<東京怪談ノベル(シングル)>


Clockwork Dream
 明るい色の石畳で舗装された表通りから一歩横道へ入ると、すぐにいくらか色調の落ちた人気のない路地裏になる。スリが大手を振って歩き回るほど治安が悪いというわけではなく、かと言って華やかな表通りとは一線を画す静けさ、黄昏時の淡い倦怠感のようなものが常に満ちている場所だ。
 もっと奥へと入り込めば命の危険を感じるような区域もないこともないが、少なくとも表通りからさほど遠くはないこの付近には穏やかな静寂と、かすかな香の香りが漂っている。他の路地裏にはないその香りの出どころは、喫茶店を兼ねた香物を扱う小さな店だった。
 店主の名前はエル・クローク。細身で長身、中性的な容貌を持つクロークの正体が実は時計の精霊と知って訪れる客はまずいない。この店の扉をくぐるのは、店内に並ぶ様々な香りの香水やポプリ、あるいは茶葉や菓子といったものに惹かれる女性客、はたまた喫茶スペースで静かなお茶の時間を楽しみたい者、あるいは調香師であるクロークが持つもう一つの顔に会うためだった。
 その店の扉を開き、時計が時を刻む音に似たためらいのない靴音を立てて一人の少女がやって来た時、クロークはいつも通りの穏やかな微笑を浮かべて「いらっしゃい」と声をかけた。
「今日はどのような品をご所望かな」
「このお店で私が一番いい夢を見られるものを……」
 少しばかりはにかみながら小さな声でそう答えた少女にクロークは見覚えがあった。目立たない服装ではあるが身なりの良い、裕福そうだが気弱げな少女――これまでにも度々訪れている最近の「常連」だ。
 クロークはほんの一瞬の間目を閉じ、自分の中で現時刻を確認すると、
「では奥の部屋へ案内しよう」
 と、カウンターの先を手で示した。そして少女と入れ違うように店の扉へと歩み寄り、外に向けて「CLOSED」の看板をかける。閉店時間には少し早いが、今日は雨こそ降っていないものの天気が悪く客足が少ない。おそらく皆が雨の降り出す前にと寄り道もせずに帰るためだろう。そんな日は早仕舞も悪くない。それにこの少女が求める「もう一つの仕事」には少々時間がかかる。
 クロークは入り口の扉に鍵をかけ、店内を横切ってカウンターの中で待っている少女の先に立つと、その向こうにある部屋の扉を開いて彼女を招き入れた。
 普段はクロークしか入らない、商品を陽の光から守るための倉庫として使われている部屋で、クロークがランプに明かりを灯しても室内のすべてに光が届かないほど暗い。壁に並んだ棚は薄闇に沈み、部屋の四隅は黒くにじんでどこまでも終わりがないようにも見える。その先にあるのは無限の闇と優しい孤独ばかり。そんな中で中央にあるリクライニングチェアの輪郭だけがぼんやりと浮かび上がり、どこか怪しい雰囲気を醸し出していた。
 しかし少女は臆することなく室内へ入ると、「どうぞ、かけて」と言うクロークの指示通りに慣れた足取りでリクライニングチェアまで行き、ゆっくりとそれに腰かける。部屋の隅が見えないためか正確な大きさが判らないこの奇妙な空間が、少女の望む世界のすべてだ。
 クロークは室内にある香炉に手をかざし、軽くその手をひるがえした。
 その次の瞬間には優しく鼻腔を侵す香の香りが部屋に満ち、少女が深く息を吸ってため息をつく。まるでこの部屋の外の世界を憂うような、あるいは見限った者のあきらめのような吐息だ。
 店を構える調香師クロークのもう一つの仕事は、特殊な香をたいて客にひと時の夢や幻を見せ、障害の解消や願望を満たすこと。それがどんな内容であってもクロークは客の要望に応えてくれるため、人によっては何度も何度も通い、はまっていく。この少女もそんな客の一人だった。
「それでは始めよう。あなたの望む世界の最初の言葉を、まずは教えてくれるかな」

