<東京怪談ノベル(シングル)>


時の彼方からの契約〜前編

木々の隙間から零れ落ちる日の光。柔らかな木漏れ日。
人にとってごくごく当たり前のことが、胸が高鳴るほど嬉しく思うのはおかしい事だろうか?
いや、そんなことはない。
寧ろ、自分にとって当然のことだ、とレピアは思う。
何せ日の光を浴びて歩くなど、実に数百年ぶりのことなのだ。
その身に受けた石化の呪縛から解き放たれたのだ。嬉しくて嬉しくて、小躍りしたくなる。
浮足立ったレピアだったが、本当に踊り出してしまうから、その喜び具合は相当なものだろう。

だから、といって、派手に踊り出すなど、尋常ではない。
自分で呪いを解いておいてなんだが、と、女賢者は思う。
正直、ここまで喜びを露わにするのは、若干引く。
―なんで関わったんだろう……ま、美女を愛でられたのは良かったけど
ものすごく身勝手極まりない感想を心の中でつぶやくと、女賢者は自分の庵である祠に引っ込んだ。

軽やかに、艶やかに舞い踊るレピアの姿にエルファリアも笑顔を零し、見つめているうちに、自身も華麗なステップを踏んで踊り出す。
それだけ喜びが深かったのである。
一緒に舞い踊る姿はそれは美しかった。
そう、踊る姿は美しかったが、住まいである別荘に帰り着いた瞬間、絶叫が轟いた。

「ななななななななっ、なんなんですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!姫様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「耐えられませぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇんんんんん!!」
「何考えているんですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

浴びせられたのは、凄まじい限りのメイドの金切り声に怒号。
悲鳴を上げ、奥へと引き下がっていくメイドたちの群れが二つに割れ、背を伸ばし、ギンッ!と目を吊り上げたメイド長が怒りのオーラを迸らせ、帰ってきた主たる王女とその友人を睨みつけた。

「ど……どうしたの?メイド長」
「どうしたの?……では、ありませんっっっ!!なんというお姿、匂いなんですかぁぁぁぁぁっ!!さっさと湯あみをしてきてくださいませっっ!!」

怒り爆発寸前の姿に怯え、抱き合うエルファリアとレピアにメイド長は怒りの沸点を限界が突破したのか、凄まじい怒号と共に、問答無用に二人を風呂場へと放り込んだ。

たっぷりと惜しみなくあふれ出る湯。芳しい香りのする石鹸に香油。
押し込められて、数秒。何があったのか分からなかった二人だったが、ようやく状況を飲み込め―くすりと笑い出す。
考えてみれば、当然のこと。
レピアを助けるためとはいえ、野生化し、数か月間森で暮らしていたのだ。
全身、泥だらけの上に粗相だらけ。歩く悪臭と化していたのだから、メイドたちが悲鳴を上げ、メイド長が激昂するのも無理はない。

「さっそく洗いましょうか!エルファリア。こんなに汚れてしまったのは私が原因ですから」
「そんなに気にしなくていいわ、レピア。全ては貴方の……」
「何言っているの!私のせいで貴方がどんなにひどい生活を送っていたと思っているの!!徹底的に洗い清めて、元の麗しい王女・エルファリアにしてあげるわ!」

腕まくりして、たっぷりと泡立てた石鹸のついたスポンジを手にすると、レピアはエルファリアの背を洗い出す。
あっという間に真っ黒に染まり、二度三度、湯を掛け、石鹸を泡立てていくうちに綺麗になっていく。

「やっと綺麗になって来たわね、エルファリア。この美しい、白い肌があんなに汚れていたのよ?獣の暮らしは凄まじかったのよ」
「実感がこもっているわね、レピア。貴方も相当ひどかったんだけど」
「え?……私もそうだったの?」
「ひどいなんてもんじゃないわ!森の中を素足で駆けずりまわったり、泥の中を転がりまわったり……自分の粗相を塗りまくったりと、それはもうひどい有様だったのよ」

