<東京怪談ノベル(シングル)>


僕の深淵

 心の底から妬んだ相手。
 それは、僕自身だった。

 他の誰かが居る前で、表に出したことはなかったと思う。
 …表に出すようなことじゃない。
 当然、そう決めている。
 僕はここではない王国の正騎士なのだから。
 幾ら、迷い込んだ先の異世界で――聖獣界ソーンの世界で、であろうと、我が王より叙勲を受けた正騎士らしからぬ行いは絶対にできない!
 僕の矜持が許さない!

 …これは全て、僕の中だけの問題に過ぎない。
 僕の中、奥深くにある――どうあっても無視できない、絶望的なまでの引っ掛かり。



 僕には、子供の頃から妬んでいた――憎んでいた存在が居る。
 何処にでも居て、何処にも居ない。
 そんな、幻のような、けれど間違いなく、何度も、何度も僕の前に現れる存在が、居た。

 その「彼」は。
 …「僕」だった。

「彼」には心…感情がなかった。
 …僕にはそうとしか思えなかった。
 理屈に合わない、ただの八つ当たりなのだろう僕の罵声を幾ら受けても、全く傷付いてなどいないようで。
 黙って、あえかな微笑みを浮かべてさえいて。
 今罵倒されている自分自身のことより、僕のことをこそ気遣うような様子さえ、感じられて。
 …そうやって、全て受け止められてしまうこと自体が、堪らなくなったことも何度もある。

 まるで、善悪を超えた存在としか思えなくて。
 ゆえに、誰にでも優しく在れるのだろうと…思った。
 余計な規律に縛られることなく、在るがままの自分を生きる。自分が守るべき規律を見出し、喜びを以って守る。そして自分が正しいと思うことを、何があろうと責任を持って粛々と貫き通す。他者から何を言われようと、折れることはなく――同時に、他者に己を押し付け、不快にさせることもなく、しなやかに正義を行い続ける。…正義と自己の矛盾、規律と勧善懲悪に縛られる僕が欲しいものを、「奴」は全部持っていた。

 理想の自分が、そこに居た。
 自分でしか有り得ない姿で。
 …自分では有り得ない、姿で。

 僕を見ていた。
 …僕ならば僕を見るなんてできない。
 だから、僕じゃない。
 でも、僕で。
 …頭がおかしいと言うなら言えばいい!
 ただ、「彼」に会うたび、どうしようもなく苛立ってしまう自分が居た。不快になる自分が居た。…けれどそれは相手が「自分」であるからで。「彼」が「自分」でさえなければ、素直に敬服し、称賛できるだろう人物だとしか思えないのに。なのに、その相手が「自分」であるだけで。その一挙手一投足、ただそこに居る佇まいだけでもう、狂おしい程に感情が掻き乱される。
 本当なら。自分こそが――「彼」のようでなければならない。
 なのに、そうではない。
 絶望的なまでに醜い嫉妬が、心の奥底で暗く澱んでいるのを自覚する。
 それでも、どうしようもなくて。
 …この感情を捨てられなくて。
 そんな自分を自覚すればする程、また「彼」への更なる嫉妬と憎悪に駆られてしまう。

 ………………理想なのに、理想だからこそ、理想じゃない!



 その日の僕は疲れていた。

 人のためになることをする。それが騎士の責務と心得て、今日もまた働いた。極限まで体力を削る肉体労働――傍から見れば騎士らしからぬ仕事でもあったかもしれないけれど、致し方ない。頼まれた以上は、騎士として断るわけには行かない。労働は喜び。人のためになるなら尚更。だからこそ、その仕事に出向き、良い汗を流して働いて…心地好い疲労と共に、人々の助けになると言う騎士としての務めも果たし、充実した一日が終わるはず…だったのだが。

