<東京怪談ノベル(シングル)>


2人のセレスティア


 凄まじい力で、腕を掴まれた。
 掴まれるまで、私は気づかなかった。水操師としての力が、発動していないという事に。
 あらゆるものを受け流す、水の防御力。
 常に私の周囲で発動しているはずのそれが、今は全く機能していない。封じられている。
 私の腕を掴んでいる、この男によって。
 恐らくは男であろう。プロレスラーのような巨体を、黒いローブに包んでいる。
 フードを目深にかぶっており、顔も見えない。
 露出しているのは、私の腕を掴んでいる、ごつごつと固く厳つい手だけである。岩を五指の形に彫り込んだかのような手。人間の五指と掌、ではなかった。
 人間ではない正体を黒いローブで隠した、巨体の男が、あと3人いる。4人で、私を取り囲んでいる。
 夜のベルファ通り。昼間よりも人通りが多い。
 陽気に騒ぎながら練り歩く酔っ払いの群れに紛れて、その男たちは足音もなく、私に近付いて来たのだ。
 魚が水の揺らぎを感じるが如く、危険を察知する事が、私は出来なかった。水操師としての力が、この黒ローブの巨漢たちには一切、通用しない。
 ちなみに今、私は仕事中である。
 店長にちょっとしたお使いを頼まれ、それを済ませて黒山羊亭に戻るところなのだが、どうやら戻れそうになかった。
 普段、私の身を守ってくれている水の力が、どういうわけか全く働いていない。
 四方から迫る男たちの巨体を、受け流す事も出来ず、私は背後から口を塞がれた。岩から彫り出したかのような、巨大な手で。
 水操師としての力を、いささか過信していた。それを私は、認めざるを得なかった。
(チートは……いつかは対処されるもの、かな……?)
 そんな事を思いながら私は、岩のような男たちによって、荷物の如く運ばれて行った。


 岩のような男の1人が、目隠しをほどいてくれた。
 私は目を開いた。
 そこは、どうやら洞窟の中であった。
 岩と土の空間。その中央で、私は椅子に座らされている。
 黒いローブの巨漢が4名、四方から私を監視している。
「要するに……私は拉致された、という事でいいのかな?」
 訊いてみる。
 岩のような男たちは、答えてくれない。代わりに4人とも、ローブを脱いでくれた。
 嬉しくも何ともない裸が4体、現れた。
 岩と言うより、土であろうか。
 土を、大きな人型に練り固めたような姿の巨漢が4人。
 多少ファンタジーをかじった現代日本人の知識に基づいて、私は言い当てて見せた。
「……ゴーレム、か?」
「それも君に合わせて造った特注品だよ、セレスティア女史」
 巨漢ではない男が1人、いつの間にか、そこに佇んでいた。
 身なりの良い、貴族風の青年。銀縁眼鏡が、いささか嫌味ったらしいほど似合っている。
「聖竜の巫女……君のような危険極まる戦力を、エルザードに保持させておくわけにはいかない。我が公国が貰い受ける」
「聖獣王陛下が、私の力を用いて近隣諸国への侵略戦争に乗り出す……とでも?」
 日本の周囲にも、あんな国やこんな国があった。
 奴らがいつかは攻めて来る、だから軍備を増強せねばならない。右側の人たちが、そんな事を叫んでいたものだ。
「あらゆる攻撃を無効化する、水の力……それが、土で出来たゴーレムには通用しない。土の洞窟の中では発動しない。何故かは、わかるかな?」
 青年が、気障ったらしく眼鏡をいじりながら、そんな事を言っている。
「土はね、水を濁し、水を吸収し、水を堰き止めるものだからさ」
「土は、水を止める……」
 どこかで聞いた事のある理屈だ、と私は思った。
「君の力は、これで封じた。あとは君の心を、我が公国に隷属させる」
 青年が、パチっと指を鳴らす。
 その瞬間、何もかもが消えて失せた。青年も、4体のゴーレムも。土と岩しかない、洞窟の風景も。
 私は、豪奢な宮殿の一室にいた。エルザード王宮よりも金がかかっているのではないか、と思えるほどの豪奢さだ。
 ソファーかベッドか判然としないものに身を横たえながら、私は今、4人の若い男を侍らせていた。
 高級ホストのような美形の若者が、計4名。私に、美酒と酒肴を運んで来てくれている。酌をしてくれる。綺麗な手で、マッサージをしてくれている。美しい顔で、微笑みかけてくれている。
 私が外見通りの若い女性であれば、天にも昇るような心地を味わっているところであろう。
 残念ながら、と言うべきか、セレスティアの心は俗物そのものの中年男である。若い男に接待されたところで、嬉しくなるわけがなかった。王女や店長のような、美しい女性であればともかく。
 そんな事を思った瞬間。豪奢な宮殿も美酒も美青年も、何もかもが消えて失せた。土と岩だけの洞窟の風景が、蘇った。
 セレスティアは椅子に座ったまま、4体のゴーレムに囲まれ、かしずかれ、ニヤニヤと幸せそうに微笑んでいる。
 それを、私は見つめていた。どこにもいない、私がだ。
「お、おい……」
 私は声をかけた。セレスティアは、応えてくれない。
 今の彼女は相変わらず、高級ホストクラブのような宮殿の一室で、若く美しい男たちにちやほやと扱われている。
 セレスティアの目には今、この洞窟が、豪奢な宮殿に見えているのだ。無骨な土のゴーレムが、美青年に見えているのだ。
 私は、そんなセレスティアの中から追い出されてしまった。
「おい、目を覚ませ。君は今、幻覚を」
「……うるさいわね。幻覚でも何でも私は今、幸せなの。あんたに居られたんじゃ堪能出来ない幸せ。女として、最高の幸せよ」
 セレスティアが、ようやく返事をしてくれた。
「あんたみたいな煩悩の塊のエロ親父を追い出して、私は今、本当の意味で女になったのよ。とっとと消えちまいなさい」
 煩悩の塊なのは、今の君も同じじゃないか。思わず私は、そんな事を言い返してしまうところだった。
 7ヶ月ほど前。聖竜の巫女セレスティアとして、私はこのソーンという世界に現れた。
 7ヶ月間、私は、中年男の心を持つ淑女として過ごしてきた。
 その淑女の中では、しかし私が知らぬうちに芽吹き、育っていたのだ。脂ぎった中年男ではない、女としてのセレスティアが。
「女としての欲望に、しばし蕩けていたまえ。エルザードの最終兵器、水竜の巫女よ」
 眼鏡の青年が、セレスティアに背を向けながら言った。
「いずれ君の心は完全に蕩け、我が公国に隷属する事となる……」
 言いながら、眼鏡の青年は立ち去って行く。
 歩き方が、どこかおかしい。義足なのかも知れない、と私は思った。