自分自身もそうだったことを棚に上げ、拳を握って力説するエルファリアに、初めのうちは恥ずかしさから赤くなっていたレピアだったか、聞くも絶えない惨状に耳を覆いたくなり―どんどんと顔が青ざめていくのが分かった。

「獣同士の争いで噛みつく、ひっかく、切り裂くなんて当たり前……日常茶飯事。それだけじゃないわ。貴方は誰にもなつかなくて、歯をむき出しにして威嚇して、暴れる。そこかしこに粗相をしてしまう。最後には裏庭に放つしかなかったのよ」

ほう、とため息をついて語るエルファリアを前にレピアは完全に凍りつき―言葉を失った。
エルファリアの野生化した姿を見て、自身もひどかったのではないか、と想像していたが、まさかここまで酷かったとは思いもしなかった。

「まさか、ここまで酷かったなんて……」
「メイドたちはものすごく嫌がって、1年たつと、ボイコットして……もっと思いやりを持って」
「い……いえ、エルファリア。それは無理だわ!寧ろ、メイドたちが怒るのは無理もない事よ。あああああ、なんて迷惑をかけたのかしら」
「でも、私もそうだったのでしょう?どっちもどっちですわね」

にっこりと笑うエルファリアにレピアはそうでじゃないでしょう、と言いたかったが、覚えていなかったとはいえ、ここまで迷惑をかけていたことを知り、がっくりと肩を落とす。
エルファリアの野生化を見ただけに、その凄まじさはよーく分かっている。
手つかずの自然の中を四本足で駆けずり回り、昼夜を問わず暴れ回っていたエルファリア。
その姿に麗しの王女の姿など微塵も感じられず、見事な野生の獣がそこにいた。
思うがままに暴れ回り、そこいら一帯を破壊尽くす姿。
思い出すだけで、頭が痛くなる。

―ああもう、訊くまでもないわ。迷惑かけたんじゃないのよぉぉぉぉっ!!

肌も露わな姿で、四本足で森の中を駆けずりまわり、獣たちを率いて遠吠えをする自分を想像し―声ならぬ絶叫を上げるレピアを、理由は深く考えないが、エルファリアは暖かく微笑むのだった。


いきなり頭を下げられ、メイドたちの間に動揺と困惑が一気に広がっていく。
当然の反応だろうな、と思いつつも、レピアは己の言葉を覆す気は毛頭なかった。

「そ……そうはおっしゃられましても、レピア様。私どもの務めでありますから、そのような御提案を頂きましても、戸惑うばかり……考え直していただきたく思います」

困惑するメイドたちを代表して、メイド長がきっぱりと拒否の意向を示すが、意味をなさなかった。

「いいえ。有難い言葉ですが、お断りします。大体、今回の一件は全て私が招いたことですもの……この1年、どれだけ皆さんにご迷惑をかけたと思います?」

ここへ帰ってきた時の皆さんの反応が全てを表していますわよ、と内心毒づくも、表には微塵にも感じさせない。
ただひたすら綺麗な微笑みを称えて、メイドたちの反対を封殺する。
だが、冷静に考えてみれば、かなり無茶な提案をしている。メイドたちが戸惑うのも無理はない。
なにせ、今日から丸一日、全メイドたちに休みを与え、レピアが一切の家事を引き受ける、という提案をしたのだから。
聖獣王から別荘の家事一切を取り仕切るように命じられているメイド長を筆頭としたメイドたちが唖然とし、即座に拒否したのは当然の流れだろう。
けれども、迷惑をかけてしまったレピアがこの程度で引くわけにもいかなかった。
にらみ合うこと数十分。無言の火花を散らし続ける不毛極まりない戦いは、別荘の主たるエルファリアの一言で決着がついた。

「よろしいではないですか、メイド長。私もこの一年、皆さんに迷惑をかけてきました……だから、この提案を受けてください。ささやかなお詫びとお礼をさせて欲しいのです」
「っ!!姫様っ!!」

