<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
花嫁の刻印
六月の花嫁は女神の祝福を受け幸せになれると昼の小鳥が囀った。
漆黒の闇が支配する。木々の間を縫うように金の鱗粉が暗闇に細い道を形作る。
『いらっしゃい……こちらへ……』
甘く誘い込まれるまま、差し伸ばされた美しい爪の先に羽を休めるのは黒い揚羽蝶。呼吸するようにゆっくりとその羽根が開いては閉じる。
梅雨時の湿気を含んだ生暖かい風が吹き抜け、常夜を映す黒髪を靡かせた。手の内の蝶は決して逃げ出さない。見えない何かに縛られているように――その様に、容姿艶麗な城主の艶やかな赤い唇がゆるりと微笑む。
統べるは闇。
囚われるは聖。
寂寞とした深夜。月光に縁取られ浮かび上がる美しき古城。
夜の闇を切るようにヨダカが声を響かせ旋回し、美麗に咲き誇る薔薇園に一陣の風を巻き起こす。
舞い上がる漆黒の花びらが月光を纏い、城へ吸い込まれるように泳いだ。
そして、甘い夢路は永久の入り口となる――
●
「……ここ、は」
柔らかな寝台に身を沈め、真っ白で清潔な陽の香りのするシーツに包まれ優しい微睡みに落ちたはずだった。
暗闇の中目を覚ましたアリサ・シルヴァンティエは、自分の置かれた位置が飲み込めず、瞬きを繰り返す。
所在なさげに伸ばした指先が何かに触れると、ボゥ……と、二カ所燭台が灯る。ゆらゆらとしたオレンジの明かりに照らし出されたのは、細部にまで繊細な彫が施された重厚な、
「――扉」
それは見上げるほど高い。
そこが入り口になるのか、出口になるのか……アリサの小さな喉が緊張に上下する。
ひんやりとした冷気が頬を撫で、足下から掬うように身体の熱を奪っていく。一歩踏み出せば、カツンと石床を弾く高い音が鈍く響いた。
アリサの視界を何かが横切り、アリサは自然とその動きを目で追いかける。
「花びら……?」
ひらり、石畳の廊下に舞い降りた花びら。まだ散るには早いのではないかという瑞々しさを感じる黒い花弁――薔薇だろうか?――それが扉を開く鍵となる。
ギ……ギギ……ッ。
蝶番の音が重く響く中、目の前に広がった圧倒的な空間にアリサは刹那息を飲む。
室内から流れ出てくる大気は、それまでアリサを包んでいた光を孕んだような暖かなものとは明らかに違い異質なもの。対照的なもの。
振り仰げば天井まで届く巨大なステンドグラスが月光を通し、美しく繊細な色合いを室内に映しだしている。その光を追うように視線を下げれば足下には薄暗い中でもはっきりと分かる、真っ赤な絨毯。続く先には祭壇が見て取れた。
――とすれば、ここは、
「聖堂?」
アリサは、口内でぽつりと呟く。その時初めて気が付いた。自分の動きにあわせてひらりと舞うのは純白。ふんわりと柔らかなオーガンジーの幅広のスカート。手にはシルクのグローブ。胸元で光るのはドロップパール。白薔薇をモチーフとした装飾に、滴のようにちりばめられた宝石も一級品なのだろう、僅かな光彩を吸い込み自ら光を発するように輝く。女性ならば、生涯の内一度は袖を通してみたいと夢見る一着だろう、ウェディングドレス、まさにそれだ。
アリサもその美しさに刹那捕らわれ感嘆の吐息を漏らす。そして同時に、何より身体にしっとりと馴染む感触が心地良く奇妙に感じた。まるであつらえたかのようにぴったりだ。
「私は、夢を見ているのでしょうか?」
夢。その単語が実にしっくりとした。アリサは怪訝な表情のまま室内に一歩……カツン――靴音は高い高い天井に反響する。
もう一歩、踏み出せばあとは自然と止まることなく次の足が出る。
アリサが向かうその先で、
「そう、そのまま」
すらりと伸ばされた腕。上向きに差し伸ばされた手のひら……流れるように内側へと折られる指先が白薔薇の君を招く。
●
最初からそこにいたのか。
アリサが見つめたその先には、香り高く咲き誇る黒薔薇の如き麗人。人とも並のエルフとも雰囲気を異するアルテミシア。遠目でも、赤く縁取られた艶やかな唇が弧を描き甘く微笑み、泡立つシャンパーニュのような黄金色の瞳がアリサを捕らえている。
「アリサ……いらっしゃい……」
声を張ったわけではない。到底届く距離ではない音。それがはっきりとアリサの耳へ届き頭の奥へと響き、招かれるまま足が赤い絨毯を踏む。
彼女の後ろを追いかけるドレープの裾が忍び寄るような黒を纏う。
「……ぁ」
後一歩を引き寄せるように、アルテミシアは白魚のようなアリサの手を絡め取る。
「アリサ」
「……はい」
対峙したアルテミシアの呼びかけに応えたアリサの瞳には、彼女の色が落ち全身に染み渡るよう溶け込んでいく。
「美しき花嫁。さぁ、誓いなさい」
――誓う。私が誰に一体何を誓うというのです……。
僅かな意識の中で問いかける理性。
しかし、それも僅かな刻。アリサの逡巡する心は黒く塗りつぶされた。