 そうは、行かなかった。

 その仕事に出向いて早々、盗難騒ぎが起きた。何故か、僕が疑われた。当然、僕には身に覚えがない。かの王国の正騎士、アレクサンダー・カワードの名とこの剣に誓って、僕がそんな恥知らずな真似をするわけがない。違うと何度も弁明した。けれど、元々の仲間内にこんなことをする奴は居ないと一方的なことを言われ、目撃者が居るとまで責め立てられた。
 驚いた。…目撃者? 何を言っているのかわからなかった。一同を見渡した。目を逸らした者が居た。…僕に頼むと言った者。…この仕事を。手が足りないと。
 僕を疑って責め立てている相手から、何処を見ていると怒鳴られた。余所者が来るとろくなことがないとも吐き捨てられた――曰く、以前にも余所者が盗難騒ぎを起こしたことがあったとか。
 …どういうことだかからくりはわかった気がした。けれど、僕を疑っている者たちは――幾ら僕が何を言おうと、聞く耳がなくて。それでも僕は何度も弁明を重ねた。僕は間違ったことはしていない。だから、説明すればきっとわかってもらえるはずだ。そう信じて――信じようとして。僕の正義を。

 …時間だけが過ぎて行く。張り詰めた重い空気が晴れない。どうしてわかってもらえないのか。僕の説明に何が足りない。正しいことしか話していないのに、何故通じない。
 明らかな濡れ衣。きっと、罪を着せるための目立つ余所者をと僕が選ばれた。そして今日、この仕事を頼まれた。そのこともきちんと順序立てて話しもした。が――人に罪をなすり付けるのかと逆に罵倒され。
 …罪をなすり付けられたのは、僕だ! 調べればすぐにわかることだ! なのに、調べてくれる気さえなくて。僕の言葉が信じられないのか、と嘆かわしく思った。証拠があるのかと猜疑に満ちた目で嘲笑うように問われた。…身の証を立てる術。他の誰かがしたのだと明らかにする術。今の状況では思い当たらない――僕自身の身を幾らでも調べてくれとは頼んだ。当然、盗まれたものは何も出て来なかった。けれど誤解はまだ解けない。…自分から言い出したんだから、調べられる前に何処かに隠したのかもしれないと言われた。
 そんな間は何処にもなかったと彼らもわかっているはずだ。そこまで疑うのか、と憤った。あいつを調べてくれと、僕を陥れた裏切り者を名指しした。…渋られた。何故わかってくれないのか。どうして、本当の悪者に矛先を向けてくれない!

 …丸一日誤解され、漸く解き放たれた。何処でどう誤解が解けたのかもわからない。ひょっとすると、最後まで疑われたままだったのかもしれない。証拠がないから釈放された。それだけだったのかもしれない。
 ただ、酷く、消耗した気がした。…心地好い疲労感どころではなく、建設的なことも人の役に立つことも何もできなかったのに、肉体的にも精神的にもへとへとになった気がする。
 それ程に疲労しているにも拘らず何故か眠気はなく、むしろ、心がささくれ立って仕方がなかった。

 酷く、気持ちが悪かった。
 何処に向けたらいいのかわからない、行き場のないどろどろとした嫌悪感が、胸の内に凝った。



 …夜風にでも当たれば気分も少しは晴れるかと、散歩に出ることにした。

 町を離れる形で歩いて行く。今日、起きたことが起きたこと――なるべく、人の居ない場所へ行きたい。…そうも思っていたのかもしれない。草を踏み、さくりさくりと足を進める。…一面の草原。この辺りまで来れば、きっと、誰にも会うことはない。ただ、夜風で頭を冷やしていられる――そう、思ったのだが。





