<東京怪談ノベル(シングル)>


災いの始まり


 それは、人間の赤ん坊だった。
 魔族や、太古の邪神の眷属……といったものの類ではない。
 人間の父親と母親の間に生まれた、人間の命なのである。
 私はそう自分に言い聞かせ続けた。
 そうしなければ、その子を人間と認識する事が出来なくなってしまいそうであった。
「お願いでございます、王女様……どうか、この子を助けて……」
 母親が、その赤ん坊を抱いたまま泣き崩れる。
 エルファリア王女は何も答えず、息を呑んだまま、その母子を見つめていた。
 たおやかな美貌が、青ざめている。
 わかりました、助けて差し上げましょう。などと軽々しく言える事ではない。
 エルファリア王女の側近と言うか侍女のような立場で同行している私セレスティアもまた、同じような表情をしているのだろう。否、王女ほど毅然とはしていない。無様な怯えの表情を浮かべてしまっている、のかも知れない。
 化け物を見る目を、赤ん坊に向けてしまっているのかも知れない。
 母親の腕の中で、その赤ん坊は動いた。と言うより蠢いた。
 象皮病。プロテウス症候群。魚鱗癬。水頭症。
 様々な病名が、私の頭の中に浮かんでは消える。
 日本人サラリーマンだった頃、奇病に関する画像サイトを面白半分に閲覧しているうちに、何となく記憶に残ってしまった単語である。
 今、私の目の前で蠢いている赤ん坊は、それら全てに当てはまるようでもあり、そのどれでもないようにも見える。
 この母親が、藁にもすがる思いで書いた陳情書が、幸運にもエルファリア王女の目に止まった。
 いや、本当に幸運と言えるのか。
 王族の力をもってしても結局、何も出来なかったという結果にしか、ならないかも知れないのだ。
 高位の神官や僧侶といった回復魔法の使い手たちが、王女の要請を受けて力を振るった。
 だが、この赤ん坊を救う事は出来なかった。
 当然だ、と私は思う。
 この子は、怪我をしているわけではない。病に冒されているわけでもない。
 いや病には違いなかろうが、取り除く事の出来る病ではないのだ。何故ならこの子は、病と共に生まれてきたのだから。
 この姿こそが、本来あるべき状態である、という事だ。
 私の力で、怪我を治す事は出来る。健康に暮らしていたのに突然、伝染病にでも罹ってしまったのなら、治す事は出来る。
 人の肉体を「本来あるべき状態」に戻すのが、水操師たる私の力なのだ。
 すでに「本来あるべき状態」にあるものを、どうこうする事は出来ない。
「セレスティア……」
 エルファリア王女が、声をかけてくる。
「1度だけ訊きます。貴女の力で……この子を救う事は、出来ますか?」
「それは……」
「1度きりの問いです。貴女も1度だけ、はっきりと答えて下さい」
 エルファリアの口調は強い。優しいだけの王女ではないのだ。
「答えがいかなるものであれ、貴女が責めを負う事ではありません。責めを負うべきは」
「……貴女でもありませんよ、エルファリア王女」
 言いつつ私は1歩、母子に近付いた。
 泣きじゃくる母親の腕の中から、赤ん坊がじっと私を見上げてくる。どこに目があるのかはわからないが、とにかく見つめられている、と私は感じた。
「……試してみたい事が、1つあります。ずっと前から、いろいろ研究していた事ですけど」
 私は言った。
「私は、お子さんで人体実験をしようとしています。それでもいいですか?」
「構いません……」
 このままでは誰からも忌み嫌われる存在としてしか育たぬであろう我が子を、母親はギュッ……と抱き締めた。
「この子が……助かるのでしたら……」
「助かるかどうかは、わかりません。失敗したら、私を恨んで下さい」
 どのような姿であろうと、愛さえあれば救われる。
 そんなものは綺麗事でしかない、と私は思う。
 この母子を本当に救いたいと思うのであれば、するべき事は2つある。
 痛ましいほどに醜悪無惨な、この子の姿を変えてやる事。
 それが不可能ならば、出来る限り苦痛を与えぬよう、この子の命を奪う事。
 何もせず、ただ母親に「どのような姿であろうと貴女の子供なのだから、母親として無償の愛を注ぎなさい」などと強制して放置する。
 そんな事をするくらいなら、人体実験であろうと何であろうと実行するべきだ、と私は思う事にした。


