<東京怪談ノベル(シングル)>
夢の名
渇いた草原の上を滑るように吹く熱い風。
雲ひとつない空に浮かんだ太陽は背に広がる黒い翼をじりじりと温めている。
眩しく光る芝生の上に立ち、ルド・ヴァーシュは一人足元を見つめていた。
強い陽光は彼の影をくっきりと濃く黒く染め、細かな羽毛さえ残さず地面へ映していた。
(――懐かしい)
この風も、草の匂いも。
心の中で小さく呟いた。
草を踏みしだくように一歩進めば、ぱきりと渇いた音が響く。
……ほとんど朽ちた矢が靴の下で砕けた音だ。
風化することなく残った鉄の矢じりは赤褐色に錆つき、かつて仕留めたのであろう“翼をもつ者”の骨片が僅かに辺りに散っている。
それは同胞か、それとも忌むべき敵か。
いまや羽は土へ還り、黒も白も分け隔てなく草木の命の糧となっている。
顔を上げ遠い地平線を眺める。
炎に覆われる大地と赤く染まった空を想う。
戦地の面影を緑に隠したこの場所を駆け抜けるのは、あの時と変わらないすべての命を焦がす風。
それは、目を伏せ昔を思い描く彼の頬を音もなく撫で、消えていった。
彼の右手には白い封筒が握られていた。
宛先は、黒い翼を持つ青年ルド・ヴァーシュ。……今手紙を持つその人だ。
僅かに力のこもった指が、神経質なほど細く丁寧に描かれた彼の名を歪めていた。
彼がここにいるのは、羊皮紙の便せんいっぱいに描かれた名に呼ばれたからだ。
ほとんど行間がない名前の羅列。
青みがかった黒いインクがなぞる戦争の爪痕。
(慰霊、か)
並べられたかつての同胞のフル・ネームは、確かに彼をこの地へ誘っていた。
草原を横切る。草の陰に隠れているのは、朽ちた矢と折れた剣、そして生き場をなくした弾丸だ。
肺いっぱいに空気を吸い込むと、血の匂いすら感じ取れそうだ。
(この地を、再び踏むことになるとは思わなかった)
彼は呼ばれたのだ。
先ほどまで居た世界のことを思い出す。
夜中、彼のもとに一通の手紙が届いた。
差出人はなく、書いてあるのは宛名……自分の名だけ。
多少の躊躇いを覚えつつも封筒を破り便せんを開いた瞬間、魔力の籠った光に包まれたことを覚えている。
決して警戒を怠っていたわけではない。しかしそれはあまりにも巧妙で、そして何より全てが一瞬の出来事で、彼の意志が介入する隙は無かった。
(転移魔法か、それとも幻覚魔法か)
ここに来てからため息をつくのは何度目だろう。
(……面倒事に巻き込まれていなければいいが)
上着のポケットへ仕舞った手紙に、布の上から触れた。
足取りは重く遅く、気乗りのしない足音がさくりさくりと鳴り続ける。
眉間から深い皺は消えず、目にはすっかり諦めの色が浮かんでいた。
(早く帰ろう)
青い空には依然雲は浮かばず、太陽は飽きることなく地上を照らしている。
濃い影を引く黒い人影は、眩しいほどの緑に染まる大地をゆっくりと横切って行った。
ただの草はらから道へ出たのは、それからしばらく経ってからだ。
整えられた土の道は、二台の馬車が余裕をもってすれ違えるほどの幅で、片方は草原の真ん中へ、もう片方は小さな町へと続いていた。
町は入口からして小さく、閑静という言葉が適当だ。
愛着の湧きづらい質素な風景と、温かく親切な住人が生活するこの町は、旅をする者の中継地点に相応しい。
申し訳程度の門を抜け中央の広場へ足を踏み入れれば、久々の来客を歓迎する客寄せの声があちこちの露天からあがる。
みずみずしい色とりどりの野菜、隣町から仕入れた小麦、氷の中に放り込まれた魚。
遠い王国から朝一番に届いたという果物が並ぶ棚の隣で、手提げにいっぱいの花を詰めた少女が通行人に声を掛けている。
隣接する施設から焼き立てのパンの香りが風に乗り運ばれてきた。
この町にあるべき素朴な活気。
