<東京怪談ノベル(シングル)>


獣の檻と古き呪縛〜解放の先触れ

威嚇の唸り声を上げたかと思った瞬間、牙と爪を立てて襲い掛かってくるレピアに、エルファリアは呆然と立ち尽くす。
あとわずかで切り裂かれる寸前、いち早く正気に戻ったメイドたちが絶叫と悲鳴のアンサンブルを立てて、エルファリアを奥へと引きずり込んで、間一髪で危機を回避する。

「姫様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!お怪我はっ」

ありませんでしたか、と問いただそうとしたメイド長の言葉は鼻を突いた―ではなく、貫いた凄まじい異臭によって遮られ、ともにいたメイドたちも鼻と口を手で覆い、真っ青な顔をして倒れそうになる。
数人に至っては気持ち悪くなったのか、その場でのた打ち回り、慌てて洗面所に駆け込む始末。
それもそのはず。
嗅覚を完全破壊しかねない―いや、破壊した異臭の根源は庭で暴れ回る野獣―もとい、野生化したレピアの身体から発せられていたからだ。
華麗だった踊り子の衣装は見るも無残な姿。艶やかな髪は泥や粗相でガビガビを通り越して、ぼさぼさ。
人間性の欠片もなく、遠吠えするレピアにしばし愕然とした後、メイド長を筆頭にメイドたちは未だに呆然としているエルファリアを睨みつけた。

「姫様!!あのような輩をこの別荘に飼うおつもりかっ!!」
「なんですっ、その言いようはっ。彼女はレピアですよ」
「お黙り下さいっ!姿かたちはレピア様だろうと、今のあれは完全なる獣です、野獣です、害獣です。野蛮なる化け物です!!」
「ここは聖王家の別荘です。栄誉あるエルファリア王女殿下のお館でございます。その神聖なる館に、あのようなケダモノを置いておくなど我慢できません」

目を吊り上げ、凄まじい殺気を立てるメイドたちの姿は悪鬼征伐をなす不動明王か帝釈天か。
とにもかくにも、桁外れな迫力で主であるはずのエルファリアに有無を言わせずに迫る。

「早急に御処分してくださいっ!!」

異口同音、もいいところであるが、その迫力の凄まじさにエルファリアは一言も言い返せない。
だが、大事な親友を処分など考えられるわけもない。

「あ、あの悪臭をどうにかすればよいのでしょう?お風呂を沸かして、レピアを入れましょ……」
「どうやって?」

できるだけにこやかに、穏やかに提案したつもりだったが、ギンと目を座らせたメイドに問われて言葉に詰まる。
前回、散々な目に遭わされたメイドたちは、そう易々とは引かない。引くわけがない。
メチャメチャに暴れ回り、半端じゃなく粗相で汚されまくった部屋、部屋、部屋……それらを思い出し、さらに怒りの炎をたぎらせる。

「どうやって入らせるんですか?あのケダモノ。人の手になんて触らせない、いえ、触れたくもない。あんな汚れた化け物なんて」
「そうです。それ以前に、どうやって風呂場に連れてくるっていうんです?まぁ、あのケダモノ、風呂場にすら近づきませんけど」
「貴方たち……なんてことを」
「ともかく、あの化け物を処分するなり、追い出すなり、なんなりしてください。それまでは、私たちはお仕事をボイコットさせていただきます」

絶対零度の眼差しで宣言すると、メイド長はエルファリアに一礼すると、メイドたちを引きつれて別荘の表に引き上げていく。
残されたのは、呆然と立ち尽くすエルファリアと思う存分に吠え立てまくって、暴れ狂うケダモノのレピアのみ。

どれほど時間が立ったか分からないが、ようやく立ち直ったエルファリアは今なお暴れ来るレピアをどうにかしなくては、と思い、無意識に一歩踏み出した瞬間、手元から滑り落ちた水晶玉が足に当たり、ハッとなった。
レピアをいい意味でも、悪い意味でも、調教してくれた猛獣使いが拘束に使っていた水晶玉の檻。そこから発する魔力からして、その力は未だ健在と知ると、エルファリアは意を決して、再び水晶玉をかざし、暴れ狂っていたレピアを封じ込めた。

どうにかレピアを封じ込めたが、外に出たがっているせいか、妖しい光が明滅を繰り返す水晶玉を前にして、エルファリアは完全に途方に暮れた。
強力すぎる呪いのせいであるのは分かるが、これ以上は自分ではどうにもできない。
通常、呪いを受けたなら、宮廷お抱えの魔導師程度でどうにかなったが、レピアにかけられた呪いはどうにもならない。
かつて、レピアを見た筆頭魔導師から、あまりに強く、深く、複雑に絡んだ呪いを解くには、より強力で高位の力を持った魔導師、もしくは賢者でなくば不可能、と、なんとも悲惨なお墨付きまでいただいてしまった。
そして、今現在に至るまで、そのような人物に巡り合えずにいた結果がこれだ。
しかし、だからといってレピアをこのままにしておけない。

