の日の夕刻に自分の所属する店に娼婦を辞めると告げて殺される話。
 彼女を抱いた男は彼女の死を知り、昨夜、彼女と一緒にブランデーを飲んだ店で、たまたま、ブランデー好きのバカな娼婦を殺したけれど、それで罪になる事は無いと嗤っていた男たちと出会い、銃で彼らを殺してしまう。
 そういう話。
 映画を観終わってから、彼女は彼に自分も娼婦なのだと告げた。
 娼婦になったばかりの頃の自分に、娼婦の仕事をする時は自分の嫌いな香水をつけて、娼婦である自分を創り出しそれを演じて、そうして仕事が終わったらシャワーを浴びて匂いを消して、自分の好きな香水をつければ良いと教えてくれた娼婦が、今夜、薬に溺れた男に、親の遺した借金を返して、小さな花屋をするために貯めていたお金を取られて殺されて、その葬式に行ってきたのだという話も聞かせてくれた。
 男は、ああ、だからいつもこの劇場に来る彼女と違う香水の香りがするのだと悟った。
 彼女の細い身体からは、いつもと違う香水の香りと、線香の匂いがした。
 それから、彼女はその香水の香りをさせながらキネマ館の営業が終わった時間に訪れるようになった。
 彼と彼女は深夜に映画を観、それから彼の部屋に行き、その彼女の甘やかな垂れ下がった眼を見つめながらキスをし、その後に彼女に求められるまま泣き黒子にも彼は唇をつけた。
 でも、それは相思相愛ではなかった。
 彼に抱かれる彼女のその華奢な肢体から香る匂いも彼女が演じている彼女の匂いでしかなかったのだから。

 彼女は本当の自分の香りを忘れてしまっている。

 彼女が忘れてしまった香り。
 クロークの店を訪ねてきた彼の依頼は、それを見つけるための手助けをクロークに乞うものであった。
 そして、クロークが彼に手渡したのは、彼の記憶を消してしまえる香りであった。

【3】

 エル・クロークは人間の色恋沙汰には関心を示さないし、自分から人間を助けようとも思わない。結果として人間を助けたこともあるだけだ。
 だから、クロークは一番最初にこの店を訪れたその人物に彼の記憶を消してしまえる香りを渡したのだ。
 例えばそこに感じるかもしれない憐憫などは、客の望む一番の香りを渡すことをスタイルとしている仕事第一の彼には無縁の感情だったから。
 それは目の錯覚だったのかもしれない。
 今、彼の目の前に居る人物を見るクロークの顔に浮かぶ表情は彼を知る者には意外な、物珍しいものであったから。
 クロークの掌の上には小さな瓶がある。
 それはこの部屋に入った瞬間にクロークが調合した薬だが、では、初めてその椿の花が化けた小さな女の生首を見たクロークが、しかし、それを祓う薬を簡単に調合できたのは何故だろうか? その椿の花の存在を示す形も、真も、理も、調べずに。
「何度でも僕はあなたにこれを渡しましょう。あなたに彼のことを忘れさせるこの香りを」
 ――簡単なことだ。
 それは、繰り返しているからだ。
 この、やり取りを……。
 その人物はいやいやをするように顔を左右に振った。
 長い髪が顔にかかるのも構わずにその人物、彼女は顔を左右に振り続ける。
 彼女の足元にはたくさんの椿の花が落ちている。最初は小さな女の生首であった椿の花が。
 それは、彼女が持つ彼の記憶だった。
「あなたは娼婦の仕事をする時に自分の嫌いな香りを身にまとう事で自分の中に娼婦の自分という名の他人、他人格を形作っていた。だから、あなたが娼婦の仕事をする度に、その自分の嫌いな香りを身にまとうたびにあなたの中に娼婦のあなた、あなたにとってはあなたの大嫌いなあなたが他人格として形作られていった」
 だから、彼女は多重人格となった。

【4】

 キライよ。キライ。大キライ。
 椿の花の香りなんて、私は大キライ。
 椿の花が、花弁を散らすことなく花のまま落ちるように、
 私も落ちて、堕ちて、死んでしまえばいいんだ。
 だから、私は、娼婦の仕事をする時は、椿の花の香水を身につけた。

 でも、自分の本来の香りを身にまとう事よりも、椿の花の香水を身につける事の方が多かったから、私の香りはそれに塗りつぶされて、私自身ですら椿の花の香りの奥にある自分の香りを嗅げることが難しくなっていった。

