<東京怪談ノベル(シングル)>


解ける心、訪れた奇跡

 秋が訪れ季節は豊穣の時を迎えた。
 聖都は実りを讃え謳う祝祭が近いのも相まってその賑わいを増していた。
 とは言え、秋と呼ぶには日の光は熱を帯びたまま秋の寂しさと言うよりは夏の輝きを残し、夜の帳が下りれば、秋独特の少し寂しい澄んだ空気が、熱を冷ます。
 季節は夏と秋の間で揺れているようだった。

 蒼い男。「歪曲」のふたつ名で知られる蒼き麗人ルーン・ルン(2155)は物見遊山と言った風に街を歩いていた。
 その端正な顔立ちや歌劇を思わせる優雅で華やかな仕草は女性達の目を奪い、心を惑わす。声をかけるまでにいかぬ女性達の熱のこもった視線が投げかけられるが、ルーン・ルンはその事に気がつかない。いや、気がつかない振りをしているだけかもしれない。それは彼だけが知っていること。

 ふとルーン・ルンが足を止め視線を投げた先にはとある旅の一座の姿があった。
「アレは……」
 うたうように漏れた言葉。
 あれはまだ彼が「螺旋」のふたつ名で呼ばれていた頃、いやもっと前かもしれない、とにかく遠い昔出会った事のある流浪の民族だ。
 その時のことはまるで覚えていない。だが突如湧き出てきた懐かしさにも似た思いが彼の足を地面に縫い止め、離そうとしない。
「もし?」
 柔らかい女性の声に彼は振り返る。縫いとめられていた足が嘘のように軽やかに動いた。
 そこにいたのは少し小柄な女性。そしてその腕の中に抱かれた幼い命。服装を見るに先程まで目を奪われていた一座の者のようだった。
「もしよろしければこの子に祝福をいただけませんか?」
 穏やかな笑顔と共に女性はそう言った。
『祝福』
 彼女の言っている意味を知らないわけではない。
 と言うよりその民族を知るものならば誰もが知ってる。
 その民族では多くの者に新たな誕生を抱きとめてもらうことで喜びを分かち合う慣習がある。名の無かったそれはその子への祝福であり、母への、その民族への祝福だとされ、『祝福』と言う名で浸透していった。
 が、見ず知らずの唐突な願いを叶える謂れも必要もないように感じた。
「…どなたかト、お間違えなのデは?」
 少し芝居じみた笑みと台詞を優しい声音にのせ小首を傾げるが、母親は何かを知っているのか、感じているのか首を横に振り
「いえ。貴方が良いのです」
 と大事そうに抱えるわが子を見せる。
 そちらに目をやれば幼い命と目が合う。穏やかに笑っていた命は、何かを感じたかのように破顔し嬉しそうに笑った。
 そっと彼の指が小さな両手で包まれる。
『あたたかい……』

 様々な土地を流れてきた。様々な者に出会った。
 その中で汚され、歪められ仮面をつけるようになった。
 その力ゆえに『絶望』と彼を呼ぶ者もいる。
 仕方ない。
 全て私が悪いのだ。
 そう思わなければ、憎しみに、恨みに、心を支配されそうだった。
 悪意を向けられたから悪意を返す、それは哀しい事だと思ってきた。
 だが、心はずっと冷たかった。
 心を閉ざし、誰も受け入れず一人で生きる日々は辛く哀しかった。
 どうして気がつかなかったのだろう。
 人とはこんなにあたたかいのに。

 気がつかぬうちに、それこそ無意識に手を伸ばしていたようだ。と気がついた時、彼の表情は穏やかな微笑に変わっていた。
 何も偽らない、狂喜すら無い、ただただ穏やかな微笑。それは伝承に伝わる蒼き聖人そのものであった。

「おいで……」
 その言葉に、声に、道化じみたいつもの軽薄さは何も無かった。
 そこにいたのは慈愛に満ちた聖人だった。
 母親は微笑んでそっと我が子を託す。
 幼い命も彼の腕に抱かれる事を喜んでいるように見えた。
 初めて出会った、そして今後出会うことは無いであろう腕の中にある幼くもあたたかな命が、彼には愛おしかった。
「どうか優しくあたたかな世界に包まれることを」
 心からの言葉が口をついて零れた。
 その瞬間、体に抱く聖痕が小さく熱を持った。そして同時に辺りを柔らかな光が包み込んだ。
 日の光が雲間に隠れたのではない。光が包むと言うのも正確ではないだろう。優しい光の雨が降り注いでいるのだ。
 それはあえて言うなら「奇跡」としか言えなかった。

 目の前で起こっている状況に母親は驚きこそしたが、戸惑いも恐れも無くただ、我が子と我が子に祝福を授けてくれた蒼い麗人の安らかなる事を祈っていた。
 我が子を抱き穏やかに微笑む麗人の瞳から一筋の涙が零れたのを、そして光の中に原初の聖人を見たからだ。

 光の雨が止み、辺りが日常に戻ったのはそれから暫く経っての事だった。
「ありがとうございます」
 女性はそういって差し出された我が子を受け取ろうとした。が、我が子に触れる一瞬前でその手は止まり、そのままくしゃりと蒼い麗人の頭へと伸びた。
「……なにヲ?」
 一瞬息を呑んでから彼は苦笑しいつもの軽薄そうな言葉を紡いだ。
「貴方に優しくあたたかな光が降り注ぎますように」
 それは女性の心からの感謝と切なる願いから出る言葉だった。

 一座から離れルーン・ルンはそっと熱を持った聖痕に手をやる。
 聖痕に熱はもうない。日が傾いて風が体を冷やし始める。だが心があたたかかった。
 人は汚く、ずるい生き物だ。
 だが、あの幼子のように、母親のように、あたたかな人間もいる。
 それが分かっただけで、感じられただけで彼の冷え切った凍える心はあたためられ、癒され、救われた。
 また冷えてしまうかもしれない。
 荒み心を閉ざしてしまうかもしれない。
 それでも、彼らの存在をあたたかい人間の存在を知った。
 彷徨える聖なる傷痕は少し癒され、聖なる兆しとなる光を見つけたのかもしれない。

 それは、彼のみが知る事。
 人も神ですらも知りえぬ彼の中にだけあるあたたかな答えなのだろう。