 クロークが裏口から少女を送り出しカウンターを抜けて店内に戻って来ると、店の入り口の扉を誰かが叩いていた。その衝撃で閉店を示す小さな看板がガタガタと音を立てて揺れている。
 一瞬の逡巡の後、クロークは足早に扉に向かい、鍵をはずしてそれを開いた。
 すると戸を叩いていたらしい男が開口一番「少女は?」と、圧し殺したような低い声音ですごんだ。
 それにクロークは小さく首をかしげ、店の軒先を指差すように腕を伸ばして穏やかに答える。
「外の看板にある通りここは香物を扱う店で、人は売っていないのだけど」
「とぼけるな、小さな女の客が来ただろう。返せ」
「彼女なら帰ったよ」
 クロークはそう答えた直後、眼前の無作法な男の背後にもう二人、別の男たちがいることに気が付いた。どちらもあまり話し合いを好みそうな気配ではない。今クロークと向き合っている男も、どちらかというと荒事の方が得意といった様子だ。
「失礼だが、あなた方と彼女にどういう関わりが?」
 何やら面倒なことになりそうだと内心ため息をつきながらクロークが尋ねると、後ろの男の一人がけんか腰に「俺たちは彼女の家の者だ。この街の財政を支える方の大事な一人娘を、こんな怪しげな店に出入りさせるわけにはいかん!」とまくしたてた。
「……要するにお金持ちのお嬢さん? そしてあなた方はそのご家族……という風ではないから雇われている人たちかな。人さらいだと言われても納得しそうだけれど」
「バカにしているのか、貴様!」
 こんなごろつきまがいの者を雇っているようではその「財政を支える方」とやらの器も知れたものだとクロークは思ったが、もちろん言葉にはせず、どうしたものかと首をひねった。ひょうひょうと煙に巻いて追い返せるほど、人の話に耳を貸すような礼儀正しい連中ではなさそうだ。
 そんなクロークの直感を肯定するように、後ろにいたもう一人の男が太い腕を振り上げて言った。
「大人しく返さなければ痛い目を見る、ぞ!」
 最後の一音は前の男を押しのけ、殴りかかってくる男自身の足音と空を切る音にかき消された。
 クロークはすんでのところで後方へ飛び退いて拳をかわしたが、それを好機とばかりに招かれざる客たちが無遠慮にどかどかと店内に上がり込んだ。
「探して連れ帰れ。店を壊しても構わん」
 扉を叩いていた最初の男が他の二人にそう指示を出す。
 それにクロークは、
「あなた方は良くても僕が困る」
 と、いくらか険しい口調で言った。
「ならば彼女を出せ」
「もう帰ったと言っているのに、話を聞かない人だね」
「この目で確かめないことにはな。よしんばあんたの言う通りだったとしても、調香師風情にこれ以上あの人と関わってもらっては困るのだ。そこのところを理解してもらわないと」
 品の良い古風な調度品でまとまった店内をぐるりと見渡し、まるで広く大きく絢爛豪華であることだけが良いことだと言わんばかりのバカにした顔で男は鼻を鳴らすと、クロークに見下すような視線を投げて呟くように言った。
「まったく、こんな優男に入れ込んで裏通りのこんな小さな店に通うなど、悪い冗談だ」
「何か誤解しているようだけど……あなた方がこの店で礼儀をわきまえるつもりがないと言うなら、僕も見過ごせない」
「ほう、ではどうすると言うんだ?」
 男がそう言ってにやりと笑った瞬間、クロークの背後で別の男のかすかな息を吸う音がした。
 ――こういうことは好まないのだが、店の危機とあっては仕方ない。
 クロークは心の中でそう呟くと左回りに体をひねって振り返り、そのままの勢いで床を蹴ると、目標を失って右の拳を空振った男の側頭部に容赦ない回し蹴りを食らわせた。
 一言も発する暇もなく、男がその場に倒れ伏す。
 そのクロークの動きに先ほどまで横柄だったリーダーらしき男のふてぶてしい顔がまったく違うものに変わった。「呆然」という言葉を表情にしたら、まさしくこれがそうだったろう。
 クロークはそんな彼には構わず、仲間がやられたと見てこちらへ向かってくる別の男に香炉を差し伸べた。その次の瞬間、店内には頭の芯が麻痺するような濃厚な香の香りが満ち、ほぼ同時に男二人は絶叫に近い悲鳴を上げた。護身用にクロークが持ち歩いている、幻覚を見せる香だ。何を見たかは本人たちにしか判らないが、叫び声からして決して愉快なものでないのは確かだろう。
 クロークは戦闘のプロではないが、そのあたりのごろつき程度なら撃退できる体術を心得ているし、何よりここはクローク自身の店だ、武器となる香も香炉も言葉の通り売るほどある。「調香師風情」と侮って敵うわけなど、はじめからなかったのだ。
「では彼を連れてお引き取り願おうか」
 クロークがそう言って指を鳴らすと男二人は唐突に幻から覚め、驚愕の表情でクロークと仲間の顔を交互に見やった。
 そんな二人にクロークは無言で床に転がっているもう一人を指差す。
 すると男たちはまるで示し合わせたように床の男を担ぎ、一目散に逃げ去って行った。
 そんな彼らを追い立てるように降り出した雨を赤い瞳で一瞥し、「どうせお客さんを遠ざけるなら、もう少し早く降ってくれれば良かったのに」とクロークは呟いた。彼らが雨くらいで日を改めていたとも思えなかったが。

 それから数日後、またあの面倒くさい連中が押しかけて来やしないかと憂いていたクロークの下に件の少女がやって来て身内の非礼を丁寧に詫び、もうここへは来ないことを告げた。
「あの人たちも父も母も話を聞いてはくれません。ご迷惑がかかりますので、幻で満足するのはあきらめることにします。唯一私の話に耳を傾けてくれたあなたに……クロークさんにもうお会いできないことだけは残念ですけど、この世界を消せないなら私が消えるしかありませんものね」
 そう言ってかすかに笑う少女の顔に涙の色を見た気がしたが、クロークには引き止める理由も義理もなく、ただ彼女が最後に欲する香を渡すことこそ店主の務めと、望むものをその手に持たせ小さな背を見送った。
「彼女たちは、金持ちは社会によどむ膿だと言う。そう言って私から物を奪い、泥を投げつける彼女たちは、それじゃあ一体、何なのかしら」
 あの闇に溶ける部屋――ほのかなランプの明かりの中で呟いた彼女にクロークは何も答えなかった。何故なら彼女が望む答えは彼女の中にあり、それを見せるのがクロークの仕事だったからだ。
 小さく息をついて目を閉じ、時間を確認して、そろそろ閉店の看板をかけようかとクロークが思い立ったところで、入り口の扉が遠慮がちに開かれた。
 そして「ここ、見たい夢を見せてもらえると聞いたんだけど……」と、新たな客が顔を覗かせて言う。
 それにクロークはいつも通りの微笑を浮かべ、「いらっしゃい」と中へ招き入れた。


     了