 でも、それでいいの。
 それでもいいの。
 いいの。

 これは緩やかな自殺だから。

 死にたい。
 死にたい。
 死にたい。

 でも、本当は、生きたい。
 
 自殺を嗤わないで……
 それは生きたくても生きられなかった人の、
 涙だから……。

 たくさんの私の嫌いな誰かさんが私の中で出来上がっていく。
 私は私の嫌いな椿の花の香水を身につける事で、私じゃない娼婦の誰かさんを私の中に作る。
 私の中にたくさんの誰かさんができあがっていく。

 椿の花と性の香りに満ち溢れた、私の大キライな、誰かさん。
 たくさんのその香りの中で私は私の香りを忘れた。

 だから、一番最初に私にそれを教えてくれたその人のお葬式にも私は、私じゃない誰かさんを作って、私の本当の私じゃない香りを身にまとって、その人のお葬式に行った。
 今にして思えばそれはとある映画好きのカップルを見て、将来、私もあんな風に誰か好きな人と一緒に映画を観に行くようになるのかな、って憧れたカップルの彼女がつけていた可愛らしい香りだったかもしれない。
 
 だからだと思う。
 私が、間違いを犯したのは。

 その私はとある小さなキネマ館でとある男性と出逢い、
 その彼との御飯事を始めてしまった。
 その御飯事がとても楽しかったんだ。
 倖せだったんだ。
 わかる?
 死にたかった私が、
 ゆっくりと自殺をしていた私が、
 恋をして、
 愛を知って、
 彼との御飯事に興じているの。
 こんな、惨たらしくて、残酷で、悲しい意地悪って無いよね、神様。

 ひどいよ、神様。
 ありがとう、神様。

 そうして、私は彼からプロポーズされて、
 彼から逃げ出した。

 ただ、それはとても悲しいから、せめてもの自分への慰めのために、私は私の中に誰かさんじゃなくて、彼を創り出した。
 彼の香りは、きっともう二度と忘れられないから、それはとても簡単なことだった。
 けれども、私の創り出したその彼は、あろうことか私の本当の香りを見つけるために実しやかに囁かれるあの、エル・クロークを訪ねてしまったのだ……。

【5】

「多重人格。あなたは、そう思っているのかもしれませんが、それは違う。あなたはあなた、ひとりだけ。でも、いいですよ。付き合いましょう。僕はあなたが望む限り何度でもこの彼を忘れられる香水を作りましょう。あなたの足元を埋めるその椿の花が例えばこの店の床すら埋め尽くしても。それが僕のスタイルだ」
 クロークは彼女の耳元にそっと囁いた。
 彼女の眼が硬く瞑られる。
 泣き黒子が涙に濡れる。
 彼女は、認める訳にはいかなかった。
 自分が多重人格ではないなんて。
 見ず知らずの男たちに身体をなぶられている自分は、自分ではないのだ、そう思っていたからこそ、彼女は彼女でいられたのだから。
 見たくもないそれに背けていた視線をほんの少しだけ向けた瞬間、彼女の鼻腔をくすぐるかすかな香りがした。

【6】

 彼女の足元を埋める椿の花の匂いが変わる。
 腐り果てた、花の匂いに。
 それと同時に彼女は鞄からバタフライナイフを取り出して、クロークに襲い掛かる。
 凶刃は冷たい光を放ってクロークを穿たんと突き出されるも、クロークはそれを紙一重で避けた。そうする事で凶刃の連続攻撃を防ぐためだ。
 彼女は何もない空間に泳いだ体を立て直さんと右足に力を込めて体重移動をする。
 その右足をクロークは払った。
 彼女は床にでんぶを打ち付けるが、すぐに立ち上がり、凶刃を振り上げて、袈裟懸けにクロークを切り裂かんと一気に腕を振り下ろした。
 そのバタフライナイフを握る手の手首をクロークは掴み、ひらりと身体を回転させながら彼女の腕の下をくぐる。そうすれば彼女の身体は宙に舞い、背中から落ちた彼女は呼吸ができずに涙を流した。
 これもまた、何度も繰り返している事だ。
 いったいいくつこれを繰り返しただろう?
 クロークは彼女が信じ込んでいる無数の人格の分だけこれを繰り返している。
 そうして、彼女は、また繰り返すのだ。
 クロークの店を訪ねてくる男を演じる。
 クロークは椿の花を祓う。
 クロークは彼女に襲われる。
 ループしている。
 もう何回も。
 それは数日かもしれないし。
 数年、何十年も繰り返しているのかもしれない。
 否、ひょっとしたらこれが初回かもしれない。
 これは心の問題であるから、それに触れるクロークもまた、この彼女の心の迷宮に囚われている。
 もう抜け出せない。死ぬまで。死すらも無いのかもしれない。
 延々と、くるくるくると歯車が回り、動き続ける舞台装置のように、
 狂る狂る狂ると、クロークと彼女の舞台の歯車も回る。
 舞台は延々と繰り返される。
 それでもくるくるくると、
 狂る狂る狂ると、
 回る歯車の歯は摩耗して壊れる様に、
 いつか、彼女か、ともすればクロークの心すら壊れてしまうだろう。
 それまで、
 くるくるくると、
 狂る狂る狂ると、
 歯車は回り、クロークと彼女は、それを繰り返す。