聖母が如き慈愛に満ちた微笑みを零すエルファリアの絶対的なひと言に、メイドたちは感激し、しばしむせび泣き―レピアの提案を受け入れた。
いや、どちらかというと、主たるエルファリアの命令だから従った、というところだろう。
第一、彼女たちの主である彼女が別の思惑があったり、心から案じて言っていたとしても、それは全て命令になる。
それは絶対かつ至上のものとなるのだから、逆らうわけがない。
まあ、何はともあれ、レピアは無事に一日メイドに就任することが出来たわけである。

餅は餅屋。蛇の道は蛇。一筋縄でいかないのだから、その筋の専門家にまかせろということだが、レピアはそれなりに器用だった。
テキパキと片づけをすませ、夕食の支度に取り掛かる。
完璧なリズムにメイド長は呆気にとられるも、そのレベルはあくまで家事程度。
王家付きとして鍛え上げられたメイドたちとは違うが、一生懸命さは充分に伝わった。
伝わったが、今、部屋を満たす強烈な香辛料の香りにはダウンしてしまう。
全てを引き受ける、と言っていたが、まさか料理まで引き受けるとは予想外。
別荘の料理人たちに丸一日休みを与え、その代わりにレピアは台所に入りこむとは思いもしなかった。
しかも、手際良く動き回り、(あくまで家庭レベルだが)見事に片づけていくから、見事なものである。
けれど、この香辛料の香り。別に嫌なものではない。嫌なものではないが、別荘中に流れるとは信じ難い。
どうしたものか、と考え込むメイド長の前に差し出されたのは、薄くサフランの色で色づいたライスの横にかかった褐色のクリーム―というか、スープ。
しかも、野菜や鶏肉などがたっぷりと入ったシロモノ。
多少のことでは動じないエルファリアも、目の前に出された料理に首をかしげた。

「レピア、この料理は何かしら?」
「ああ、これは砂漠では一般的な料理よ。ちょっと珍しかったかしら?」

困ったように首をかしげるレピアにメイドたちは少しばかり顔を見合わせ、その料理を口にし―皆が水を求めて、水道に殺到したのは御愛嬌ということにしておこう。

ふんわりした羽毛の枕。ピシッと敷かれた真っ白なシーツ。
その上にかけられるのは、極上の羽毛が詰められた掛布団。
王女にふさわしい品々に囲まれた寝所で、すっかりとベッドでくつろいだエルファリアにかいがいしく仕えているのは、レピア。
今日一日、見事にメイドの仕事をやってのけたので、エルファリアは素直に感心していた。

「本当に素晴らしかったですわ、レピア。貴方は何をしても器用なのね」
「そんなことはないわ、エルファリア。ご迷惑をかけたのだから、当然のことよ」

素直なエルファリアの賛辞にレピアは微笑しながら、柔らかな手つきで後ろからエルファリアの首に腕をからめる。
くすぐったそうに首を竦めるエルファリアに構わず、レピアはそのまま、彼女のほっそりとした首筋に唇を這わせ、ゆっくりと上下になめ上げる。
びくりと身体を震わせるエルファリアをレピアは口元に確信犯じみた笑みを浮かべ、そのまま押し倒す。

「レ、レピア?」
「力を抜いて、エルファリア……大丈夫、ひどいことはしないから」

そっと耳元でささやきながら、レピアはエルファリアの耳に噛みつき、なめ上げ―そのまま、エルファリアの寝間着に手を掛けた。
同時に揺らめいていたランプの灯がふっと消え、月明かりのみが支配する。
全ては秘め事。闇のなかに浮かぶ月だけが全てを見ていた。

息を詰めるような不思議な感覚にエルファリアはぼんやりと目を開けると、優しく笑うレピアと目があった。
こてんと首をかしげて見つめてくる彼女にレピアは苦笑する。

「どうしたの?エルファリア」
「ねえ、レピア。貴方、何か違うのかしら?なんだか、不思議な感じが」
「あら、さすがね……なら教えてあげる。私の身体の秘密を」

エルファリアの髪を優しく梳きながら、レピアは誰にも明かさなかった秘密を語り始めた。