＜聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記＞
トルマリン迷宮
日も沈んだ時間、黒山羊亭のテーブルの1つに盛大にため息を漏らしながらグラスを傾ける男が一人。
「はあぁ……」
音に出してさえも分かるようなため息に、エスメラルダはそっとその隣に腰掛けて、空になったグラスにお酒を注ぎながらどうしたのか尋ねた。
「いやぁ……家に、帰りたくなくて……」
「あら、奥様と喧嘩でもしたのかしら？」
「それならまだ良かった……」
それに、俺まだ独身だし。と、男の言葉が続き、再度また響くため息。
「良ければ、話してみない？ 少しは気が晴れるかもしれないわ」
エスメラルダは向けられた視線に答えるように微笑み返し、男の言葉を待つ。
男は、ワンテンポ置いて、話し始めた。
********
数日前、突然目の前に女性がいきなり現れた。
やってきたとかそんな話ではあく、本当に突然目の前に現れたのだ。
女性は、自分が立っている場所を確認するように辺りを見回し、家の中でも奮発して買ったお気に入りのソファに腰掛けて、言った。
「紅茶が飲みたいわ」
「あ、はい」
いきなり人が現れた衝撃と、有無を言わせぬ口調。加えて、今まで見た事もないほどの美女だったこともあって、言われたとおりに紅茶を出した。
一口紅茶を口にした彼女は、一瞬、酷く不機嫌な顔をして仕方ないとばかりにカップを戻す。
「ねぇ貴方、もう下がっていいわよ？」
其処で初めて気がついた。
ここ、俺の家だって。
「待って待って！ ここ、俺の家だから！！」
「あら？」
叫んだ俺に、彼女はきょとんと瞳を瞬かせて俺を見る。
彼女はもう一度辺りを見回して、自分の指にはめている指輪を光に当てるように見やると、ふっと笑う。
「ということは、ちゃんと移動できたようね」
大陸間ではなく時空間を、だとかなんとか言っていたが、俺にはさっぱり理解できなかった。
「ねぇ貴方、あたしと髪の色が同じ男を見なかったかしら？」
「えっと、貴女一人でしたけど……」
彼女は考え込むように口元に手を当てて、ごく自然ともいえるような動作でソファから立ち上がると、俺の手を取りぎゅっと握り締めた。
ち、近い！！
「なら、お願いがあるの」
その男を捜してくれないかしら？
********
「見つからなくて、帰れないの？」
「いや………」
男の貼り付けたような微笑は、どこか諦めたような憔悴したものだった。
「部屋に、入れなくて……」
押しかけてきた女性に家を取られた？ 誰もがそんな疑問を顔に浮かべる。
「違うな……部屋が、どこか分からなっちゃって」
「え？」
男は言う。
彼女のお願いも聞きつつ、仕事から帰ると、家の中がまるで迷路のようになっていた――と。
彼女曰く、手狭だから改装したとか言っていたが、いやいや、手狭程度でそんな体積が明らかに違う改装とかほんとないから！！
男は一人頭を抱える。
「仕事から帰って、自分の部屋とか、お風呂とか、そういう部屋を探す為に、家の中の迷路を歩いてヘトヘトとか。ほんと、もう……」
「えっと、彼女にはあれから？」
「会ってるよ。今も家に居るみたいだけど、不思議なんだよね。彼女は全然迷ってないんだ。同じドア追いかけて開けてもさ、全然違う部屋だったりするんだよ！ どういうことだよ、わけが分からない！！」
頭を抱える男は、なおも丸まってしまって、より小さく情けなく見える。
「とりあえず、出てってもらう事は出来ないのかしら？」
勿論、家の中は元通りに戻してもらって。
「だよね！？ そうだよね！！ でも、どうやって彼女探そう！？ 俺から見つけられた事無いんだよ！！」
誰か、彼の家に一緒に行って、彼女を見つけて説得してもらえないか。エスメラルダは頼めそうな人を探して、辺りを見回した。
********
彼女は男の家で、ネイルを乾かしながら思った。
もし、この世界に誰も居なかったら、男を回収してさっさと次の世界へ跳ぼう――と。
********
千獣はお酒を出してもらえないためお水をちょびちょび飲みながら、エスメラルダと男性の話にじっと耳を傾ける。
一見すれば、確かに恋人の愚痴をエスメラルダにこぼしているような雰囲気だが、二人はどうやら全くそういった関係ではなく、本当に突然現れた押しかけ同居人。男性が言う彼女は、人を探しているようだが、男性の口から出るのは、部屋に思ったように戻れない愚痴が多くを占めている。
一通り愚痴った後、うぅ……と、目元を押さえた男性をそのまま見つめながら、千獣は目だけをゆっくりと1回転させながら、しばし考える。
そして、その考えが終わると同時にじっと男性を見つめた。
「……迷子……？」
ポロリと千獣の口から落ちた言葉に、男性はあからさまなほどのショックを受けて、ポロリとオシボリを落す。
「んっと……」
そんな男性の様子に、言い方がまずかったかと再び考えながら、
「家の、中で、迷う……という、ことも、そう、なんだけど……あなたは、どこへ、行きたい、の……？」
「どこって……」
口ごもる男性に、千獣は重ねて問いかける。
「自分の、部屋、とか、お風呂、とか、その、女の人、の、部屋、とか……」
男性の愚痴から出てきた部屋の数を確認するように挙げていくと、彼も何か思うところあるのか、その眉間がよっていく。
「考えが、ばらばら……迷ってる……あっちも、こっちも……考え、ながら、動いたら……獣、だって、道、迷う……」
