<東京怪談ノベル(シングル)>


今宵のジュリエット


 ベルファ通りで2番目に古い古本屋に立ち寄った時、大きな装飾写本に隠れて売られていた本が目についた。背表紙は日焼けして色褪せていたが、手に取って見てみると、表紙に『戯曲集』と書かれていた。作者の名前や裏表紙は装飾写本の装飾によって削られ、手入れされずに放置されていたため劣化し、読めなくなっていた。
 中の羊皮紙はほとんど色褪せていなかった。文字も読める。ページをぺらぺらと捲っていると、戯曲集だけあってか、簡単な物語の説明と台詞、ト書きしか書かれていない。演劇に携わる者たちにはいいが、鬼灯は護鬼。主人の身の回りの世話に、演劇を必要とされたことはない。しかしなぜか、主人公やヒロイン、その者たちに関わる登場人物たちの生き様が簡潔に書かれた戯曲集を、そのまま棚に戻す気にはなれなかった。
 主様の指示で、異世界の様々な技術を求めて旅しているが、こういうものも必要かもしれない。そう、思うことにして、古本屋の主人に声をかけていた。


 主様の指示で鬼灯は工房に無数の蝋燭を並べていた。10個…50個……。指示された量の蝋燭を並べ終わると、鬼灯は作業台の上で寝るようにと、言われた。今から新しい身体の製作が始まるのだ。緊張することもなく、淡々と主様の指示に鬼灯は従った。
 作業台の傍に、古本屋で買った戯曲集が置いてあることに気が付いた。何度か読んだ形跡があり、本の上から付箋が2つ見えた。
 あの本が主様のお役に立つことができたのだろうか――。


 漆黒の美しく真っすぐに長い髪の黒さえ、染められることのない純白の肌は今宵のひと時のために用意された衣装の色をより一層映えさせていた。見慣れた工房の壁や床、家財のどの色さえも鬼灯の美しさには霞んで見えた。
『魂の核』が新たに入れられた身体は6歳の鬼灯よりも10歳ほど年上の少女の身体だった。主様によってゼンマイが巻かれた後、鬼灯は自分の新しい身体を見た。立ち上がった足は引き締まっており、衣装を取ろうと伸ばした腕はすらりと長い。
 最初に袖を通した衣装は甲冑だった。重いはずの甲冑だが、新しい身体は全身に適度な筋力があるのか重いとは思わなかった。
『異国の女騎士』
 戯曲集第2章の作品。神の声を聴き、自国の勝利のために猛進した少女の物語。信仰心に篤い彼女は神の啓示に従い、数々の偉業を成し遂げるが、最期は孤立し亡くなってしまう。その短い生涯は美しく咲き、散ってしまう花のようだった。
――主人公の少女は乙女。その身は神のものである。少女の部下となった若者は彼女に忠誠心を示すため、手の甲にキスをした。
 戯曲集の一説。
 少女を模した姿の鬼灯を見て、主様は跪き、鬼灯の手の甲にキスをした。そのまま手を取ると、抱き寄せるように鬼灯の体を引き寄せた。
 恥ずかしいような嬉しいような――感情は人形としての肉体に抑えられているはずだが、頬が少しずつ赤くなっていくのを感じた。主様は鬼灯の背中に手を回すと、先ほど取り付けた甲冑の金具を一つ一つ外していった。外すたびに、体が揺れ、鬼灯の身体が主様の身体に触れていた。
 やがて、甲冑が外されると陶磁器のような肌が露わになった。より頬を赤く染めた鬼灯に、主様は深紅のドレスを着るよう指示をした。
 深紅のドレスは戯曲集第6章の作品に登場するヒロインの衣装のようだった。
 血で血を洗う抗争を繰り広げていた二つの家の若い男女が愛し惹かれあい、若さゆえに二人で突き進み亡くなってしまう悲劇。この作品の序盤にパーティーの場面がある。二人がはじめて出会う場面である。
――ロミオはジュリエットの手を取り、華麗に踊る。
 主様は手をパンッと叩くと、鬼灯が用意した無数の蝋燭すべてに火が灯った。それと同時にスローテンポの曲が聴こえてきた。
 蝋燭の淡い光が織りなす幻想的な雰囲気の中、主様は深紅のドレスに身を包んだ鬼灯の手を取った。
『今宵は、この本に登場するキャピュレットのジュリエットのような鬼灯が見てみたい』
 鬼灯と二人、ゆったりと踊った。蝋燭の炎がとろけるように燃え、二人を優しく照らしていた。
 腕から伝わってくる主様の温かさを感じながら、鬼灯は戯曲集を買ってきてよかったと思った―――。