その全てが、戦争によって奪い去られた光景だった。
飛び交う歓迎の声に軽い会釈をしながら、視線をそっとあたりに走らせる。
焼け焦げた石の壁。
剣の絶ち筋が残る木の柱。
すれ違う女性の腕に空く白い銃創。
建物の陰に隠れた小さな墓。
物憂げに道をゆく、片方の翼を失った青年。
この町が激戦区であったことを物語る、小さくも深い闇があちこちに巣食っていた。
景色を探るのを辞め、空を仰ぐ。
町のいたるところに潜む闇が、こちらを睨んでいる。
好意とも不可解ともつかない視線。
ただの来訪者として扱う住人が声をかける間、ひそひそと交じるささやき。
「――」
密かに交わされる会話は闇から闇に流れ、耳を澄ましても聞こえてこない。
しかし、内容の想像は簡単につく。
「ああ死神が戻ってきた」
隠された二丁の銃を見透かし、彼らの声色は語っていた。
彼の弾丸はいくつの命を奪ってきたのだろう。
ひとつ撃つたびに一人が死んでいったのだ。
逃げまどう人々に押し流されながらも敵襲を振り返る勇気を持つ者達は、立ち上る戦火と煙の向こうにルドの姿を見たはずだ。
銃声は空を貫き、いくつもの白い翼を撃ち抜いた。
血に染まった白黒の羽は雪のように町に降り注ぎ、戦う者隠れる者、生きる者死ぬ者、誰もかもの上に等しく積もった。
両手に銃を携えた傭兵。
翻る黒い翼の鈍く重い煌めきが目に焼き付いて離れない。そういった人々が、この町にも大勢残っていた。
そうした犠牲者たちの視線を一身に受けながらも、ルドは迷うことなく街道を進んだ。
中心部から離れるにつれ泥の目立つようになった灰色のレンガは、規則正しく町の奥へと続いていた。
太陽が高く頭上へ昇りきったころ、彼は墓地へ辿りついた。
途切れたレンガ道を踏みしめる。
乾ききった泥が軽い音を立てる。
墓地は冷え切っていた。
足元には、薄い緑の芝生と焦げた茶色の土が広がっている。
ぽつりぽつりと生えた木々が太陽を遮り、いくつもの木陰が作られていた。
その下に立てられた、数え切れないほどの墓石達。
ひざ丈ほどの高さの平らな石が置かれているだけの簡素なものだ。
大きさも色も似通っていて、彫られている名前だけが違う。
(そりゃあ、用意はできないだろうな)
入口から一番近くに佇んでいる、苔むした墓を見下ろした。
戦場の地へ消えていった無数の命。
そこには黒も白もなく、ただ永遠に続く静けさと眠りが与えられていた。
あたりに人の気配は無かった。ひんやりした空気のかすかな流れだけが感じ取れる。
ぽつりぽつりと置かれた萎びた花束と、小さな酒瓶を視界の端に捉えながら、石の間を縫うように歩く。
やがて、開けた場所に出た。大樹と呼ぶべき木を挟み、二つの石碑が佇んでいた。
「ずいぶんと、立派な寝床を貰って」
ぽつりと零す。
美しい慰霊碑だった。
比較的新しい岩肌は日の光に照らされて滑らかに輝く。
人の背丈ほどもある巨大な大理石は、ルドの両翼を伸ばしたとしても包み込めないだろう。
「どうやって用意したんだか」
こんなもの、この町の近辺では採れないだろうに。
大理石にはいくつもの名前が彫られていた。
よく知る名から、言葉を交わした事がない者、果てには名前すらなかった者。
背を預け合った仲間、言い争いばかりしていた親友。
それぞれの顔を思い描きながら、刻まれた名にそっと触れる。
つるりとした岩の感触。陽に晒された表面はじわりと温まっている。
『俺が無事に死んだとして、誰が大地に還してくれるのやら』
『最後まで戦い抜いても、ただの一兵卒の名が歴史に永遠に残るわけでもないだろうに』
頭の中に同胞達の声が新たな湧水のように満ち溢れる。
一人ひとりの顔を、そして声を思いながら、名をなぞる。
「これだけのことをされておいて、それ以上の文句を言うんじゃないぞ」