「そうは言っても、帰ったらご飯食べたいし、風呂入りたいし、寝たいし、しょうがないじゃないか」
誰だってそれを一度に出来るはずもないのに、頭の中で行きたい場所をそんなに沢山ぐるぐると考えていては、そりゃ迷子にもなるはずだ。と、千獣は思いながら重ねて告げる。
「だから、最初に、行きたい、と、思う、部屋、一つに、絞る……」
「1つ……」
「帰ったら……まず、何を、したい……？」
男性は少し考えて答える。
「一息つきたいかな」
「自分の、部屋……？」
「それよりはリビングだね」
「なら……そう、思いながら、扉、開けて、みよ……？」
机上の空論にしないためには、実践あるのみ。千獣は早速帰ってやってみようと男性を促す。
よし！ と、立ち上がった男性は、千獣に自分の名前を告げていなかった事を思い出し、コリンだと告げた。
とりあえず、そうは言ったものの、不安そうなコリンに付き添いがてら、彼女の話も聞いてみようと千獣は一緒に着いてきた。
出て行ってほしいだけで出て行ってくれるような人ならば、今のような状況にはなっていないはずだからだ。
それならば、コリンが愚痴っていた、彼女の探し人を見つける手伝いをすれば早いと思った。
「……彼女の、話も、聞きたい……」
「分かった。まずは、他は考えず、彼女の部屋って考えて開けてみるよ」
伺うように千獣に振り返ったコリンに、大きく頷く。
コリンは、考えが迷子だと千獣に言われた言葉を、どうにか実行してしまわないよう、1回深呼吸をしながら、何度も彼女の部屋と唱えつつ、玄関の扉を開けた。
「あら？」
突然の外気にソファの背もたれから覗く銀の頭が微かに揺れる。
「お帰りなさい」
きっとあの人が例の彼女だろう。
彼女はコリンの帰宅にひらひらと手を振って応える。
「やったよ！ 一発で彼女の部屋に繋がった！ ありがとう！！」
歓喜に打ち震えるコリンは、何度も千獣にありがとうと頭を下げる。
「お客様も一緒なのね」
ちらり。と、横目だけで視線を向けた彼女の金の瞳。千獣はその瞳を捕らえると、コリンから顔をあげて尋ねる。
「……人、探してるって、聞いた……」
「ええ」
「探すの、手伝う……」
「何故？」
確かに突然現れて手伝うと言い出して怪しまれたとしても不思議ではない。だが、それは突然出会ったコリンに人探しを頼んだ彼女とて同じことである。
「……コリン、大変そう、だから……」
千獣の視線が傍らのコリンに移り、彼女もそれを追いかけるようにコリンを見やる。
「確かに貴方一人じゃ探し出すのは大変かもしれないわね」
方々に顔が効く冒険者や、白山羊・黒山羊の従業員ならいざ知らず、コリンはただただ平凡な社会人だ。仕事が終わってから人探しするにせよ、そういった方法も良く分かっていない。
「余り時間をかけたくもないし、手伝ってくれるのなら助かるわ」
彼女はちょいちょいと千獣を手招きし、ソファに座るよう促す。
其処で始めて彼女を真正面から見た千獣は、彼女の額に煌く黄色の宝石を見つけて、目をぱちくりとさせた。
「あたしが探して欲しい人のことは、彼から聞いているのかしら？」
千獣はふるふると首を振る。
彼は彼女の目的をチラリと口にはしていたが、それよりも家の愚痴の方が多かった。
「そうね。余り特徴的とは言えないけれど、あたしと同じ銀の髪を持った男の子を捜しているの」
彼女は、自分のウェーブのかかった長い銀の髪を指先で弄びながら千獣を見る。
「“同じような”ではなくて、全く“同じ”銀の髪の男の子をね」
探せるかしら？ と、伺うように見つめる瞳は、どこか値踏みされているかのようだ。
「……髪の、色、同じ……」
千獣はじっと彼女の銀の髪の見つめ、見覚えのあるその光沢に、数人の顔が浮かんでくる。
「男の、子……髪……銀……」
そういえば最近見たなぁと思い返しながら、指折り数えてみる。
あの双子に、その弟に、それから――……
「コール……」
「あ、そっちじゃないわ。そっちはむしろどうでもいいわ」
数えながら口からもれた名前に、彼女は間髪入れずに手を振る。予想外のその仕草に、思わず千獣はきょとんと目を瞬かせた。
「……知り合い……？」
「兄よ。一番上の兄。あなた、他も知っているのじゃない？」
ぐいっと身を乗り出した彼女に、その剣幕に思わず身を引く。
「あ、ごめんなさいね。あたしはカナリーよ。カナリー・ベリウム」
カナリーはぱっと笑って千獣から身を引く。
「……千獣」
「情報をありがとう、千獣。出来ればあなたが思うその子たちのところへ連れて行ってくれると嬉しいわ」
指折り数えたままの手を示したカナリーに、千獣も自分の手に視線を向ける。
「……分かった」
コリンの家がこれで元に戻るかは分からないが、カナリーの探し人もこれできっと見つかったことで、彼が愚痴るようなことはもうないだろう。
「早速行きましょ」
カナリーは千獣の手を取り、低い位置にあるコリンの額にキスをすると、嬉しそうに家から駆け出した。
☆―――登場人物（この物語に登場した人物の一覧）―――☆
【3087】
千獣――センジュ（17歳・女性）
異界職【獣使い】
☆――――――――――ライター通信――――――――――☆
トルマリン迷宮にご参加ありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
長くお待たせして申し訳ありませんでした！ 彼女が実際に出会うところまで描写はありませんが、 この後会っていると想像していただけると幸いです。
それではまた、千獣様に出会えることを祈って……
|
|
