<東京怪談ノベル(シングル)>


聖竜降臨


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 無理矢理にでも言葉で表現するとしたら、そんな感覚であろうか。
 水の力に少しアクセスしただけで、水の力が解放される。まるでページが開くようにだ。
 エルザード王城。
 城壁の上から私は、己の引き起こした現象を見下ろしていた。
 濠の水が、時化た海原の如く荒れ狂い、渦巻いている。
 私は、とりあえず訊いた。
「お濠に……魚とか、いますか?」
「……敵が攻めて来た時に備えて、水竜を放し飼いに」
 エルファリア王女の言葉通り、荒れ狂う水中から何匹かの水竜が顔を出し、私に向かって牙を剥き、抗議をするように吼えた。
「ごめんごめん。こんな物凄い渦が出来るとは、思わなかったんだ」
 私は、水へのアクセスを止めた。
 渦を巻き、氾濫しかけていた濠が、穏やかな水面を取り戻す。
 エルファリア王女が、微かに息を飲んでいる。
「腕を上げた……という事かしら? セレスティア」
「五行の魔力を経験した事によって、アクセス出来る領域が少し広がった……というだけかも知れません」
 病み上がり、という事になるのであろうか。
 私セレスティアは、アセシナート公国に捕われて洗脳に近い処理を受けていた。そのせいで、精神がいささか不安定な状態にあったらしい。
 洗心医による治療を終え、能力をつつがなく行使出来るかどうかの確認をしているところである。
 水操師としての、能力を。
「精神は自分じゃわかりませんが、能力の方は……不安定なまま、かも知れませんよ。海竜装の試しは、やめておいた方が」
 海竜装。
 水を司る存在・聖竜リヴァイアサンの巫女としての、正装である。今は私の身体に、ドレスとレオタードの中間といった形状で装着されている。
 これを着用している時の私は、リヴァイアサンに、ほぼ無制限にアクセスする事が出来るらしい。
 どれほどの事が出来るのか、まだ本格的に試した事はないのだ。
 今のような、能力の安定していない状態でそれを行ったら、どうなるか。
 聖竜リヴァイアサンの力が際限なく溢れ出し、私はそれを制御しきれないかも知れない。
 濠の水が渦巻いて氾濫する、どころではない。
 聖都エルザードの地下水脈が荒れ狂い、街じゅうから水が噴出する。そのくらいの事は、起こりかねないのだ。
 だが、エルファリア王女は言った。
「不安定であるからこそ、よ。今の貴女がどういう状態であるのか、確認しておく必要があるわ。大丈夫、強力な魔法の使い手たちをエルザード各所に配置してあります。貴女の力が仮に暴走したとしても、抑えられるわ」
「……わかりました。念のため、ちょっと離れていて下さい」
 私は目を閉じ、念じた。
 ウィルス感染の危険性があるリンク先に、飛ぼうとしている。そんな気分だった。
 身体の周囲で、ドレス状の海竜装がヒラヒラとはためいているのを、私は感じた。
 青い髪が、水中をたゆたう海藻の如く舞う。
 海蛇のようなものが、ゆったりと宙を泳ぎながら私を取り巻いていた。
 否、海蛇ではない。水で組成された、竜である。
 それが私の身体に巻き付いて、そのまま模様になった。
 海竜装は、完全に戦闘服と化していた。
 爪先から細首までをピッタリと包みながら全身に密着し、グラドル顔負けのボディラインをごまかしなく強調している。その上から、竜の模様が巻き付いているのだ。
 左右の細腕には広い袖がまとわりついて、そこだけは日本の古式ゆかしい巫女装束のようでもある。
 貝殻のような髪飾りは、海竜の鰭に変わっていた。それはもはや装身具であるのか、あるいは頭部から直に生えた器官であるのか、私自身にもわからない。
 そんな私の姿を濠の中から見上げながら、水竜たちが吼えている。先程のような抗議ではない。
 自分たちが崇め奉るものの降臨を、彼らは喜んでいるのだ。
 降臨しようとしているものの存在を、私も感じ取っていた。
 姿は見えない。だが、声は聞こえる。
『強大な力を、身につけたのだな……五行の罠を克服する事によって、お前は水操師として、さらなる高みに達したようだ』
 あの時、世界と世界の狭間で話しかけてきた、聖竜リヴァイアサンの声。
『今のお前は、一時的にであれば、私とほぼ同等の力を発揮する事が出来る』
「貴方の……水の全てを司る、貴方の力を?」
『見るがいい、己の姿を』
 言われて、私は気付いた。
 姿が見えない、と思われていた聖竜リヴァイアサンが、そこにいた。
 エルファリア王女が、近衛兵団が、水竜たちが、私を見上げている。
 己の肉体がどのように変容しているのか、私自身の視覚では、もはや確認出来ない。
 だが、感じられる。私セレスティアは今、聖竜リヴァイアサンそのものに等しい存在として、空中に浮かんでいる。巨大な海洋生物が、ゆったりと海中を泳ぐようにだ。
『どうするのだ?』
 リヴァイアサンの口調には、何か面白がるような響きがあった。
『今のお前は、聖都エルザード全域を水没させてしまう事も出来るのだぞ。それだけの力を持ちながら、王女の助手のような立場に甘んずるのか? その力を、己の欲望を満たす方向で使ってみようとは毛の先ほども思わんか?』
「水没させてどうするんですか。そんな事したら、王女と一緒にお茶と甘物を楽しむ事も出来ないし、黒山羊亭のビールと手羽先を堪能する事も出来なくなります。今は外出禁止ですけど、また黒山羊亭で働いてみたい気持ちはあるんですよ? 店長の作ってくれる賄いは絶品なんですから」
 懐かしい気持ちが、私の心を満たす。
 黒山羊亭よりも、もっと懐かしいものが、しかし私の中には、ないわけではなかった。
「だけど……私に、そんなに凄い力があるのなら……」
 あのシナリオは、自信作だった。
 それを、あの連中に披露してやる事は出来なかった。
 不可抗力とは言え、プレイをすっぽかしてしまった事になる。随分と不義理を働いてしまったものだ。
「……帰れますか? 元の世界に……」
 リヴァイアサンは、答えてくれない。
 ただ私は、どこかを泳いでいる、と感じた。
 空を飛んでいる、と言うよりは水中を泳いでいる感覚。
 このソーンという世界に流されてきた、あの時と同じだ。
 世界と世界の狭間に今、私はいる。
 聖竜の化身とも言うべき巨大な身体で、そこを泳いでいる。鯨が、深海を泳ぐように。
 どこへ、私は向かっているのか。このまま泳ぎ進めば、どこへ辿り着けるのか。
(帰れる……? 元の、世界へ……)
 リヴァイアサンそのものに等しい巨体が、泳ぎながら、ゆっくりと溶けてゆく。それを私は、呆然と感じていた。