呆れたような声色とかすかに浮かぶ苦笑。
ルドの率いた傭兵達の中には、家族を失った者や帰るべき場所がない者も大勢居た。
彼らはおそらくほとんど全員が、自らの身体がいつか還る場所を探していた。
「よかったな」
置いてきた、あるいは見送った彼らは、今向こう側でどんな顔をしているのか。
穏やかな深呼吸は、静まり返った午後の中に溶けていった。
大樹を挟んで立つ、もうひとつの慰霊碑。
そこには、ルドら黒い翼を持つ者達といがみ合った、白い翼を持つ者達の名が刻まれていた。
ゆるい足取りで歩み寄り、馴染みのない名を見つめる。
いくつかの名前には見覚えがあった。
“好敵手”と、呼ぶべき相手。
お互い名乗り合い、未来の決闘を誓った者達。
彼らもまた犠牲者として刻まれ、平等な命として、訪れた平和の中で生者を見守っている。
数歩下がり、二つの慰霊碑を眺める。
突然訪れた終戦を想う。
眠るべき墓の無い、翼のない人々を想う。
「おまえ達は奴らを許せるか? 信じられるか? 奴らもまた、天に帰れば同じ命だと……」
返事はない。
返ってくるのは音のない声とかすかに響く鳥の歌、そして虫のさざめきだけだ。
さて。と、姿勢を正す。
町を抜け歩いてきた彼には、この場所へ呼ばれた魔法について、いくつかの見当をつけていた。
(この場所は、幻だな。おそらく幻術の類か)
そう。この景色は幻であるとした方が、納得がいくのだ。
戦いの合間に思う『平和』の幻想。
戦争を終えたこの町に対する想像。
それが具現化したものである。そう考えた方が話は早いと。
あの店は確かに倒壊させた。
客寄せをしていた店主は巻き込まれて死んだはず。
看板に書かれていた宣伝文句全てにある既視感。
そして何より、道ですれ違う者の中に、かつての仲間の姿があったのだ。
生きているはずがないと確信できる仲間。
今ここにあることがありえないものの数々。
明らかな、幻だった。
町の至るところに残った暗い影……戦争の爪痕を思い出す。
彼らもまた幻なのだろうか。
それとも、彼らこそが幻を見せている魔術そのものなのだろうか?
いずれにせよ、幻の中で生きていくわけにはいかない。生きていくべき場所はこの世界ではないのだ。
慰霊碑をもう一度、丁寧に眺める。これもまた、幻なのだ。
(幻に見るほど、心残りがあったとでも言うのか)
そうであるなら自分はまだ甘い。
長く長く息を吐く。背の羽が膨らみ、小さく震えた。
(行かなければ)
思い出は思い出として残し、あるいは過去として忘れるべきだ。
そんな考え方をどこかで耳にしたことがある。
それをこれから先、彼――ルド本人がどのように結論付けるかはまだわからないが。
心に渦巻く感情は過去から来たもの。
彼もいずれ自らの記憶と折り合いを付けることもあるだろう。
それが今なのかは、わからないが。
慰霊碑に背を向け、来た道をふたたび辿る。
太陽は沈み始め、濃く黒かった影も赤く透明に縁どられてきた。
夕陽を背負った彼の表情は伺い知れない。
墓地は訪れた時と寸分違わず、冷たい微風をくるくると、木々の隙間にくぐらせていた。
元の世界に戻る手掛かりは、やはり同胞の名が連なる手紙にあるだろう。
町と墓地の間、灰色のレンガ道の端で、再び封筒から便せんを抜き出す。
薄めの羊皮紙には、青黒い丁寧な文字が几帳面に並んでいた。
改めて眺めてみても、邪悪な魔力の痕跡は認められない。
しかし、幻覚を見せている魔法を発動する鍵はここにあるはずだ。
二度三度、便せんの隅から隅まで視線を走らせる。
もう一度最初から、と、目を閉じ、開いた時のことだ。
……違和感がある。
並んだ名前への、漠然とした違和感。
一つ一つの名前に間違いは無い。すべてが味方であったと言いきることもできる。
(……刻まれていない名がある?)
