<東京怪談ノベル(シングル)>


歪んだ望みの後先に

 したり、と地面を踏みしめる湿った音が聞こえる。
 ピクリと小さく肩を揺らして、おもむろにそちらへと顔を向けたエル・クロークの視線は薄暗い部屋の先にある一枚の扉を捉えていた。
 したり、と再び湿った音が聞こえ、それは徐々にこちらへと近づいてくる。
 したり、したり……。
 部屋の窓の外は酷い豪雨。こんな雨の中、路地裏にあるこの店に一体誰が立ち寄ると言うのだろう。
 激しい雨音の中、なぜかはっきりと聞こえるその重たく湿った足取りは、扉の前で立ち止まった。そしてガチャリとドアノブが回され、小さな軋みを上げながらゆっくりと扉が押し開かれた。
 エル・クロークは豪雨の中で現れたその人物を目を細めて見つめ返す。
 現れたのは全身ずぶ濡れになった大柄な男性だった。
 長めの髪は顔の表情全てを多い尽くすように顔に貼り付き、ボタボタと床の上に水を落とし続けている。
「これはこれは、ようこそ」
 愛想よく男に声をかけるが、彼は言葉を発する事はなくその場に立ち尽くしていた。
 大柄な彼が何も言わずに入り口に仁王立ちになっているその姿を見たエル・クロークは、察したように小さく顔を上げる。
「あぁ、そう言う事ならどうぞ、こちらへ……」
 エル・クロークは座っていた椅子から立ち上がり、店内の奥へと続く扉の先へ薄い笑みを浮かべて男を招き入れる。
 店の中が水浸しになることなどまるでお構いなしだった。
 何も語らない男は、エル・クロークが招きよせた部屋の中央にあるリクライニングチェアーの前でふいに足を止めた。そしてまるで吟味するかのように、ぺったりとした髪の中からギョロつく目でエル・クロークを一瞥する。
「……僕を疑っている? でも心配は要らない。あなたの望むままを与えてあげるよ」
 ふっと笑いながらそう答えると、男はそのままドカリと椅子へと腰を下ろした。
「さぁ、あなたは何が望みだい?」
 柔らかな椅子に身を沈み込ませながら男は、唸るように喉の奥から声を絞り出した。
「……気に入らない奴が居る」
「……」
「そいつは、俺の女房をたぶらかしやがった……」
 悔しそうにギリギリと奥歯を噛み鳴らして怒りを露にしている男に、エル・クロークは目を細めたまま短く息を吐いた。
「なるほど。じゃあ、そんなあなたにはその男にどうなって欲しいと思っているんだい?」
 エル・クロークは唸る男の側に座り、近くの棚から彼に合いそうな香りの小瓶を指で辿りながら、沢山あるうちの一つを摘みあげた。
「俺は、あいつに……」
 何かに葛藤しているのだろうか。男はふいに言葉に詰まりながらも、その腹に据えかねる怒りを滲み出している。
「大丈夫、ここはあなたと僕だけだ。僕の問いかけに耳を傾けて、素直に言葉を紡げばいい。……まずは深呼吸をしてみようか」
 促されるままに、男は深く鼻から息を吸い込むと同時に、エル・クロークは先ほど手に取り、蓋を開けた小瓶を男の顔の側に持って行く。
「それで? あなたは彼をどうしたい?」
 静かに問いかけると、まるで何かに促されるかのように男はそっと瞼を伏せて低く呟いた。
「……消えて、欲しい」
「消える……なるほど。それは、もしかしたらあなたが消えるという意味もあるのかな?」
「……」
 男はぐっと言葉に詰まり、唇を噛んだ。
 あぁ、そう言うことか。
 エル・クロークは全てを悟ったように目を眇める。
 彼は相手に消えて欲しいと思っているわけじゃない。だが、逆に相手が彼を消しに来る。その恐怖を取り払いたい。そういう意味だと分かった。
 男の側に翳していた小瓶に蓋をして、そっと元の棚に戻すとエル・クロークはリクライニングチェアーに手を掛ける。
「心で思い描いている事を、頭の中に鮮明に浮かび上がらせてみるといい」
「……っ」
「あなたが消えるか、相手を消すか。……さて、どちらの方が後味が悪いだろう?」
 男はエル・クロークの言葉に、何も返す事は出来なかった。
 どちらも同じ。後に残るのは苦い思いだけ。そしてまたそこから逃げ出す事も、同様の苦さを味わう事になる。
「……さぁ、何が見える?」
 落ち着いた口調でそう語りかけると、男は入ってきた時とはまるで違う、震える声音で語り出した。
「俺は、俺は……逃げも隠れもしない……。もっと、あいつと本気でぶつかり合っていく必要が、ある……」
 ぎゅっときつく拳を握り締め、体中を小刻みに震わせる男はゆっくりと瞼を押し上げる。そしてその身を起こして扉の方へと歩いていった。
 エル・クロークはその彼の後姿を見送りながら、小さな笑みを浮かべる。
「そう。それがあなたの真に望むもの。怖がっていては何も始まらない……そうだね?」
 本心でぶつかり合い、理解することもまた新たな一歩を踏み出すきっかけ。彼が求めているものはそれだった。
 相手と向き合うことの怖さ、喜び。それは向き合わなければ分からない事だ。
 エル・クロークは誰に語りかけるでもなく、静かにそう語りかけた。