<東京怪談ノベル(シングル)>


堕ちた鳥乙女


 濃密な苔の臭いが、立ち込めている。
 半ば水没した、遺跡であった。
 かつては荘厳な神殿か何かであったと思われる、広大な石の廃墟。
 その中枢区域に、レピアはいた。放置されていた。
 美しい肌は、固く冷たい石と化し、臭い立つほどの苔を群生させている。
 背中からは、一対の翼が広がっている。半ば、折りたたまれている。決して羽ばたく事のない、石の翼。
 一見すると、翼ある石の女人像である。
 それがレピア・浮桜である事をしかし、エルファリアは知っていた。
「レピア……」
 語りかけてみても、その声は届かない。
 咎人の呪いから解放されたはずのレピアが、石像と化している。
 その石化を解く事が、自分には出来ない。それもエルファリアは理解している。
 何故ならここは、夢の中であるからだ。
「レピアめの過去の記憶に、ちと興味深いものを見つけてのう」
 遺跡内を彷徨うエルファリアの傍に、いつの間にか、小さな人影が立っていた。
 外見は、6〜7歳ほどの幼い女の子。
 すでに160回近い若返りを実行している、賢者の老婆である。
 咎人の呪いからレピアを解放してくれた、恩人とも言うべき人物なのだが。
「貴女が何故、このような所に……と言うより、ここは一体……?」
「おぬしとレピアが、仲良う一緒に見とる夢の中じゃよ。本当は、わかっておるのじゃろ?」
 女賢者が言った。
「こやつの過去を、一緒に見てみようではないか」
「そんな……レピアの心を、覗き込むような事を……」
 そんな事を言いつつも、エルファリアは逆らえなかった。
 レピアの事を、もっと知りたい。その欲求に。


 夜の港町の、いささか治安の良くない区域である。
 このような場所では、まあ、よくある事ではあった。
「た、助けて……誰か! 助けてーっ!」
 家出娘、であろうか。十代半ばの少女が、何者かの集団に追い回されている。
 その集団が、例えば不良男の群れであれば、迷わず全員、蹴り殺すところである。
「ちょっと……ちょっと、お待ちよ」
 レピアは声をかけながら、踏み込んで行った。
 少女が、背中にすがり付いてくる。
 何者かの集団が、レピアを取り囲む形に立ち止まった。
 全員、黒装束に身を包んでいる。が、間違いない。体つきを見れば明らかである。
 若い女の、集団であった。
 レピアは、とりあえず声をかけた。
「駄目だよ、あんたたち。そりゃ、あたしも女の子が好きだから偉そうな事言えないけど……こんな集団で無理矢理なんて、男みたいなやり方」
「邪魔立てすると容赦せんぞ、痴れ者が」
 黒衣の女たちが、口々に言いながら剣を抜く。
「我々は、その娘に用がある。神聖な目的だ」
「その娘はな、選ばれたのだよ……暗黒の女神と戦う、鳥乙女として!」
 女たちが一斉に、斬りかかって来る。鋭い斬撃が、様々な方向からレピアを襲う。
「良くないお薬、キメちゃってるみたいだね……」
 レピアは身を翻した。
 しなやかに鍛え込まれた踊り子の肢体が、優美な回避のうねりを見せる。うねる曲線をかすめるように、女たちの剣がことごとく空振りをする。
 空振りをした剣が、片っ端から蹴り飛ばされた。
 レピアの右足が離陸していた。瑞々しい脚線が、鞭の如くしなって一閃する。
 得物を蹴り飛ばされた女たちが、たじろいで後退りをする。
 蹴り終えた右足を優雅に着地させながら、レピアは叫んだ。
「逃げて!」
「は、はい! ありがとうございます」
 少女が、逃げて行く。
 追う余裕もなく、女たちが狼狽している。
 薬物中毒者の集団なら、もう少し痛い目に遭わせてから官憲に引き渡すべきか。
 そんな事を思った瞬間、レピアの身体は硬直した。
 東の空から差し込んでくる白い光が、全身に容赦なく突き刺さる。
「いけない……夜明け……!」
 レピアは、石像と化していた。


「う……っ……」
 生身に戻ると同時に、レピアは目を覚ました。
 四肢に、鎖が巻き付いている。
 石の寝台に、レピアは拘束されていた。
 束縛された踊り子の肢体を、黒装束の女たちが取り囲んでいる。
 彼女らの中心人物と思われる老婆が、言葉を発した。
「咎人の呪いを受けし、傾国の踊り子……そなたこそ、我らの守護者にふさわしい」
「……ここは、どこ? いけない薬でトチ狂った連中が、一カ所に集まって変な夢見ちゃってるわけ?」
 レピアは嘲笑い、挑発して見せた。
 怒った様子もなく、老婆が答える。
「ここは我らの島……思い出さぬか、そなたは島の守護者であるぞ」
「守護者……」
 老婆の言葉が、頭に染み込んで来る。脳漿に溶け込んで来る。
 記憶を上書きされつつある、とレピアが気づいた時には、もはや遅かった。
「島の民を脅かす、暗黒の女神と戦う……そなたは、聖なる鳥の乙女よ」
「鳥……乙女……うっぐ……ぁああああああ……」
 冷たいものが降りて来た、とレピアは感じた。
 凍え始めた全身を、石の寝台の上で暴れさせる。
 しなやかな四肢が激しく鎖を鳴らし、綺麗にくびれた胴の曲線が悶えうねり、豊麗な胸の膨らみが天井向きに暴れ揺れる。
 そんなレピアの肉体を、精神を、冷たい何かが侵蝕しつつあった。
「抗ってはならぬぞ傾国の踊り子よ。鳥乙女の御霊を、受け入れるのだ」
 老婆の声が、次第に遠くなってゆく。
「そなたは生まれ変わるのだ……呪われし咎人から、聖なる守護者へと」


「ごめんなさいレピア……貴女の夢を、勝手に覗き込んでしまって」
「いいって。エルファリアとあたし、同じ夢見てたって事でしょ? むしろ嬉しいよ」
 レピアが、いくらか恥ずかしそうに微笑んだ。
「一緒に寝て、同じ夢を見れて……あたし、幸せだから」
「レピア……」
「で……あたしたちが一緒に寝てる寝室に」
 天井から吊り下げられているものを、レピアはじろりと睨み据えた。
「勝手に入って来てる奴がいるんだけど。何? 変質者?」
「よ、よく考えてみるのじゃ。こんな可愛い変質者、おるわけなかろ?」
 女賢者の小さな身体が、ぐるぐる巻きに縛り上げられている。
 それをぷらーんと揺さぶりながら、レピアは言った。
「ねえエルファリア、確かエルザード城のお濠で水竜を飼ってたよね。餌が不足してるって事はない? 若返り済みの人肉とか、どう?」
「駄目なのじゃ! わしの身体はの、いけない添加物をたんまり使って若返っとるのじゃ!」
 天井から吊られたまま、女賢者がじたばたと暴れ、泣き喚く。
「やめなさいレピア。この方はね、貴女にとっても恩人なのよ」
 エルファリアは言った。
「それよりレピア……辛かったでしょうね。貴女に、あんな過去があったなんて」
「まあ、辛いと言えば辛かったかな。聖なる鳥乙女なんて役割を刷り込まれて……暗黒の女神とかいう化け物と、戦わされて」
 レピアが、遠くを見つめた。
「あたし、何回も負けて……」
「……最後には、勝ったんかの?」
「その辺りの話は、また今度」
 レピアは女賢者を、振り子のように揺さぶった。
「夢に忍び込むなんて小賢しい真似しなくても、機会があれば話してあげるよ」