碑が後世に残す名を、共に戦場に立った仲間達の後ろ姿を一つずつ思い起こす。
間違いない。
書かれていない名が、一つ、ある。
先ほど町ですれ違った、同胞に良く似た姿の誰か。
それこそが、この便箋の中に居ない“一人”だった。
手紙から目を逸らす。
彼の顔を、名を、纏っていた空気を思い起こす。
「……」
小さく名前を呼ぶ。
記憶の中で背を向けていたその人は、そっとこちらを振り返った。
「――お前が、仕掛け人だな?」
目の前、腕を伸ばせば届きそうな場所に、彼は居た。
目の前の人物が本人である確証はなかった。
しかし、彼らがこの手紙を用意し、自分に術を掛けたことは解った。
この空間において、彼は明らかに“浮いて”いたのだ。
まるで、現れるために時空を歪ませ、その隙間に入り込んだかのように。
その人の顔は光を浴びながらも真っ黒く塗りつぶされていて、同じように黒いはずの翼だけが光を反射し、薄い紫の光沢を放っていた。
「何故、俺を呼んだ?」
数秒の沈黙。
手紙に書かれず、記憶の幻に残っていた名前の主。
「見つからないまま――」
彼は口を開いた。
冷たい黒に染まった顔の口腔だけが血を吐いた後のように真っ赤だった。
「見つからないまま、忘れ去られるのは――」
言葉はそこで途切れた。
口が動き音を形作っているのは見える。だが、発されているはずの声は、聞こえなかった。
手紙の差出人は、彼ではないだろう。
長きに渡る戦争の間、文字の読み書きを習えた若者はほんのわずかであった。
「ずいぶんと手の込んだ悪戯を」
手にしていた手紙を眺める。
いつのまにか強く握りしめていたらしく、白い封筒はくしゃくしゃに潰れていた。
「そういえば、全て終わったら時空旅行の勉強をしたいとか言っていた奴が居たな」
見つめられた彼は、僅かに身じろぎした。ばつが悪そうな、照れくさそうな……そんな仕草だった。
顔を逸らしながら影は口を開く。
「俺たちの――俺たちの記憶を拾い上げ、手紙に乗せた者が居る」
すっと息を吸い、顔をルドへ向き直す。
音もなく上げられた彼の指は便せんを差していた。
促されるまま、ルドは再び手紙に目を通す。
「――白い翼の者だ」
ルドが視線を彼に戻した。相変わらず、表情は伺えない。
やがて、影は背後を振り返り、数秒の間の後、歩きだした。
ルドは手にした便せんを封筒へ仕舞いこみ、彼らの後を追った。
町の外、墓地へ向かう道から外れて歩く。
彼らの見る先には深く暗い森があった。深緑は完全に影に没し、黒い幹と地面から紅色の陽光を隠していた。
「――彼らのことは覚えているか?」
影はいくつかの名前を口にした。白い翼を持つ者達を悼む慰霊碑に刻まれていた名だ。
「ああ、覚えている。手ごわい死霊術師だった」
「――まったくだ。もう二度と戦いたくない」
声は先ほどよりも明瞭に、耳へ届いている。
「彼が――俺の骨を」
数拍の沈黙。
「俺の骨を砕き、インクに混ぜ込んだ――」
「ずいぶんと悪趣味だな」
「――全くだ」
背を向けたまま、くぐもった息を吐く。苦笑しているようだった。
「――親指の大きさもない小さな骨だ。それに軽く脆かった。触れたらこぼれて消えてしまうだろう。――そのものを送れるはずなかった。だから――この方法を選んだんだよ」
太陽は山の影へ隠れようとしていた。
森は静まり返り、草葉の陰に潜む虫が途切れ途切れに鳴いていた。
くるぶしまでを覆う雑草を踏み分けて、獣も通らないような道なき道を進む。
この森は戦場の一つだった。
実際なら、折れた枝や灰になった葉、矢の痕や白骨程度は見つかるだろう。
しかし、そこに戦いの面影はなかった。
初めてこの地に訪れた時……人々の憎悪と悪意を知らない姿のまま、森は記憶の中に息づいていた。
「俺は――」
ルドを先導していた影が、立ち止まる。
森の最深部だろうか。先ほどまでの狭い道とは打って変わって開けた場所だった。ねじくれ重なり合っていた木々の枝の間に、抜けるような漆黒の空が覗いていた。
「ああ?」
彼らの足元には小さな花が咲いていた。
風のない森の中に、むせるほど甘い香りが満ちている。
「俺はな、ルド。――」
そこで彼は息をつき、夜空にぽつりと一つだけ浮かんだ星を見上げた。
返事を待つ間に一度、しびれをきらした鈴虫が短く鳴いた。
「――。――ああ。なんでもない。――もう悔いはない」
「なんだ、それ。言いたいことがあるなら言ってくれ」