 半年が経過した。
 その間、4体のゴーレムが、セレスティアの世話をしていた。水に食料、排便に入浴の設備など、この洞窟には大抵のものが揃っているのだ。
 世話を受けながら、セレスティアは相変わらず夢を見続けている。夢の中で、美酒美食を堪能し、ホストのような美青年たちと戯れている。
 半年間、何も出来なかったのは、私自身が消滅しかけていたからだ。
 薄れゆく意識の中で私は、ひたすら思い出す努力をしていた。
 土は、水を止める。それが、いかなる思想に基づいた理屈であるのかを。
(土は……水に、勝つ……土剋水……そうだ、これは五行思想……)
 テーブルトークRPGのシナリオ作成時に、ちょっと調べてみた事がある。少し東洋的な話にしてみよう、と思ったのだ。
 五行。
 地水火風、ではなく木、火、土、金、水の5種をエレメンタルとして設定し、これらの相互作用によって世界は成り立つとする思想である。
 木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む。
 木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ。
 つまり、水を堰き止める土の力を排除するには、土に打ち勝つ木の力を生み出せば良い。
 そして、木を生むのは水だ。
 五行の魔力が働いている、この場所であれば、それが可能なはずだ。
 セレスティアの肉体から追い出された私は、今や消滅寸前だ。だが完全に消滅する前であれば、セレスティアとの力の繋がりは辛うじて残っている。元々は私の肉体なのだから。
(土の中に芽吹け、木の力よ……私の水が、お前を育む……)
 洞窟が、揺れた。崩落を始めていた。
 大量の土を粉砕し、跳ね飛ばしながら、大蛇のようなものたちが荒れ狂っている。
 蛇ではない。大樹の、根であった。
 木は、根を突き刺して土を穿ち、土から養分を吸収し、土を弱めてゆく。
 荒れ狂う巨大な根が、4体のゴーレムをも粉砕していた。


「セレスティア……しっかりして、セレスティア!」
 必死な声と優しい抱擁が、私に目を覚まさせてくれた。
「……あ……王女様……」
 王女の膝の上で、私はゆっくりと目を開きながら、まず自分の身体を見下ろした。
 青い、水竜の巫女としての正装を身にまとった、美しい淑女の細身。
 この肉体から私はしかし先程まで、離れていたような気がする。何があったのかは、全く思い出せない。
 とてつもなく巨大な木の根元に、王女と私はいた。周囲では、何人もの兵士たちが、忙しそうに動き回っている。
「これは……一体……?」
「何も覚えていないのね。貴女は半年ほど前から行方不明だったのよ」
 王女が言った。
「アセシナート公国のシャッテン・レギールンが動いている、という情報は入手していたのだけど……後手に回ってしまったわ。だけど貴女が無事で良かった」
「公国……」
 その単語にも、聞き覚えがある。が、詳しい事はやはり、何も思い出せなかった。