 その場所に、「奴」が、居た。





 …今、一番会いたくない奴だった。
 自分の醜さが思い知らされる相手。
 まるで理想のままの、「もう一人の自分」。

 その姿を認めただけで、僕の理性は吹っ飛んでいたのかもしれない。今日だったから。…あんなことがあった後の、今だったから。満足に休息も取れていない、余裕のない頭だったから。
 箍が外れた。
 ただ、「奴」がそこに居るだけで頭に来た。何で居るんだと訊いた。騎士らしからぬ荒げた乱暴な声になってしまったが、聞いているのが「こいつ」だけであるなら我慢する必要なんかないと思った。感情の赴くままでいいと思った。「奴」はただ静かな目で僕を見た。その目が気に食わなかった。
 僕はずかずかと歩み寄り、乱暴に、「奴」の肩を突いた。「奴」はされるがまま、後ろ向きに少しよろけた。それでも目には僕を責める色はなかった。…いきなりこんな真似をされてされるがままなんて、莫迦なのかと罵った。何様のつもりだと怒りに任せた声をぶつけた。何で居るんだ、僕を嘲笑いに来たのか。何度も何度も、攻撃的な語彙を選択した。酷い罵声を浴びせ続けた。自分が醜いと思った。そう自覚していた。にも拘らず、止められなかった。ただ、次々と捲し立てていた。
 酷いことをしていると、「奴」に理不尽を強いていると頭の何処かで自覚はしていた。行き場がなかった嫌悪感が、姿を見た瞬間に全て「こいつ」に向いた。これまでの不満が、爆発した。…そんな気がした。僕は何を不満に思うんだ? それは騎士として当たり前の――…わかっている。わかっているけど! それでも! 堪え切れない理不尽を、何度もこの身に受けていて。
 栄誉と責任。己の自負と矜持。騎士として背負ったそれらに、押し潰されそうな気がした。通らない正義。見過ごされる悪。僕には何もできないのか。いや、そんなことはない! 正義が負けるはずなどない。僕が。

 無駄なことをしているわけがない。
 報われないことをしているわけがない。

「奴」は僕の話を黙って聞いていた。僕を見る静かな目に、憐れみが籠っている気がした――いや、憐れみじゃない。「助けてやりたい」と言う目だと思った。人のためになることをする。それが騎士の責務――頭の中で閃いた途端、僕の中で何かが弾けた。「『助けられる』のが僕じゃない、『助ける』のが僕だ」。なのに、そんな。…許せない。絶対に。そんな目で見るな。まるで制御不能なその「感情」が、一気に沸騰した――――――…





 …――――――手が痛いと思った。骨に響く鈍い痛みで我に返った。殴る側の拳も痛むものだと頭の何処かで漠然と感じていた――僕は、沸騰する感情の赴くままに「奴」を殴り続けていた。気付いた時点で、慌てて手を止めた。幾ら憎悪の対象だとは言え、無抵抗の相手をそうと知って殴り続けるなどと、卑怯極まりない真似。幾ら相手が「彼」であろうと、他の誰の目にも留まらなかろうと、騎士たる者の行いではない。…唇を噛み締める。これでは、自分が無様になるだけ。何も解決しない。ただ、僕が鬱憤を晴らしているだけになってしまう。

 …顔を腫らして、痣を作って。口端から血を流して。服に土と埃。それでも「彼」は僕を責める目をしていない。
 背筋に冷たいものが流れ落ちた気がした。
 敵わないと思った。…そう思うこと自体を必死で否定した。駄目だと思った。それどころか、何も考えたくないと思考を放棄したくさえなった。考えれば考える程、「彼」が己の理想であることを、確認し直すことになりそうで。
 嫌だ、と思った。
 僕を見る「彼」の目が、頭から離れない。幾ら目を逸らしても、直に見ずとも――もう、脳裏に焼き付いてしまっている。





「…お前は俺だ。お前を救いに来た、俺だ」





 ぽつりと呟くように、そう、声がした。
「彼」の声。
 我を失っていた僕の暴力を受けていた、「彼」の声。
 その声音すらも、僕がこうありたいと思える理想に思えて。
 僕は、どうしたらいいかわからなくなった。
 何と言葉を返したらいいのかも、わからない。
 …どうしたら、こんな僕が、「彼」に敵うのか。
 絶望的な想いに囚われた気がした。

 気が付けば、「彼」の姿は消えていた。
 …まるで、幻のように。
 元からそこには、誰も居なかったかのように。
 ただ、残された言葉だけが耳に残る。

 …僕は「彼」で、「彼」は僕。

 そう思い知らされる程、堪らなくなって来る。
 僕、は理想にはまだ遠過ぎる。
 …「彼」のようには、なれない。…まだ、なれていない。せめて「まだ」なのだと思いたい。

 悔しくて、悔しくて仕方がない。

【了】