 激しい水音で、私は目を覚ました。
「……気が付いた? セレスティア」
「王女様……」
 そこは、エルファリア王女の膝の上だった。
 水音は、濠の方から聞こえて来る。
 近衛兵たちが、餌を放り込んでいた。魚の切り身か、あるいは骨付き肉か、ここからではよく見えない。
 次々と投げ込まれるそれらに、水竜たちが驚くほど高々と飛び跳ねて食らいついている。イルカやシャチの曲芸を思わせる光景だ。
 それを眺めながら私は、弱々しく上体を起こした。
 海竜装は、ひらひらとしたドレスに戻っている。
 それを着用しているのは無論、巨大なリヴァイアサンの化身などではなく、セレスティア24歳の細い肢体だ。
「……帰りたかったの? 元の世界へ」
 王女が、問いかけてくる。
「当然だとは思うけれど……貴女が帰ってしまったら、私はきっと寂しい思いをするわね」
「正直、どちらの世界にも未練があります」
 私は、苦笑するしかなかった。
 あのまま泳いでいたら元の世界に帰る事が出来た、とすれば、それに私が失敗した原因は何か。
 単なる能力不足か。それとも私の、帰りたいという思いが、それほど強いものではなかったという事か。
 何にせよ、帰る事は出来なかったのだ。
「どちらか選ばなければならない、としたら……ソーンにいる、しかないでしょうね。もう帰れませんよ。私は、セレスティアなんですから」