―高位の賢者なんて御方、そう簡単には……

頭を悩ませるエルファリアの目にふと留まったのは、ハンガーにかけられた一着のメイド服。
少々、マニアックな感じがする代物だが、もともとはエルファリアが、ある人物に呪いをかけられ、専属メイドとして働いていたころの制服だ。
そこまで思い出して、エルファリアは小さく悲鳴を上げ、座っていた椅子を蹴って立ち上がると、水晶玉を抱えたまま、大急ぎで別荘を飛び出した。


水晶玉の檻からレピアが解放された瞬間、部屋中に漂った凄まじい悪臭に、エルファリアは青くなり、部屋の主たる女は盛大に眉を顰め、誰はばかることなく、きっぱりと言い切った。

「いや〜ね、臭いじゃない」
「す、すみません」

小さくなるエルファリアの姿に、何を感じ取ったのか、レピアは唸り声を上げ、鋭い牙を向けて、白いローブ姿の主に襲い掛かる。
やれやれとため息を零し、女は片手を突き出すと、そこから青白い光が発せられ、あっという間にレピアを包み込む。
次の瞬間、レピアの身体は呆気なく石像と化し、ごろりと床に転がった。

「な、何をなさるんですかっ!賢者様」
「うるさい。元来人付き合いが苦手な私のところに相談に来た時点で、どうなろうと関係ないでしょうが」

半泣きで食って掛かるエルファリアだったが、容赦なく女に反論されて、黙り込むしかない。
一方、自らを正々堂々と人付き合いが苦手と言ってくれる女はエルザード郊外の森にひっそりとたたずむ祠に住まう、重度の引きこもりのくせに、聖王都の魔導師たちが束になっても叶わないほどの知識と魔力を持ち合わせた女賢者。
しかも人嫌いな割に、綺麗な子が大好きで、自分のメイドにしてしまうという傍迷惑な趣味を持っている、残念な人でもある。
そして、その傍迷惑な悪趣味の犠牲者の一人がエルファリアだったりする。
さすがに一国の王女をメイドにしたのはまずかったと思ったらしく、駆け込んできた彼女を無下に追い出すことはできなかった。

「説明されたとはいえ、なんて奴よ、その魔女と猛獣使い。自分でまいた種ぐらい自分で何とかしなさいっていうのよ」
「全くもって、その通りだと思います。力を持つ方々がこんな身勝手な真似をされると……」
「ま、私も人のことは言えないから……いいわ、調べてみましょ」
「お願いいたしますわ、賢者殿」

面倒だけど、と内心つぶやきながら、水晶玉を受け取り、中に封じられたレピアを調べ始める女賢者にエルファリアは深々と頭を下げてお願いした。
どんな姿にされようとも、レピアは大事な親友。どんなことをしても助けたいと思う。
悲痛な表情で祈るエルファリアをソファーに座らせ、相対するように座る女賢者は水晶玉を念入りに調べる。
当初はめんどくさそうに見ていた女賢者だったが、だんだんと表情が険しくなり―やがて大きくため息を零して、エルファリアを見た。

「ちょっと、この子……一体、どんな呪い受けてるのよ。野生化の呪いだけじゃない……ものすごく古い呪いまでかかってるじゃない。これを解きたいとこだけど、その前に野生化の呪いを解かなきゃいけないわ。でも」

そこまで言って、女賢者は言葉を切り、居住まいを正すと、はっきりと言った。

「あまりに複雑なんで、呪い同士が絡んでる。このまま野生化させておくか、あるいは別の人間に呪いを移すしかないわ。下手に解こうとすると、この子……レピアの精神が崩壊してしまう」

通常なら時間をかけて解呪するのだが、二つの呪いを受けている以上、どんな作用がもたらされるか分からない。
両方をいっぺんに解くことはできないが、一つを―野生化だけでも別の者に移してしまえば、深く根付いてしまっている呪いを解く可能性はある。だが、犠牲になる人間なんているわけがない。
酷な選択だが、今はこれが最善だと女賢者は思った。
このまま見捨てるか、それとも誰かを犠牲にするか。二つに一つの、究極の選択だ。

「さぁ、どちらかを……」
「それでよろしいのなら、呪いを私に移してください。お願いしますわ」

にこやかに、だが毅然と、こともなげに言ってのけるエルファリアに女賢者は気圧される。
血のつながらない、赤の他人が受けた呪いを己の身に引き受けるなどありえない。
ありえないが、この王女様はあっさりと言ってくれた。
さすがは王女様。尊敬に値する。

「良いでしょう。対価としては充分だわ」

負けず劣らずの微笑みを浮かべると、女賢者が手をかざすと、石化したレピアから抜け出した邪悪な光がエルファリアに宿る。
その瞬間、耳をつんざくような轟音と閃光が走り抜けた後、エルファリアの目から知性の光が消え、一匹の獣がそこにいた。

「乗りかかった船よ。助けてあげるわ、賢者たる称号にかけて」

やる気など見せなかったひきこもりの女賢者とは思えないほど、凛とした声が響き渡った。