滑らかな指先がアリサの頬を辿り、ゆっくりと首筋に触れ、胸元に触れる。その感触は優しく心までもを覆い包み込むように触れ直ぐに離れた。その指先を自身の唇へと運び満気に微笑んだアルテミシアは離れた指先を名残惜しげに追いかけるアリサに続けた。
「女を……私、アルテミシアのみを愛するか」
聖堂の様式を模した器は背徳的で退廃的な空気が濃密になる。
煌めくステンドグラスの光が入り口の方から徐々に闇に飲み込まれて行く。
燭台の炎が無風の中揺れ動き妖しげな陰影を映した。そして、アリサは気が付く。アルテミシアの瞳に映る自身の姿と対峙し、己がどう応じるべきかを理解する。
アリサの甘く色づいた唇が、僅かに開き音を紡ぐ。
「……誓います」
心が解放されたように悦びで満ちる。
「これまでの人生すべてを捨てるか」
「誓います」
アリサの脳裏にかかった靄は濃くなり、これまで自身の人生とは何だったのか曖昧になる。
今、自分にあるのは目の前の帰依すべき、愛すべき一人だけ。だから――
「私に心身を捧げるか」
「誓い、ます――」
それは、至極当然のこと。
尾を引くようにまとわりついていた黒が沁み込んでいく。
白と黒。その境界線が曖昧になっていく。純白のドレスが彼女の色に染まる。
愉悦に笑むアルテミシアの姿にアリサは身の内から沸き立つ法悦に満たされた。
それはとても心地良い。
「誓いは、この口づけに……」
整えられた爪の先が、つっとアリサの唇をなぞる。それとほぼ同時に二人の距離がゼロになった。
「……んっ」
甘く蠱惑的な口づけ。
――嗚呼。これが、私の全て……。
ぱん……っ!
白光が弾けアリサを包む真白が完全なる闇へと染まる。対峙したアルテミシアと同じ色に染まったドレスに彼女自身が気が付くこともなく、その黒き瞳は恍惚とした艶を帯びた。
真っ赤な絨毯に烏羽色が広がる。
アルテミシアの膝元に恭しく跪いたアリサの差し出した左手を受け取ったアルテミシアはその手からグローブを抜き取ると、そのすべらかな手のひらを一撫でし、薬指へと花嫁の証を滑り込ませた。
指輪は、最初から彼女のためにあつらえたようにしっくりと収まり、その薬指の根本で存在を主張するように妖しく光る。
「アルテミシア様」
瞳の虚ろさとは対照的に恍惚とした表情で、か細い声を漏らしたアリサの手を絡め取り引き上げると、アルテミシアはアリサの腰へと腕を回し顎へと手をかけ、そして――
「……っあ」
アリサは与えられる深く濃密な口づけを受け入れ、熱い吐息を漏らし、その快楽に縋りつくようにアルテミシアに体重を預け身を傾けた。
離れることは許さないとばかりに、魅せられるアルテミシアの甘い拘束はアリサの全身へ甘美に木霊し支配する。
「アルテ、ミシア、様……私、の……」
掠れる声……そのうちに秘めた想いがアリサに募る。
――わた、し、の……
●
「っ!! はっ、はぁ、はぁはぁ……」
大きく寝台を軋ませアリサは一息に覚醒した。
咳吐くように慌てて上体を起こし、室内を見渡した。
そこは、今夜目を閉じた場所と同じだ。
何も……、そう、何も変わったところなどない。
あるはずない。
アリサは、汗ばみ震えている自身の身体を強く抱きしめ、全身で大きく息を吐く。
「私は……私は一体……」
夢を見ていた。
背徳的な悪夢だと確信めいたものはある。脳裏で明滅する艶やかな肢体。艶めかしくも美しい所作。
内容が今すぐに思い出せないのが不思議なくらいだ。
意図せず、自身の左手を見た。もちろん、そこには何もない。何故確認したのかも分からない。
「何という夢を……」
震える指で、自身の唇に触れる。とてもいけないことをしてしまったような気がした。けれど、それはとても甘く幸福なこと、あるべき自分の姿がそこにあるような……。
「あぁっ」
胸元にシーツを掻き抱き、求めてやまない気持ちを押し殺すように顔を埋めくぐもった声を漏らした。
●
美しい黒髪がシーツの波間にたゆたう。
「……ふふっ」
長い睫が頬の上で震え金の瞳を開く。それまで見ていた夢での舞台と同じ城内。自分には及ばないまでも、長く歴史を重ねてきた古城。
夢と異なるのはその居場所。聖堂からは遠く離れ、そこはアルテミシアが寝室として使っている部屋の寝台の上。
夜色の風を形どったように降りた天蓋のカーテンの奥でアルテミシアは微睡みから覚醒した。
彼女は、さらりと前に流れてきた前髪をかきあげ瞳を細める。
そして、目を付けていた聖女の純白な心に黒い染みを作った確かな手応えに口角を引き上げ、つ……っと下唇を舐め、ほくそ笑んだ。
それはまるで、果実が熟すのを待ち望むように……、葡萄酒が芳醇な香りと共に熟成されるのを待ち構え、美酒を味わうその時を心待ちにするように……――
統べるは闇。
囚われるは聖。
カシャン……ッ
囚われた小鳥は囚われたことに気が付けない……気づいたときには、もう――貴女は私の一部――
【花嫁の刻印:了】
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