 パラレルワールド、という考え方がある。
 ファンタジー系の作品では、ありがちどころか、あって当然とも言うべき設定で、漫画でも小説でもアニメでも多くの場合、これが成立している事を前提に世界観が作られていたりする。
 このソーンという物語はどうか。
 この世界を創り上げた偉大なるクリエーターが仮にいたとして、彼もしくは彼女は、パラレルワールド設定を用いているのか。
 私は目を閉じ、念じた。
 禁断の領域に、アクセスしようとしている。
 おかしなウィルスに感染する、どころではない事態が生ずるかも知れない。
 いた、と私は感じた。
 母親が、幸せそうに笑いながら、赤ん坊を抱いている。
 普通に愛らしい、人間の形をした赤ん坊である。
 この子が普通の赤ん坊として生まれてきた分岐世界は、確かに存在するのだ。
 類感呪術……いわゆる「丑の刻参り」の本物とも言うべき黒魔術が、ソーンには存在する。
 呪うべき相手に見立てた人形を、針で穿ったり焼いたり破壊したりする事で、その相手本人の身にも苦痛や破滅をもたらす。
 術者次第では本当にそんな事が出来る世界なのである。
(あなたたちは人形ではない、本物だ。人形に釘を打ち込んで相手を苦しめる……そんなレベルではない奇跡を、起こせるはずだ)
 幸せそうな母子に、私は語りかけた。
(だから、お願いです。少しだけ……ほんの少しだけでいい、その幸せを分けて下さい……)


 私は、目を開けた。
 泣きじゃくっていた母親が、呆然としている。呆然としながら、腕の中の我が子を見つめている。
 愛らしい、人間の赤ん坊を。
「あ……ああ……」
 母親が、今度は歓喜の涙を流し始めた。
「ありがとう……ありがとう、ございます……」
 だぁ、だぁ……と声を発する赤ん坊を抱き締めながら、そんな事を言っている。
 私は耐えられず、背を向けた。
「セレスティア……」
 何か言おうとするエルファリア王女にも背を向け、私は民家の外へと飛び出した。
「リヴァイアサン……聖竜リヴァイアサン……」
 よろよろと壁にもたれながら、呼びかける。
「私は、水操師として……してはならない事を、しました。本来あるべき状態を、変えてしまったんです……どうか罰して下さい、リヴァイアサン……」
 リヴァイアサンは、何も応えてくれない。
「私の声が届いていないのですか、聖竜よ!」
『そう叫ぶな。聞こえている』
 聖竜リヴァイアサンが、もちろん姿は見せぬまま、困ったような声を発している。
「リヴァイアサンよ、私は……!」
『面倒な事を言っている。そう思って返事をしなかったのだ……セレスティアよ。我々もな、秩序や調和のみを重んずる血も涙もない輩と思われがちだが、人間を助けてやりたいという気持ちが全くないわけではないのだぞ。お前は何も、間違った事はしていない。ただ……』
 聖竜が、言い淀んでいる。
『……お前の力が、私の想定外であったというだけの事だ。まさか、並行世界と接触出来るとは』
「やはり何か、良くない事が起こるんでしょう? 私が、こんな事をしてしまったせいで」
『何が起こるかわからん、と言っているのだよ。ソーン有史以来、お前のように異世界からまれびとが迷い込んで来る事は確かにあった。だが異世界と並行世界は違う……並行世界との道が開いてしまった事など、私の知る限りでは1度もない』
「それは、つまり……」
 声が震えるのを、私は止められなかった。
 ソーンを救う、勇者か救世主のような存在として、私セレスティアは現れた。そのはずであった。
 一体、何からソーンを救うのか。いかなる災いが、ソーンを襲うのか。
 その答えを私は今、見つけてしまったのか。
「災いを、もたらすのは……私……?」