「いや――いいんだ。時々思い出してもらえれば、名を覚えていてもらえれば、それで――」
「……すっきりしないな」
すまないね、と彼は笑った。
「だが、これで覚えた。ここまでちょっかいを出されて、忘れろと言うのは無理な話だ」
そう答え、視線を空へ移す。
空はどこまでも黒かった。しかし、町に散らばる小さな闇よりずっと清く、気味が悪くなるほどの生気はなかった。
夜を確かめるように羽を広げる。羽毛の隙間に冷えた空気が染み込んでゆく。
「――ありがとう」
振り返った彼の顔には、生前と違わぬ微笑が浮かんでいた。
仮面のように張り付いていた影が風に煽られる砂のように流れ、消えていく。
「構わないさ」
ルドの顔に浮かんでいるのもまた、戦友達へ宛てた、穏やかな感情に満ちた笑みだった。
「むしろ、自分の記憶力に自身が持てそうだ」
星明かりに照らされる木々を見回し、花の香りに身をゆだねる。
ひび割れた幹の胡乱さ、長い黒髪を揺らす風、遠く深い空。
かつて道しるべにしていた一番星、眠る度に耳にした虫の声、夜の冷たい湿り気。
辺りに満ちる静寂をくすぐる、葉と枝が擦れる音。
右手を、夜を掴み取ろうとするかのように伸ばし、懐かしむように目を細める。
「こんな景色だったな」
初めてこの場所へ降り立った頃は。
思えばあれがこの世界で最後に感じた平穏だったかもしれない。
ふと、そんな考えが過った。
「――最後に一つ、聞いていいかい」
ルドの手の先を見つめていた彼の言葉が、流れていた長い沈黙を絶った。
「頼み事の多い奴だ」
呆れ顔を作りながら手を引き、大げさにため息をつく。
影は気にせずに続けた。
「――白き翼の者どもを……そして、翼無き者どもを、きみはまだ恨んでいるか?」
ルドはまばたきをした。夜空のように深い黒の瞳は問うた者の顔をまっすぐに見つめていた。
彼はルドを見つめ返し、じっと返事を待っていた。
「さあな」
薄く、しかし溢れ出しそうな感情を湛えた笑み。
「むしろ、こちらから聞きたい」
「――なにを?」
「お前達は、俺を……」
言葉はそこで途切れた。
今住んでいる世界、自分がこの場所を飛び立ち向かった世界の名前は、語られない。
自分に対する真意を訪ねる一説も、言葉になることはなかった。
「……いや、なんでもない」
「――なんだ、それ。きみらしくもない。言いたいことがあるなら――」
「言ってやらないと、すっきりしないだろう?」
ふ、と、どちらともなく息を漏らす。
「あの世でもう一度会った時のお楽しみにしておくか」
「そうしよう。――ゆっくり、来いよ」
「ああ」
落ちた日の面影もなくなり、夜は深く深くなっていく。
数枚の小さな花弁が甘い香りと共にそよ風に吹き上げられ、月光の届かぬ場所へと消えていった。
幻の旅を終えソーンへ戻ったのは、夢の月が沈むころだった。
書かれていなかった名前を、改めて便せんに書きこむこと。
それが目を覚ます鍵だった。
他の字とは不釣り合いに活き活きしたルドの筆跡は、フル・ネームを記した瞬間、彼の意識を現実へと連れ戻した。
熱い太陽。
冷たい夜。
乾いた草原を走る風。
露を溶かした、湿った空気。
本物の夜の中に目覚めた今ですら、記憶を辿ればすべての感覚が鮮やかに蘇る。
ベッドの中、辺りに漂う眠りの切れ端は生ぬるく、相も変わらずしびれるような睡魔を頭の中へ流し込む。
開いた目は向かい側の、暗く染まった壁をぼんやりと映していた。
(寝直すかな)
そうひとりごちて布団を喉元まで引き上げたのも束の間。
寝台の傍、添えつけられたテーブルの上へ視線を動かせば、青い夜の光に沈む白い封筒。
そして、その隣に広げられた便せんと、蓋のしめられた黒インク、そして白い羽ペン。
深く息を吸い、吐く。身体を起こし、翼だけで伸びをする。
床に足を下ろし片手でテーブルを引きよせて、インク瓶の蓋を開き、ペンを手に取る。
びっしりと名前が書かれた便せんに、隙間は一つしかなかった。
眠気の抜けきらない頭の中、はっきりと残る文字。
表すものは忘れられるほど些細で希薄なもの。
それがこの世に存在していたことを確かめ証明するために、そして自分がかつて居た世界を忘れないように――あるいは忘れ去るために――、書かなければならないものがあった。
紙上を駆ける白い羽の音。
薄い紙へインクが染みわたるようにじっとりと、夜は更けていく。
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