 椿の花が落ち続ける。

 椿の花。
 女の生首。
 でもそれは、よく見れば彼女によく似た顔。


 彼女がまた背中から落ちた。
 零れた涙が椿の花を濡らす。


「どうしたら、いいの?」
 彼女は道に迷った子どものように初めて泣いた。
「忘れればいい。彼を。そうすればあなたは倖せになれる。この香りに心を任せれば、あなたは彼を忘れられる」
 クロークの手が彼女の頭を撫でた。
 それは例えば夕暮れ時の町で、親とはぐれた幼い子どもに、ようやく自分を見つけてくれた親がそうしてくれるように。
「私、いいのかなぁ? この香りが私の心を誘うままに彼を、私を娼婦にした彼を忘れて。そうして、娼婦であった自分を忘れてしまっても……。だって、」
「ええ、いいんですよ。現に椿の花たちはあなたにそうしろとずっと歌っているのだから」
 クロークが囁くと、彼女はそれに初めて気づいたように目を見開いた。
 そう。椿の花たちは、ずっと彼女の肩で優しい子守歌を歌っていた。嫌なことは全て忘れて、悪い夢であったと流して、そうして目覚めて、また生きなさいと。


 可愛い、可愛い、私の娘。
 ごめんね。


 彼女の嫌いな香り。
 椿の花の香り。
 お母さんの香り。



「母さん、ごめんね。ありがとう……」


 クロークの部屋に立ち込めていた椿の香りが消えた。



【7】


「ねえ、本当によかったの? 結婚式あげなくて?」
「いいの、別に。ウェディングドレスを着られて、写真を撮れただけでも私は倖せだもん。ありがとう。あと、お母さんのお墓にも一緒に言ってくれて、お母さんに私を倖せにするって言ってくれてありがとう」
 彼女は彼に倖せそうに微笑んだ。
 ふわりと香るのは、パンの香り。
 幼い頃、彼女の両親がまだ健在でパン屋を営んでいた頃、毎日、彼女の家に香っていた彼女の倖せの香り。
 彼女の香り。
 注文した紅茶とケーキを待ちつつあくびをした彼女の、泣き黒子を濡らした涙を優しくぬぐって彼が笑う。
「パン屋さんの仕事、見つかって良かったね」
「うん。朝早くて大変だけど、それでも嬉しいの。私、結婚してもパン屋の仕事、がんばるよ。だって、私はこれからも倖せになるんだから」
 彼女は頷き、それから目を細める。
 店の棚に並ぶ瓶の中の一つ、その中に入っている椿の花に。
 それを見た瞬間にどうしてだか涙が零れた。
 けれども、それもほんの一瞬だった。
 彼女の鼻腔をくすぐるのは、倖せの、彼女の香りだったから。
 紅茶とケーキが置かれる。
 彼女は傍らに立ったクロークに微笑んだ。
「ありがとう。クロークさん」



 −end―



 ++ ライターより ++

 こんにちは。
 いつもお世話になっております。
 このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
 ご発注ありがとうございます。


 自分の嫌いな香りを身につけて……
 という行為は実際に遊女の間で行われていた事と聞いた事があります。
 今回、お話を頂いた時、ドンパチとした危険にクローク様が巻き込まれるのではなく、密室の中で心理戦にも似た命と精神を削る危険の方が強くイメージされました。
 椿の花は、その最後、落ちても、散ったかのように思えない最後の最後までそこにある花が、華が、女性と母親、そのふたりの想いを象徴してくれるように思えたので、選びました。


 重ね重ねになりますが、このたびは本当にご発注ありがとうございます。


 草摩一護